「塗師小刀・3・丹波」

塗師小刀、塗師刀は現在では輪島塗の特殊な刀として位置づけられている。

しかしこの刀は本来日本のグローバルスタンダードだった。

今では滅多に表記される事は無いが、大正や昭和の文献の中に「丹波」と言う言葉が出てきて、このルビや但し書きに「塗師刀」と言う文字が出てくる。

この事から塗師刀の形状は一つの様式で有った事が伺え、その発祥は京都の丹波である。

元々「丹波」は茶道具や竹細工、それに塗師などが使っていた小刀での様式で、刀のの先が斜めに折られた状態になっている、所謂小さな鉈(ナタ)状なのだが、これが輪島塗では先般説明しているように緩やかな円を描くようになって、刀身の長い部分が使われなくなった経緯には、削る木ヘラ材料の特殊性が大きく影響していた。

日本古来の木ヘラは「ヒノキ」であり、これを削ったり竹を割ったりの細工には小さな鉈状の刀が重宝されたが、輪島の木ヘラは「アテ」と言うヒバ材の一種で、これはヒノキよりも粘り気が有り、木目の影響を受け易い事から、丹波様式の長い刀身が使われず、先の方だけが曲線に変化して使われるようになったものと思われる。

従って塗師刀は輪島では塗師刀だが、本質的には「丹波」、若しくは「丹波様式」の派生形と言う事が出来、基本的な刃物の概念として、その形状の基礎部分は存在するが細部の形状は使う者によって微妙に変化して行く。

そしてこうした変化が著しく、かつ多様化して行くようになると、その地域だけで通用する形式名が発生し、やがて他での利用が衰退、或いは一部の地域がグローバルになった時、本来の形式名称を追い越してしまう場合が有り、この事は例えば英語とネガティブ英語の関係、言語のグローバリゼーション過程に同じ事が有る。

輪島塗が全国展開、簡単に言うならグローバル化するに従って塗師刀もまたグローバル化し、そこでは塗師刀が単独の固有名詞のように考えられたり、また本来の形とは別のようなものに考えられるケースも発生するが、塗師刀は京都「丹波」の派生で有る事は間違いない。

だが問題はこうした歴史的な経緯を輪島の職人がどれだけ理解しているかと言う事になる。

確かに輪島塗は日本の木工塗装技術の中では最高水準の技術の一つだが、これを余りにも大きく考えすぎてしまうと、その道具や地域の有り様にまで同じものを求めてしまい、為に本来の事実が蔑ろになり、それがその地域の歴史観になってしまう状態が起こり、やがてその地域の、輪島で言うなら輪島塗がグローバル化していくと、本来の事実が間違ったまま全国に伝播されるケースが出てくるのである。

どの地域も人も自分が住んでいる地域の事を大切に思う気持ちは同じである。

そして自分の地域の事を思うなら、他の人の地域の事も同じように考える必要が出てくる。

それゆえ私は少なくとも、塗師刀や塗師小刀は京都丹波様式の派生形で有る事を、全国レベルで表記するときは「丹波」と表記するよう伝えておきたいと思っている。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. 仕事が道具を発達させて、道具が仕事を発展させたりするのでしょう。

    我が郷里に、樺細工(桜皮細工)が有って、茶筒、盆、茶道具入れ、その他有りますが、何処の家にも、一応揃っておりました。使い込むと特有の光沢が出て来て、良いものだと思います。
    いまどうなっているかは、詳しいことは分かりませんが、お土産物やさんに行けば、入手は容易です。
    きっと独自の伝統でしょうから、独自の刃物や各種道具、材料の植樹とか、それなりのネットワークが有る物と思います。
    製品は土産物屋さんの棚に鎮座しているだけですが、植林から始まって、茶筒になるまで長い年月がかかっており、そこに職人を初め多くの人が関わっている、そして使う人が、長い年月を掛けて光らせて完成(笑い)。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      消費低迷に陥った現在の日本では、日本全国で地方が観光として売り出し、その過程で余りにも宣伝に力が入ると、自分達の事だけしか考えなくなり、やがてそうして高められた自我は何でも出来る、何でも出来てしまうような錯覚を起こし始めます。そして自分たちが本家本元、自分達の技術は何でも出来ると言う具合になってしまいますが、例えばコーヒーカップなどは木製や漆器よりも遥かに陶磁器の方がコーヒーや紅茶と親和性がある。最上のものがあるとしたらその次が最上を語ってはいけないし、一流を目指すなら他者の区分を侵してはいけない。自身が尊重されたかったら他者を尊重しなければならない。カエサルも同じ事を言っていました。
      桜皮の茶筒などは大変趣が深いですね・・・。
      忙しくてゆっくりと茶も飲めない状態では有りますが、忙しいからこそそうしたものを楽しむ事が大切なんだろうなと、つくづくそう思います。

      コメント、有り難うございました。

      1. 桜皮細工の茶筒、蓋を抜くとスポッと言う感じで良いですよ(宣伝)
        時間になったらお茶休憩(笑い)

        「カエサルの物はカエサルに、神の物は神に返せ」
        現代の政治家や聖職者、企業家に言ってやりたい。
        聖書にも出ているようなので・・多分二千年前から、人間は進歩していないというか、
        全然賢くなっていない。屁理屈と自己利益追求は天井知らず(笑い)
        文明が発達した所為で、石や棍棒や刃物で戦った居る内は、感情も動くし、破壊の程度は知れているが、今や際限なし。
        数少ない友だちで、イタリア人にこの言葉をイタリア語で何というか聞いたことがありました、凄い笑って教えてくれました(笑い)

        1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

          ドナルド・レーガン政権で合衆国の国防大臣を務めた通称キャップ、「キャスパー・ワインバーガー」はこんな事を口走った事が有ります。
          「もし神と言う者がいるとするなら、それは我々の事だ・・・」
          この言葉は一見傲慢に聞こえる。
          しかし彼の覚悟はここまで毒を食らえば皿までだった事から、この言葉にはある種の人としてのワインバーガーへの決別、人間への決別が在ったように思います。
          振り返って5年経ってもコントロールできなかった放射能漏れを、その初期段階からコントロールできていると口走り、食品の安全は政府がコントロールできる、災害も万全をきすと言う日本政府にはワインバーガーの覚悟が感じられない。神の領域に平気で土足で上がりこみ、何でも出来ると思い込んでいる日本政府と日本には未来が期待できない感じがしてしまいますね。
          人間はそれぞれの範囲、身の程を知って、そこから何を目指すのかが大切な気がします。他者の物まで自身の物と錯誤し、そこから始まるものは危うい・・・。
          桜皮の茶筒、スッポン!と言う音を今度響かせてみたいと思います。(笑)

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