地球の平行線

この世界に完全な直線も曲線も存在し得ない。

我々が一見直線と認識しているものも、厳密には曲線が蛇行していて、分子的観念からすると、それが遠くに在るからほぼ直線に見えているに過ぎない。

それゆえこの世界で最も作り易くて難しいのが直線や円などの秩序線であり、また人間の視覚はその眼球の持つ構造的視覚的特性を脳が補正して平面性を認知している事から、基本的には中心精度が高く周辺精度は低い状態になっている。

端末に入ってくる視覚、或いは関心の無い視覚対象などは、場合によっては色すら付いていないかも知れない。

この事から例えば四角い箱を作る場合、それを定規で測かり、しかも高い平面性を持つ砥石などで研磨して製作すると、確かにその箱は完全な平面性を持つ構造体に見えるが、どこかで漠然とした不安定、脆さ、または危険性を感じてしまう。

これは何故か、丁度完全な白色が自然界に存在しない事と同じで、それが自然界には存在しない事を人間が非意識的に認識している為に、完全な平面性を確保しようとすればする程、それが自然の構造、すなわち自分からの乖離になってしまうからである。

そしてこうした自然からの乖離性と自然との分岐点が、エンターティーメントと芸術の分岐点になるが、この分岐点は相互に入り組んでいて、非日常性と言う視点に重点が置かれる時代には芸術が壊れ易い。

近年の世界的なパーソナルコンピュターの普及は、あらゆる意味で人間のエンターティーメント性を増長させ、バーチャルが大半を占める暮らしの中では、定規で引いたように分子レベルに近い直線が蔓延するが、これが持つ社会的傾向が「不安定」と言う事になる。

またこうした経緯から自然の部分でもある当代の芸術は崩壊、或いは衰退せざるを得ないが、これは一つの秩序が終わり次の秩序が現れる証でも有る。

松の葉は見ていると綺麗な直線に見えるが、近くで見るとその一本々々はかなり曲がっている。

人間の視覚は意識補正機能が有り、「そう思えばそう見える」ものであり、しかもかなりアバウトな面と高い精度が瞬間ごとに切り替わり、これが記憶に繋がって意識が為されている。

私が若い頃出会った高齢の「沈金師」(漆器の表面に細いノミで絵柄を彫って、そこに金を入れて装飾する技法を持つ人)は150cmの漆板に何本もの並行線を掘るとき、3日間穀物を摂取せず汁ものだけで過ごし、そしてフリーハンドでこの作業に挑んでいた。

彼曰く、「定規で引いた直線は直線には見えない・・・」

「フリーハンドで直線を引く時は弱く息を吐きながら掘ると、綺麗に真っ直ぐな線になる」

私も箱や平面の板を作るとき、それを定規に当てたり平面性の高い砥石で研磨する事はしない。

球体である地球の表面に並行になるよう、そんなイメージで箱を作り、板を塗るようにしている。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 現実と脳の認識の問題が絡んでいるのかも知れませんね。
    遠近法に関する錯視の問題である『シェパードの机』も目に見えているのは、絶対に同じじゃないのに、切り取って重ねると、同じなんですよね。
    http://www.geocities.jp/sakushiart/sasi/44.JPG
    きっと、見えると言うこと(脳で処理)と実際と言うことは、何かの理由で乖離が有るのでしょう。

    事故の目撃情報も、見えたものと、実際に起きたことは、可成り乖離が有るそうだし、
    全く見えても居ないことが、実際に見えたように記憶されることも多いらしい。
    百聞は一見に如かず、何というのは、たんなる希望(?、笑い)

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      人間の視覚は見ているだけなら情報ですから、それに対する感覚は全く働きませんが、視覚の情報は他の五感情報や記憶と連動し、一度それが記憶されたところから脳の情報となる為、見た瞬間から色んなものがくっついている事になるかも知れません。つまり若干自分が見たいものを見ている傾向にあると言う事で、極端な事を言えば関心の無い周辺の情報などは色すら付いていないかも知れません。しかしこうした視覚情報の面白い部分は「自分を判断する」と言う点で、例えば細い川にかかっている薄い板の橋は、体重50kgの人なら渡れるけど体重100kgの人は渡れないとしたら、同じ事象でも人間の行動に差が出てきて、この根拠は自分を知っている事に繋がっている。一般的に視覚情報は「他」を知るように思うかも知れませんが、自分を知る為のものでもあるのかも知れませんね。

      コメント、有り難うございました。

現在コメントは受け付けていません。