「戊戌」(つちのえ・いぬ)

古代日本に措ける「えと」は兄弟を指し、兄を「え」、弟を「と」と現し、例えば聖徳太子の子である「山背大兄王」(やましろのおおえのおう)などを参照にしても解るように、「兄」を「え」と発音している。

「え」と言う発音を兄、若しくは姉とし、「と」を弟妹とする解釈も存在するが、こちらは男尊女卑の慣習を緩和する為に表記されるに至った可能性が有り、原則は「兄弟」である。

「十二支」は本来「えと」ではなく、「十干」(甲・乙・丙・・・)それぞれに「え」と「と」を割り振って陰陽を表した、この陰陽の割り振りを日本では「えと」と発音したのであり、兄の「え」を陽、弟の「と」を陰とするが、陰陽思想より十干の方が古い歴史を持ち、殷の時代には既に汎用された思想だった事から、或いは夏王朝時代には成立していた「暦思想」だったかも知れない。

西暦2018年はこうした十二支、十干の組み合わせで言うなら「戊」「戌」(つちのえ・いぬ」と言う事になるが、こうして「つちのえ」となっている事から「兄」、「陽」であり、「戌」(いぬ)は「陽」、つまり「陽」に「陽」となる。

日本では「犬年」と現される事が多いが、本来「戌」と「犬」は別字であり、「戌」は「滅」であり、草木がしおれて茶褐色になり枯れていく様子を現し、「滅」の本意はここにある。

すなわち枯れて死に絶えていく様を表すのだが、これが悪い事、悲しい事とは考えられていなかった可能性が高い。

「戌」が「犬」に置き換えられた時代ははっきりしないが、「犬」は大きな犬を指し、小さな犬は「狗」と現され、「狗」は断片や欠片の性質を意味し、「犬」は犬が吠えている様を横から見た象形文字に由来する。

だが「犬年」の「いぬ」の本来は「戌」であり、「戈」(ほこ)を基本とする「滅」である。

あらゆるものが姿を隠すの「陽」の「陽」であり、「陽」の重複は極太、つまり禍福いずれにしてもそれが大きく現れる事を指し、「戌」は「滅」、「滅」はまた「変」であり、この年には古来より大きな変事が起こり易いとされている。

決定的に「戊戌」(つちのえ・いぬ)に天変地異や大きな政変が集中している訳ではないのだが、古代中国の暦からも日本の古い暦からも、「戌」は大きな変事、或いは天変地異が起こり易いと書かれているものが時々出てくる。

どちらかと言えば政変、戦争、統治者の死亡、秩序崩壊、革命、クーデターのニュアンスが強いが、其の発端が大災害と言う場合も有れば、外交の失敗、経済政策の失敗と言う場合も有るかも知れない。

新年早々めでたい雰囲気に水を差すようで恐縮だが、千年も前から「戌」は「大きな変事」と記している者が時々存在する事を記しておこうかと思う。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 最近の教育は、ほぼ学校教育のみで、それも点数が付けやすい教科ばかりであり、実は大抵の人は、卒業した途端に全てを忘れても、殆ど困難も不自由も感じない。教科書を又読み返すと言う人を、見たことがない(笑い)。
    数学好きに挑戦する気は有りませんが(笑い)、ルートの解法を勉強するより、一生涯に掛かる費用や住宅ローンの計算方法、生命保険の損得勘定を知りたかった~~♪
    フェルマーの最終定理が証明されなくとも困らないけれど、サラ金から100万円借りたら、若い人は必ず破綻する、と言うカラクリを教えた方がよい(笑い)
    物質的には豊かで、貧しいのは心なのに、教科書が無料で配布されて、印刷会社に政府から補助金を出す手段化しているような感じ。昔、某国向けに、教科書印刷と言うプロジェクトが有り、話せば長いので、省略しますが、大本命の我がグループが、諸般の理不尽な事情で敗退しました~~♪

    これは民業圧迫、って可能性が有るのですが、日本では民業への補助金。貰う人達には、悪い理解が刷り込まれている気がします・・・途中で再生の道を見つければ、それはそれで良いでしょう。
    因みに、その印刷・製本機械がその後どんな裨益~教育効果があったか、知りませんが、その機械に堪えうる、紙の調達その他を考えたら、ややましな、近隣諸国から、似た教科書を買った方が、中期的には良かったかも知れません、後進国が一歩踏み出すのは、想像を絶する困難が横たわっているんですよねぇ~~♪

    と言う事で、本題(笑い)~~~

    哲学的な~迷信的な~古典的な、計測しにくい智恵や知識、神秘的ではあるが、最後の決定的決断をするための心を涵養するような、このような知識は、家庭でも、村でも学校でも、高等教育でも学ぶ機会は、かなり制限されていて、且つ教育界を支配しているらしい無神論者~共産主義者は、害悪だと考えていて、ボスの言うことを唯々諾々と聞く、「動物」が好みのようで、当面の改善は期待薄の様です。
    爺婆が日常的なもしかしたら、偏った経験を語って広い世界の無情では有るが、ある意味標準から外れて、小さく固まるより、伊勢神宮の歳時記を知らせるとか、地元の神職とか高野山帰りのお寺さんが、現代的ではない昔の人々の話を菓子を食って、お茶を飲みながら話せば良い気がします、今流行の言葉で言えば、「ワークショップ」(笑い)、馴染まない~~♪

    さっきネットで見たのですが、中年のお母さんらしき人が、近所のコンビニに殴り込んできて、何故家の息子にタバコを売った!てっきり未成年かと思って、丁寧に謝ったら、とっくに成人していたらしいが、喫煙の習慣が付いて、売った方が悪いらしい・・世紀が始まったばかりだが、世紀末的~~♪
    全部自分で受け止める必要は無いけれど、自分は安全地帯に立って、自殺も過労死も犯罪も悪いのは全部他人が原因と言うのはなぁ~~♪
    呑気で良いかも知れないけれど~~♪

    1. ハシビロコウ様、有難うございます。

      正月も終わり、はや寒の入りですが、どうもやはり気温が高い感じがします。
      寒い日を見計らって餅をつかねばならないところですが、今日の昼前、当地から50km離れた富山湾を震源とする地震がありました。昔から地震は高い気温と、晴天、無風を好むとされていて、これはおそらく「戌」は「変事」と同じようなことなのでしょうが、火の無いところに煙は立たない。
      神秘主義に傾倒しすぎて壷を売るようになってしまってはいけませんが、「平時に乱を忘れず、乱に平時を怠らず」と言う意味と考えれば良いのだろうと思います。

      そしてこの40年の間にはびこった権利主義、権利主義とは元々求める事しか考えないものなのですが、これが蔓延ると権利と責務の中間にある多くの事柄が他人事になってしまう。
      ハンバーグを食べ過ぎて肥満になったのはハンバーグ屋のせいだ、道路を歩いていて躓いた、これは道路を管理する国土交通省のせいだ・・・、と言う暴走ぶりです。
      一度砂漠に放り出されてみないと解らないでしょうね。生きる事を人の責任だと思っていられる事は、それはそれで幸せな事かも知れませんが、その報いは味わった幸福の度合いに比例にして深く大きく、いつか帳尻が合わせられる時が来るように思います。
      私はこうした怪しい話がとても好きです。どこからどこまで本当で、どこからがいい加減な事なのか解らない話、そこにロマンと洒脱なセンスを感じます。
      くれぐれも預言者にはなりたくないものです(笑)

      コメント、有難うございました。

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