「にいの・てつや」と言う人が書いた「ちちんぷい」と言う本に、こう言う話が出てくる。 ある日作者が喫茶店でコーヒーを飲んでいたところ(この辺が非常に懐かしいが・・・)、いかつい顔に荒い縦縞のスーツ、パンチパーマにサングラスの「いかにも」と言う40くらいの男と、こちらも男に負けないくらい派手ないでたち、化粧の厚みが数ミリはあろうか、香水プンプンのやはり40前後の女が店に入ってきた。 作者は珍しいカップルなので、視線を合わせないように観察していたのだが、やがて彼等がオーダーしたものが運ばれてくると笑いをこらえるのに必死になった。 この本を若い時に読んだ私は一人でバカ受けしてしまい、笑いが止まらなくなったのだが、数年前ここまで面白くないが、似たようなシチュエーションがあったので、少し書いておこうか・・・。 打ち合わせに行ってた時だが、かなりいろいろ話すことがあって、昼ごはんが午後2時くらいになってしまったので、みんな(と言っても3人だが)で近くのファミリーレストランに入った。 ま、こう言うカップルもいないではないが、明らかに「危ない人達」と言うカップルだったので、私も「にいの・てつや」と同じように観察していたが、やがて彼等の元にもオーダーが届き、このカップルも箸を取って食事を始めたのだが、何と「はい、アーンして・・」と始まったのである。ごっつい男が嬉しそうに女の箸からハンバーグを食べていたのだった。 何と男と女は結構な年齢の割にはイチャイチャと始まって、しまいには向かい合って座っていた席を移動し並んで座り、2人で抱き合ってしまったのだ。 その余りにも感情の感じられない視線と、まるで電話の音声ガイダンスのような抑揚の無い声はとても印象的で、このカップルは周囲を見回すと、バツが悪そうに離れ、それからは「はい、あーん」も止めて大人しく食事に戻ったのである。 私達はこのカップルより先にファミレスを出たのだが、ウェートレスのあの職務主義に徹した態度からして、カップルはファミレス常連客で、しかもああしたことから要注意人物として扱われているに違いない、という推測で落ち着いたのだった。 |
2件のコメント
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職務に忠実であり、全体の調和も個々の面子もそれなりに維持した、こんなウェートレスは陰に回ればユーモアもありそうで良いですね。
最近のどっかの議員のように、無理な命題である全員から愛されることを目指して、ひたすら波風を立てない事を旨として大事を引っ込めたり、又逆にかなり偏向した事を押しつけようとしたりする、「選良」の方々は、爪の垢を煎じて飲んだらいいかも知れません(笑い)。
察すると言う事はそれなりに良いことでしょうが、自己の知識や経験を越えて行かないことが多いでしょうから、そんな時は、虚心坦懐問い合わせればよいのでしょうが、相手の技量も有るし、現実的には困難も多いでしょう。
去年だったか、フラフラ散歩して、ファミレスで軽い食事をしたとき、60歳ぐらいの父と娘と思しき二人連れが、食事をしていて、終わった後に、娘さんが、今日は私がご馳走するからね、のような感じで少し晴れやかにレジに向かいました。幸せそうでもあるし、お互い思い遣りに満ちておりましたが、娘さんはその容貌から、ある種の生来の個性をお持ちのようでした。人生は与えられた物の中で、それぞれ幸せを見付けて生きて行くのであって、望んでも得られない事を、得ようとして不幸に成っている人々に満ちているのは、社会が多様性を許容する事が出来なくなって来ているのでしょうかね。
ハシビロコウさま、有り難うございます。
仰る通りだと思います。
安易で一般的な「幸福の概念」に依存した民衆と言うものは「他の選択」に対して怠惰と不安を憶えてしまう。他者の意見を自分のものにして、それで安心してしまうと僅かでもそこから外れると不幸だと思ってしまう。でも生まれた時から人は全く同じ環境には生まれないし、他者と同じ容積では生まれない。幸福やその反対の状態はどんな辛い場面でもどんな楽しい場面でも存在し潜んでる。これに気づかない事が本当は最も不幸な事なのかも知れません。
昨日はステージ4のがん患者、とてもお世話になった方のお見舞いの為遠出しましたが、私の事が分かり、本人はもう喋れないのですが私の話す事に笑顔を見せてくれた、こんな場面にも笑顔が潜んでいてくれた事を本当に嬉しく思ったものでした。
浮足立ったこの世の中などそう大した事は無い、やはり人間は生きる事以外に大事な事など無いんだなと、つくづく思いました。
ヤフーで記事を掲載したので、こちらは今日はお休みします。
おっ、気が付けばもう仕事の時間に食い込んでしまっていました。
今日も一日、全力で行きたいと思います。
コメント、有り難うございました。