「一歩に届く」

今ではコンバインになってしまったが、それでも機械の入り口、或いはぬかるんで機械が入れない田の稲を刈る時、未だに重宝するのが稲刈り鎌だ。

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普通の鎌より円周が若干開いた三日月状の形に、細かい鋸歯(のこぎりば)が付いたものだが、稲と言うのは分決して1本々々が育っていく過程で均等な距離で分決せず、固まったり1、2本少し株から離れて来るものもある為、秋になって稲を鎌で刈っていると、この少し、ほんの数ミリから1センチメートル程なのだが、離れて成長している稲に鎌の先が届かない場合が出てくる。

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2、3株ずつ稲株を刈って行くと、一定のテンポが出てきて、その調子で刈っていると何株かに1本、2本の刈り残しが出てきて、これを防ぐ為に注意していると、他の株は1回で刈れるのに、そこは1本の稲の為に2回鎌をを入れなければならなくなり、これでテンポが崩れてくる。

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それゆえ長年百姓をやっていると、どうしても手放せない鎌と言うものが出てくる。

特に鎌の歯が長い訳でもなく、柄が素晴らしい訳でもないのだが、良い鎌と言うのは何故かこの通常なら残ってくる1本の稲に歯が届くのである。

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鎌で稲を刈っているとき、テンポが崩れて行くと大幅な時間の違いが出てくる。

それ以上に常に1本届かないとストレスが大きく、だんだんイライラしてくるものである。

これが全く無く、スムースに1株ごと綺麗に刈れる鎌は極めて少ない。

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三井町では越前の業者が稲刈り鎌の行商に来ていたが、この同じ行商のおやじさんから同じ鎌を買っても、今1本に届く鎌は10年に1度くらいしか出てこないものだった。

勿論見た目で分かるものではなく、誰が見ても区別など付かないものだが、稲を刈ってみて初めて分かるのである。

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私も、今はもう亡くなったが、村の古老からこうした鎌を1本譲り受けた。

「この鎌はお前が百姓を継ぐと言うから、俺のお祝いだ」

古老はそう言って私に鎌をくれたのだが、その時は「こんな古い鎌より金の方が・・・」と思っていたものの、今ではくだんの鎌は金には換算できない私の宝物、いや、家宝になっている。

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そして大切な鎌はいつか本当に困った時に使おうと油を引いて保管し、毎年切れない、しかも今1本に届かない鎌でイライラしながら稲刈りをしている。

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同じ事は輪島塗の下地付けでも一番難しい二辺地付けになれば、やはり顔をもたげてくる。

輪島塗の下地では足りなくなるのは先では無く後ろの方、これを尻手(しりて)と言うが、木へらの右側が足りない場合と多すぎる場合が出てきて、これも丁度と言うのは極めて少ない。

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木へらの場合は先が減ってくると削って使って行く事から、正確には丁度の幅でいられる時間が少ないのである。

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また「へぎ板」を削って「木へら」にしているのだが、この材料となる「あすなろの木」はその高級なものは「くさまき」と言い、木目が渦を巻くようにねじながら成長する木である為、反りや狂いの無いヘラはひとえに乾燥時間の長さによって生まれてくる。

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慌しい昨今の時代ではこの乾燥と言う時間を金銭や納期から我慢できず、反りや狂いの無いヘラも少ないのである。

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更に稲刈り鎌がそうであるように、同じ刃物である塗師小刀でも、今一歩届くか届かないかと言う違いは存在する。

刃形を丸くするとヘラは削り易いが、食い込みも増えてくる。

刃の角度を鋭角にすれば切れ味は良いが刃こぼれが多くなり、ちょっと油断していると研いでいる間に刃の下手の幅が広がり、「お多福刃」(おたふくば)、若しくは下膨れ(しもぶくれ)刃になってしまう。

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塗師職人がどれだけ頑張っても一生の間に使える塗師小刀は3本か4本であり、この中でも自分が満足行く形の刃になっている時期は、1本の塗師小刀で、せいぜいが数ヶ月しかない。

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私の仕事場には柄を朱塗りにした塗師小刀が1本置いてある。

刃は錆付いて穴の開いた部分も有るが、それでも研ぎ合わせて油を引いて保管してあるこの小刀は、師匠「坂本時三」から譲り受けた三日月刃小刀である。

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不肖の弟子は一時期、「こんな仕事もう二度とするもんか」と言って師匠から貰った小刀を土手に放り投げ、都会へ飛び出した。

そして夢と現実の狭間で迷い、帰って来た時既に師匠はこの世になく、刃のみが土手の土に半分埋まって、それでも弱く太陽の光を返していた。

私は小刀を拾い、柄を差して朱塗りに仕上げた。

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今でも時々この朱塗り小刀を抜いてみる時があるが、切るものも分からずに、それでも唯ギラギラしていたかった自分と、それを遠くから少し笑って眺めている師匠の姿が、小刀の中に見えてくるような気がするのである。

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道具は一歩に手が届くものも手中にある。

しかし肝心の自分自身がどうしても今一歩に届かない。

これが悲しいところだ・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. 納入の時は大抵は工具まで一切合切コンテナ積んでゆきますが、勿論最後に出す物を最初に入れて、最初に出す物を最後に入れる。引越で突拍子もない人が手伝いに来ると、がらんとした部屋の真ん中で、食器や衣類の荷ほどきを始める人が居る(笑い)
    組立型のスティール棚を組み立てる工具は何時も、それなりの物を準備しますが、或るサイトで或る人が、100均のなんちゃって工具を何組か持参しました、勿論、組立が進行して、人数が減ってくると、見てくれはそれ程違いませんが、そちらを使う人は全く居なくなります。何時も工具はそこへ置いてくるので、それなりのものじゃないと、無用の長物、政治家に比較的多いタイプ(笑い)。
    道具は手に馴染んで行くでしょうが、減ってゆく、人に沿う沿わないも有る。人間は成長とは限らないけれど、変化して行く、心も伴うでしょうから、まともなら、常に自己評価はやや厳しい(笑い)、逆は大抵使い物にならない(笑い)。

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      今一歩に届くか届かないかと言う話はどの職業の、どんな道具にでもきっと存在する事なのでしょうね。そしてこうした事はその仕事を実際にやってみないと分からないし、趣味でやっているのと金を貰ってやっているのでも全く違うだろうと思います。
      私は人の仕事を見るとき、例えば大工仕事などでは終わった後の掃除の加減を見ていたりしますし、家電や機材では電話対応の有り様を重視しているかも知れません。如何に安くても壊れたときに雑な対応を受けるくらいなら多少高くても後の事を考える傾向が有ります。また「とりあえず」とか「仕方ないか・・・」を選ばないようにもしています。その時無ければ出てくるまで待つ、代用品は本品には及ばない・・・。
      良いものは得る為に苦労するし、悪いものは向こうから買ってくれと言ってやってくる。これは人間もまた同じかも知れません。そして見せ掛けのものも世の中には多い。スタンダードではないものはそれらしくしていれば高級に見えながら、内容が無かったりする。政治家もアーティストも、実績のある「普通」をしっかりやっている者が私は好きです。光り輝いてコマーシャルを打っているものは何かが卑しいか、貧しい。
      金や心が貧しいのは致し方ないとしても、作るものはせめて深海に沈む一粒の砂金で有りたいものです。
      最近話が少し身分不相応にグローバル化していたので、これからはしっかり仕事や地域の事に専念しようかと思います。

      コメント、有り難うございました。

  2. 深海に沈む一粒の砂金
    惹きつけられる言い言葉ですねぇ~~♪

    現代でも後世にでも、製品を使って何年かして、その使い勝手の良さや丈夫さを、友だちに銘をを見せて自慢してくれる人がいる・・そのようなことがあるから、伝統工芸品作者は、連綿と技術を伝承し磨いてゆくのでしょう。
    翻って、我が身を顧みれば、忸怩たる、いや顧みるのを止めましょう(笑い)
    人にはそれぞれ道が有る、かも知れない。

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      職業に貴賎は無いと言った昔の人は素晴らしかったと思います。
      スーパーのレジでたくさん入っている10円玉の中から、たった1回で読まずに60円を掴む女の人がいたし、わら半紙を300枚くれと言ったら、これも読まずに1回で300枚を引き出す人がいたものでした。私はこうした人を見ると必ず「どうしてそんな事ができるのか」と尋ねたものでした。みんな「毎日やってますからね・・・」と笑って応えるのですが、毎日やっていてもできない人もいる。普通の事を普通にしっかりできる。本当に素晴らしい事とは当たり前に見える事、人がもしかしたら見逃すくらい自然な動きの中に潜んでいるのではないかと思います。振り返って今の世では俺が、俺が、私が、私が、ばかりで内容は伴っていない。その代表格がトランプ氏だったように思いますが、こうした人が選ばれると言う事は世界の在り様もまた、これに同じだと言う事なのだろうと思います。
      職業に貴賎は無い、確かにそうなのですがこの前提は人間が一生懸命やっている事を指すのだろうと思います。その意味では人の生き方に貴賎は無く、生きる事をちゃんとやっている人は常に尊い・・・。

      コメント、有り難うございました。

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