「陰徳・応用編」

漆器を製作する過程の中で、例えば素地から塗り、蒔絵などの加飾まで全て個人が手がけることは難しく、よしんばこれを全て個人が行ったとしても完成度は低くくなるか、或いは効率性の問題から時間と経費を膨大に消費し、その個人が手がけたと言う些細な拘りに拠って発生した、非効率に拠る価格の高騰を「付加価値」と称する事は不遜であるように私は思う。

その意味から漆器の生産に措ける効率性は、やはり専門職に拠る分業制が望ましいと考えるが、この専門職と言えども100%ではない。

時にはその事情や時間的制約の中で、不測の事態や妥協が存在する事も出てくる。

そしてこうして前段階の分業工程が次の専門職の手に移った時、次の専門職は前段階の仕事の不備を簡単に見抜く事になるが、多くの場合前段階の専門職は次の専門職が為す肯定の深遠な部分までは理解できない。

例え言葉で理解できても経験の無い者の理解は全体の理解の90%に及んでも、残りの10%が専門職が専門職となる所以だからであり、これは前専門職の仕事を次の専門職が完全に理解できないのもまた同じ事である。

前の専門職の仕事に不備が見つかった場合、その仕事の不備は前の専門職が故意に行った場合も、理解できずに行った場合も、基本的には同じことであり、ここで次の専門職には2種の行動傾向がある。

その一つは前の専門職の不備に構わず、自分の作業だけを為し、結果としてその仕事は前の専門職の不備に影響されて不完全なものとなり、これに拠って前の専門職の不備を咎めると言った性質の事をする者がある。

またその一方で前の専門職の不備を何も言わずにカバーし、最後まで黙っている者も存在する。

そしてこの後者のケースでは、前段階の専門職の不備は、その不備を補修する分、次の専門職の負担となる為、ここではその負担を巡る在り様でも差が出てくるが、分業制の特徴はチーム製作だと言う点を重視するなら、製品の完成度と価格こそが全てであり、ここでは他者の瑕疵(かし)を追求しても製品の完成度は高まらず、価格も非効率的な事になる。

不備を見つけた専門職は不備を見つけて悦に入る事、それに拠って自身の技術的力量を誇ってはならない。

弱き者、貧しい者を比較に使って自身の力量を示すは、愚かな事と思うべきもので、またそこで自信の力量を示したところで、或いはもっと言えば有名になった所で、自信がそれに拠って何がしたいのかの目標の無い過剰な栄誉の希求は、必ずいつか自身の身を滅ぼす。

分業制専門職の最大の栄誉は技術が認められて仕事が増えてくる事をして最大とすべきで、これ以上の、チームの中で突出した栄誉を求めるなら、それは自身が販売や広報の分野にまで進出する事を意味し、これができずに突出する事を望むなら、そのチームを破壊する事にしかならない。

人間誰しも人から良く思われたいし、褒められる事も嬉しいものだ。

だが自身の責任や力以上にこれを求めると、周囲を壊す事になり、その姿は餓鬼と同じになる。

当然作った物も「餓鬼」になる。

皆で良い物を作った、その中に自分も存在した。

結果として良い物が多く売れていけば皆の為になり、その事で自身も安定して暮らしていける上に、どこかではいつかそうした自分の事が、薄く弱くでも人の中に影響を及ぼすことになる。

何か大きな力の中に入っていても、薄く弱くでもそれは自分の力だ・・・。

他人が認めてくれるか否かに拠って自分の力量や技術は変わるものではない。

本当の栄誉は、その栄誉を求めない者を好むのである。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

3件のコメント

  1. お互いに専門家なら、相互に限界は知らなくとも、或る程度希望は伝えられるわけだから、開放的な空気が有れば、相互利益・気持ちの充足の為に、フィードバックが効けば、全体的な品質向上があって、顧客は全体として評価してくる。
    日本の手工芸品・工業製品が歩んだ道なのでしょう。

    こう言うお話しに接すると、米内光政の「人間と言うものは、いついかなる場合でも、自分の巡り合った境遇を、もっとも意義あらしめることが大切だ」とか、2・26事件の凶弾に倒れた、渡辺錠太郎大将の娘、和子さんの言葉「(鉢植えだったら)置かれた場所で咲きなさい」と言う事が思い出されます。
    残念ながら、自分は全然適用外ですが(笑い)。

    明治初期に、日本に来た西洋人で、日本の手工芸品を理解して愛した人は、作品は芸術的に頂点を示しているが、それは芸術家の手によるものではなく、市井の名もない職人の手になるもので、その仕事を極めて、芸術品の域に達して、職人一人一人は、すべて違っているから、日本には同じものが一つとしてない、と絶賛している人が多いですね。

    1. ハシビロコウ様、ありがとうございます。

      記事を書いていたら、気が付けば時間が過ぎてしまっていました。
      今日中に最後の仕上げをしなければならない仕事があり、ご返事は今日の夜か、明日の早朝と言う事にさせて頂きたいと思います。
      大変申し訳ありません。

      コメント、ありがとうございました。

  2. ハシビロコウ様へ・・・。

    こうして田舎で時折田んぼや畑にも出ていると、目立つことが必ずしも良いことではないような気がしてきます。
    多くの生き物達は自然の中で、存在すべき者が存在すべきだけ存在している、そんな感じがします。そしてこうした形が一番無理が無く、ある種とても合理的にも見えます。
    必要以上に褒められたり評価されることは、どこかでは、けなされたり悪い評価をされるより損をするような気がするのであり、この意味では墨子の陰徳も孫子の「過ぎたるは猶・・・」も同じような事かも知れません。
    私は幼い頃、明治生まれの祖母に拠って育てられた為、どこかでは多分古いのだろうと思いますが、考えてみれば祖母の時代にはこうした事が教育ではなく、社会の中で当たり前の事として漂っていたのですから、日本のこうした歴史と言うものは実に偉大だったとしか言いようが有りません。
    振り返って今の日本を見れば、他人の成果も自分の成果のように主張し、できもしない事をペラペラと言い、うまく行かなくなったら全て他人のせいと言う在り様です。
    私一人でも、「それは違う」と言うておかねば、なんとなく誰に対するでもないのですが、申し訳ない気がしてしまうのです・・・。

    コメント、ありがとうございました。
    ご返事が遅れました事、深くお詫び申し上げます。

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