「酒湿め」(さけじめ)

上塗漆、つまり黒や朱などの漆器製作工程の最後に塗る漆の話だが、漆の常温乾燥には「乾燥点」と言うものが在り、この乾燥点は平均に分布していない。

どこか一点の乾燥点が一番強く、その周辺の濃度を高くした状態で分布している。

例えば黒の上塗をした場合、塗って6時間から12時間の間に「かな息」と言って、ごみをかけないようにそっと塗った漆の上に息を吹きかけると、そこに青く光った反応が現れるが、こうした「かな息」が14時間を経過しても来ない場合、その漆は乾燥硬化しない可能性が高くなる。

また「かな息」の状態から12時間経過しても「息が来ない」、「息」とは弱い呼吸を吹きかけた時真っ白な反応が出る事を言うが、こうした反応が現れない場合、そのまま放置しておくと上塗漆は乾燥硬化しない可能性が出て来る。

従って上塗漆の乾燥点は「かな息」から「息が来る」状態までの中に一番大きな部分が潜んでいると見做され、「かな息」が来ない場合と、「かな息」からいつまで経っても状態が進行しない場合、室(むろ・ふろ)の中を水で浸した手ぬぐいなどで拭き、その中へ塗った器物を入れ、湿度を加える事で乾燥点を引っ張って来る作業が必要になる。

極端に寒い冬の日、または大変暑い日だと、漆はその温度に拠って乾燥能力が低下する。

このため春や秋には乾燥していた漆でも、こうした時期には乾燥できなくなる場合が出て来るが、これを引き寄せる最も確実で手軽な方法が「加湿」なのであり、こうした時期に加湿と言う手間を飛ばすと漆は乾燥できなくなり、いつまで経っても表面が硬化できない状態になる。

このいつまで経っても乾燥できない状態の事を「漆がなまる」と言い、こうした状態の物はその後手間暇かけて乾燥させたとしても、仕上がりはどこかで柔らかい感じにしかならず、この状態も含めて「漆がなまる」と表現する。

最悪の場合は塗った漆をテレピン油などで全てふき取り、表面を研ぎなおして再度上塗漆を塗る作業が必要になって来る。

昔の職人はこうした事態に遭遇した時、神棚に酒を献上し、そしてその酒で加湿するように弟子たちに言ったものだが、こうして酒で加湿する事を「酒湿め」(さけじめ)と言い、加湿の中では最高級の加湿ではあるが、既にここまで乾燥しなかった漆器の上塗は失敗が確定したと言う事でもあった。

酒湿めは完全乾燥を期待できるものではなく、乾く場合もあるがその大半は乾かない場合が多い。

またよしんば乾いたとしても研いで塗り直しは必至で、「酒湿め」の効用とは「天の定めだ、諦めろ」と言う意味、「普段からせこい事をしているからそう言う目に遭うのだ、余った酒は職人たちに飲ませろ」と言う意味だったかも知れない。

ちなみにこうしてせっかく塗っても上手く行かなかった時、昔の伝説では頭に来た親方が窓からその失敗した漆器を放り投げる逸話が残っているが、同時に一度放り投げた漆器を暫くしてから拾いに行く親方の話も残っていたりする。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

3件のコメント

  1. 失敗作を窓から放り投げたり、後で思い直してそれを拾ったり、相手は物言わぬ漆器です。
    相手が物言う心も有って変化する人だったら、かなり面倒臭いことに成りそうです。
    自分は記憶力はそんなに悪いとも思っていませんが、(一応念のため、良いとも思っていない・・標準偏差の中-笑い)、後になって、何であんな事にあんなに情熱を傾けたのだろう、って事が結構あります、その逆もあります。色んな理由を覚えていない、まあ、救済の気もしますが。

    寒帯でセメントを練ったことは有りませんが、零度以下になると、コンクリートが固まる前に、凍って固まらない、熱帯では逆で固まる前に乾燥してしまう。日本でも少しは考えて養生しますが、そう言う意味じゃ天国みたいな所で日頃の生活や仕事をしているだろうと思います。
    今暖房や冷房が発達して、天候を忘れて生活している現代は、よろしくないのかも知れません。その割りには、熱帯でTシャツと短パン2,3枚有ればほぼ間に合って、洗濯すれば一年中2時間もあれば、乾く所の人達の気持ちを理解する気は全然無い。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      早朝遠方からの来客があり、時間が無くなってしまいました。
      今夜、あらためてご返事をさせて頂きたいと思います。

      有り難うございました。

    2. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      人間の本質は失敗した時に現れる、つまりはどう潔く諦められるかに拠って度量が量られる事になるような気がしますが、これがまた中々そう潔くは諦められない。
      「酒じめ」はそうした人間の在り様を良くい現しているようにも思えます。
      漆に取って湿度は最大の味方にして最も強大な敵でもあり、これを上手く使う事は物言う人間に対する忍耐にもよく似た部分が有るかも知れませんが、どちらも難しい事には違いない・・・。
      物を言わない相手はある種天の意思で、物を言う相手は自分が試される・・・。
      それゆえに上手く行った時は嬉しく、こうした上手く行った時の事を次に踏襲しても、その時は全く同じ道で有りながら通れない・・・。
      してみると周易や孫子は仕事でもまた同じだった事を痛感します・・・・(笑)

      コメント、有り難うございました。

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