「徒弟制度と地域」

 

例えば明治21年(西暦1888年)の「輪島」周辺の村を見てみようか・・・。

輪島から更に北に位置する「町野」(まちの)と言う所での一般家庭の暮らしでは、洋服を着ている者はまず存在せず、大体が少し丈の足りない綿の着物姿で、家の玄関に戸は立っていない。

そこにはムシロが吊り下げられていて、それをめくって家族が家の中に出入りしており、こうした生活でも祭りの日となれば、たった一枚しかない着物を着て祭りに参加し、酒を飲み久しぶりに顔を見る女達と歓談し、夜通し無礼講で飲み続けたものだったが、そうして酔いつぶれて翌日は寝ているかと思えば、眠い目をこすりながら早朝から野良仕事に出かけていて、このような有様は太平洋戦争が終わる頃まで、そう大きく変化していない。

輪島塗の世界の徒弟制度は、その起源をおそらく江戸や上方の商家のそれを模倣したものと考えられるが、都市が発展していくもっとも理想的な形として、農村部から人口が流出しない形で都市人口が増加することが望ましいとするなら、この明治から昭和初期の形態がまさにそれである。

農村部ではどの家でも最低2人以上の子供が生まれ、その内「家制度」を維持する長男が残れば、後の兄弟姉妹は何らかの形で農村部から離れて行かざるを得ない事になリ、そうして農村部を離れた者達が市街地や都市部に集中して都市を発展させる。現代社会のように農村部を棄てて市街地や都市に人口が流出すれば「過疎」が発生するが、これは発展ではなく人口の移動にしか過ぎない。

だが農村部の人口移動が無くて都市部が発展しているときは、これは事実上の発展であり、この意味に置いて発展の様式は多面性が有り、経済の発展と民族、国家そのものの繁栄は必ずしも同じものでは無い。豊かさが国家の繁栄とは限らないのである。

輪島塗職人の中には農村部出身の者も多かったが、その背景には農村部の次男、三男が家の負担を軽減する為に、または自身の生活の為に輪島塗の徒弟制度へ入って行った経緯が少なくない。子供が多く貧しい田舎の家庭では小学校を卒業すると同時に次男、三男を輪島塗の丁稚奉公に出したのである。

だからこうした時代の輪島塗職人は自身が選択してそれを目指したのではなく、輪島塗が好きでその世界に入った訳でもない。

むしろ生活の為にその世界に入った人が多かった訳で、こうした人たちが輪島塗の繁栄を支えたのであり、後年職人が全国区になった時代には、職人の道に入門する人口の殆どが「私は漆が好きでこの道を選択しました」となり、事業者や親方もこうした言葉を望むようになった。しかし、こうした言葉が多くなるに連れて輪島塗は衰退の道を辿ったのである・・・。

最後に1981年、当時79歳だった輪島塗職人、山本義助さん(仮名)の話が残っているので、これを記載して置こうか・・・。

「初めて親方の家に来たときは本当にびっくりしたものでした」「部屋を貰って綿の布団で寝たときには、ああここに来て良かったと思いました」「三度三度米の飯が食えて、たまには魚も出る、風呂にも入れて、その上に駄賃までもらえたのですから、そりゃ天国のようなものでした」

「言っちゃ何ですが、家でやってた百姓と比べたら、こんな仕事くらい、遊びのようなもんでした・・・・」

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 最近は、皆様、お上品になって、山本義助さんの感慨は、知る人も少なくなったし、昔そうだった、って語る人もないし、語っても、信じる人も居なそう。
    相当恵まれた境遇の一握りの人々を除けば、自分の祖父さんの時代の寒村は、そんなものだったと思います。

    我が郷里に関して言えば、江戸末期の菅江真澄の『自筆本真澄遊覧記』とか、イザベラ・バードの『日本奥地紀行』なんかを読むと、想像を絶する汚さ、貧乏さ(笑い)
    ちょっと救いは、こそ泥とか、小狡い奴が居ないことでしょうか(そこが今と違う?)
    今の感覚で、戦前の人や明治・江戸の人を、賛美したり批判したりする人を見ると、
    こいつはお馬○ちゃんで、使えん(笑い)
    少年の頃、祖父さんに比較的話を聞いた方だと思いますが・・
    今考えれば、もっと沢山聞いておけば良かった、と言ってももう出来ない、しょうがない(泣き)

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      最近多いですよね、「昔は良かった」や「昔こそが素晴らしかった」と言う話・・・。
      でもこうして自分や現在の社会に取って都合の良い話だけがクローズアップされていくと、現在自身や社会が抱えている問題から唯逃げているだけになり、むしろ過去の問題点や非常に厳しい事実にこそ、今の問題を解決する答えが潜んでいるかも知れません。そして社会環境や人心がどう動いてきたかを知る事は、これからどこへ行こうとしているかの答えかも知れない。
      達磨太師は蓮の花も泥の中の茎や根も同じ「蓮」だと言っていました。
      核兵器は反対だと言いながらも、現実に誰かに叩かれれば痛い、そして理不尽に叩かれても力が無ければ笑っているいるしか無い。
      文化や伝統と言うものは守るべきものではなく、その時代を勇気を持って見つめる事ではないか、そう思います。

      コメント、有り難うございました。

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