「終戦詔書」解説

昭和20年(1945年)7月16日、実はこの日、世界で始めてアメリカが原子爆弾の実験に成功した日だが、この翌日から開催されたポツダム会談は、事実上日本をどう処理するか、つまり戦争を終える機会を失っている日本に対して、どのような方法で降伏を宣言するか、またその後の世界をどうするかが決められたが、ここで決定したことは日本に対する無条件降伏の通告であり、このことは宣言として発表された。
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だが事実上戦争を終結させる為に首相に就任したはずの鈴木貫太郎(すずき・かんたろう)以下、軍部はこれを無視すると言う子供のような反応しか示すことが出来なかった。
そして8月6日、広島に原爆が投下され、ここに人類は始めて原子力による破壊の凄まじさを目の当たりにすることになり、同年8月9日には長崎にもこの地獄絵図がくりひろげられてしまう。
これに慌てた日本政府は8月10日、天皇の地位を保全することを条件に、ポツダム宣言の受諾を連合国側に打診するが、無条件降伏の回答はイエスかノーでしかないことをまだ日本政府は分っておらず、結局この申し出は拒否される。
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これで後が無くなった日本政府及び軍部は、昭和20年8月14日、昭和天皇ご出席のもと、「御前会議」を開くが、ここでも政府や軍部は分っていながらポツダム宣言の受諾を決定できない。
そして結局この会議で無条件降伏を受け入れる採決を、昭和天皇のご判断に仰ぐことにしたが、もともと天皇のご意思など何とも思わず好き勝手なことをして、その終決と言う最大の責任をまた天皇に押し付け、そして自らはその天皇の事をおもんばかって嗚咽する軍幹部達、その中で昭和天皇は涙を流しながらポツダム宣言受諾を決定する。
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そしてその日本側の宣言文が「終戦詔書・Ⅰ」の天皇のお言葉、いわゆる詔書の文面であり、これは「下村 定」「米内 光政」「迫水 久常」らが8月14日、夜11時までかかって文面を作成したものであり、それを「玉音盤」に録音し、この録音の放送は8月15日正午と決められていた。
だがこの玉音盤、当時の録音状況はきわめて悪く雑音だらけであり、加えてこれが放送されるラジオも、一般的に日本のラジオは性能が悪く、聞いていた殆どの人は何を言っているのか分らなかった。
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しかし日本の民衆は何故か涙が止まらず、土下座して泣き崩れる者、いたたまれなくなって走り出す者、天皇陛下万歳と叫ぶ者など、日本が戦争に負けた事はどうにか伝わったのであり、ここに日本は敗戦と同時に終戦を迎えたのである。
ちなみにこの詔書を読んでいると、文面の前半と後半では大きな違いがある。
それは何故か、後半の半分は昭和天皇が8月14日の御前会議で、お言葉にされたものを文面にしているからである。
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太平洋戦争が終わって70年、言いたいことは山ほどあるが、今日ばかりはかつて戦場で、そしてB29に追い回され、また一瞬の閃光の内に死んで行った人たちの魂に敬意を現そう。
そして彼らが有ったおかげで今日この国があり、自分が生きていることを心から感謝しよう・・・。
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8月15日は日本の終戦記念日である。
それゆえ今日は、詔書原文と、その解説を掲載させて頂いた。
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T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 全く仰るとおりです。感謝して生きたいものです。
    自分一人で立派になった訳じゃない。
    亡父は、敗戦を8月20日前後に正式に知ったようでした。知った後で、そう言えば毎日同じ様な時間に豪州軍が空爆に来ていたのに、ここ数日来ていないなあ、と思ったそうです。
    船腹の関係で数年は復員できないと諦めていたようですが、一年経たないうちに内地に帰って、物価が相当変わっていて驚いたらしいですが、入手した切符で乗ろうとした汽車が予定通り来た様な事を言っていました。帰郷してから、5~6回マラリアが再発し、妹たちが、震える身体を見て怖がったそうです。

    1. ハシビロコウ様、有難うございます。

      みんな人を殺したくて戦争に行ったわけではなく、究極的には「生きるために」戦場に向かった。
      その時代に為した事を後世の人間が評するは容易い。しかしその時代を全力で生きて行こうとした人々を、エアコンの効いた部屋で冷たいものを食べながら後世の人間が語るのは間違ったことの様な気がします。
      今の社会や政治を見ていると、これが命がけで守ろうとした太平洋戦争中の若者が望んだこの国の姿だったのか、人々の在りようだったのか、と言う事を思います。
      8月の青空を仰ぎ見るに、私はどこかで申し訳ない気がしてしまうのです。

      コメント、有難うございました。

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