「月のメッセージ」

さて今夜は月にまつわる少し不思議な話を一つ・・・怪しい感じはするが、こうした証言をしている人が、かなりの地位の人や専門家であること、また実際に公式の記録に残っていることを考えると、「それはデタラメだ」と一笑に付すこともできない話でもある・・・。それでは始めようか・・・。

1958年9月29日、午後8時30分、自宅で望遠鏡を使い月を観測していた明治大学教授、豊田堅三郎氏は「何だこれは・・・・」と首をかしげ、目をこすりながら何度も望遠鏡に浮かび上がる月を確かめた。
何と、月の中央、少し上よりの通称「晴の海」と呼ばれる暗い部分の下にある白く輝く部分に、まるで黒く墨で書いたように[pyaxjwa]の文字が二行になって並んでいるではないか・・・
「こんなことが・・・信じられない」豊田氏は思わずつぶやいた。

同氏は工学博士だったこともあり、こうした場面であらゆる可能性を考えてみたのだが、望遠鏡のレンズや内部に何か付着していないか、少し望遠鏡をずらしてみて確かめ、窓ガラスも確かめたが、窓は開いていてガラスの干渉は受けていなかったし、望遠鏡をずらしてしまえばその文字は写らなかった・・・つまりその文字は間違いなく月の表面に書かれていたのだった。
博士はさすがに自分でも信じられなくなり、居合わせた姪や近所の人達に代わるがわる望遠鏡を覗いてもらって、全員が見えることを確認したのである。

また博士はこのスペルを調べてみたが、こうした英語のスペルは存在せず、、当時「十七夜の月に、英文字が書かれているのを確認した」と実名で発表した豊田博士のこの事件に対しては、何かの暗号ではないか、月面の地形と、太陽光線のあたり具合によって、そう言う陰ができたのではないか・・・、などの話も出たが、結局今に至ってもこの現象はそれを説明できる何の方策もないままなのである。

またこれは1954年に火星が地球に大接近したときのことである。
パロマ天文台では青色フィルターをかけて火星の写真撮影を行ったところ、火星の真ん中にくっきりと「W」の文字が現れていたのである。
天体望遠鏡の画像は倒立画像だから、実際には「W 」ではなく「M」・・・つまりMarsの頭文字ではないのかと言う話になったのだが、パロマ天文台の当時の責任者リチャードソン博士は「どう説明すべきか、誰か教えて欲しい」・・・と見解せざるを得なかったのである。

この「M」の文字・・・その後火星が地球に接近するたび出現しているのだが、今だこれが何なのかは解明されていない・・・、しかもおかしなことに、こうした話はその後1990年ごろを境に全く報道もされなくなったのである。

イギリスやブラジルでも非公式だが、一般市民が月に文字や、意味のないスペルが現れたとする通報が警察になされているし、その目撃例も比較的多かった時期があるのだが、近年こうした情報は全く報道されない。
完全に科学が説明できるものしか報道できない・・・いたずらに市民の混乱を招く・・・とする報道の姿勢があるのか、こうした怪現象そのものがなくなったのかは分からないが、なんとも余裕のない、夢のない社会になったものだと思う。

ちなみにこの「月のメッセージ」・・・どちらかと言えば、満月かそれに近い月齢の時の目撃例が多かったらしい・・・。

たまには英文でも書かれていないか、月を眺めようかな・・・。

「茶坊主みたいな真似・・・」

田舎に住んでいると、何か集まりがあって出かけて行けば、集まっている人の殆どが自分の父親や母親くらいと言うケースが多い。

そう言う場では何かしら自然に無言の圧力が加わってきて、どうしてもお茶などをお入れしているのが自分になって、ついでに「先生、御無沙汰しております・・・」などとついつお心にも無いお世辞も言っていたりするが、こうした習慣と言うものはなかなか抜け切らないもので、他の割と若い年代が集まっている会合でも、なぜかお茶をお入れしているのが自分になっていたりする。

そして「○○さんの御活躍は本当に私もみならいたいと・・・」などと、ここでもかなり年下の人にお世辞を言っているものだから、同年代の知り合いがいると「お前も結構いい立場なんだから、そんな茶坊主みたいな真似はよせ」と言われる。

だがこのブログの始めの方にも書いたと思うが、私はエレベーターすら待っていられないほどのせっかちだから、黙って座っているのがとても苦手なうえ、何か人からものを貰ったり、何かされたりするとプレッシャーを感じてしまうのだ。
例えそれがお茶1杯でもそう思ってしまうから、いつも自分が先に動くことにしてるし、そもそも確かにお世辞なのだが、その時は心から言葉どおりのことを思ってもいるのだ。

昔やはり駆け出しの頃、こうした会合や会議に出ると、巨匠、先生という感じでみんなドーンとしていて迫力があったし、駆け出しの若造がお茶を入れたくらいでは、言葉一つもないのが普通で、「若い者はどう思う」などと意見を聞かれて、正直に思うことなど話そうものなら「ばか者」と一喝されて終わりだった。

本当のことを言うと私も時々「ばか者」とか言いたいこともあるのだが、つくづく50代と言うのは「損」な年代だったと思う。
若い時には「ばか者」で一蹴され、今度は自分がそうした年代になったら、なぜか昔の巨匠や先生方は私達より更に若い、「こんなの作ってまーす」の女の子や都会から来て「頑張ってまーす」の青年達の感覚が素晴らしい、「お前ら50代は本当に才能がないと言うか、つまらん」で、結局ずっと評価されないままなのである。
その結果、20近くも年が違う若い女の子に私がお茶をお出しして、見るに見かねた同年代の知人が「そんな惨めな真似はよせ」となるのだが、残念ながら私がそうしているのは卑屈になっているからではないのだ。

若い時はたまに人の夢や希望が、自分の希望と重なったように見えたこともあったが、
こうした年齢になってしまうと、人の夢や希望と重なるものがなく、特にこうして団体で「業界の発展」や「地域経済への貢献」を語っても、自分とは噛みあわなくなってきてしまった。
私は「私利私欲」のために働いているのであって、地域や社会への貢献は利益を出して税金を払うことだと思うし、まず考えなければならないのは、家族とスタッフの幸せであって、それが満たされて初めて地域や社会への貢献を考えるべきだと思っているので、こうした組織内での立場や地位には関心がないばかりか、もう崩壊すべき時が来ているように思っている。

だから「楽しんで頂けてなんぼ、笑っていただけてなんぼ、の世界、お笑い芸人をやっているのだが、これはある種の「ええじゃないか」でもある。
どうせ壊れて行く、終わってしまうものなら面白おかしくそうなって行くのも楽しいかも知れないと思っているのだ。

そして他の者はともかく、私と私の関係者だけはこの世界で生き残って見せる、チャンスがあったら、必ずまた世界を狙ってやる。そう言う傲慢な野心があるからこそ、笑ってやれる茶坊主なのだ。

ちなみに私の仕事場では、勿論うら若き?女性代表がいるのだが、大概の人はここへ訪れると、当然彼女がお茶を入れてくれるものだと思っているが、実は50男の私が汚い手でお茶をお出ししている。
どうしてかと言うと、彼女は仕事をしに来ているからで、お茶くみ、掃除、雑用は後継に道を譲った私がすべきことだからだが、それ以前に「ああ、お茶をお出しして」と偉そうに若い者を使う、そう言う態度が大嫌いだからだ。

もしかしたら、私の数少ない才能とは「茶坊主」だったか・・・・(笑)

「布を裁つ」

輪島塗の下地工程の中で最も重要な工程の一つである「布着せ」、寒レイ紗などの布を素地に漆で貼り付け補強する工程で、寒レイ紗などを裁断する時、寒レイ紗を切るとは言わない。

布の裁断は「たつ」と発音し、これはどちらかと言えば「裁」や「絶」に近い概念がある。

すなわち「切る」は後の秩序にまでは及ばないが、「裁」や「絶」は後の秩序に及ぶ概念がある為で、こうした言い方は昭和40年ごろまでは縫製などの分野でも使われた言葉だが、現在では縫製関係では「裁断」、輪島塗でも「たつ」と言う言い方は少なくなり、若い年代では「切る」と言う表現をする者も出始めている。

またこの布を張る事によって為される素地補強だが、基本的に素地の補強にはならない。

製作者の気持ち、情念として布を貼ったから強度が増したと思う気持ち、その点に本質が有り、布を貼っても本質的素地の強度を超えて素地を維持することはできない。

もっと言うなら、壊れた時、破断面から布が出てくる事によって、「これだけの仕事をしていたんです、これだけの事をしても壊れるのは仕方がないんです」と言う弁明を形にしたものと言えるかも知れない。

寒レイ紗などの布は適当な幅で器物を一周する長さに裁ち(たち)、この場合現在では「バイアス」と言って繊維が45度の角度になるように斜めに裁つ方式が一般的だが、これは椀に対する布のかけ方で、布の最大強度は長さに相当する繊維方向が幅に相当する繊維方向より圧倒的な強度がある事から、布の最大強度は長さに相当する方向に平行方向に貼るのが最大強度になる。

しかし、この方法だと伸縮性が無く、漆と共に乾燥する過程で横方向のみが縮み、平行方は縮まない為、素地が椀などの曳き物の場合、歪みを発生させる恐れがある。

この為に布を45度に傾け、乾燥過程で布の伸縮性を発生させる効用が「バイアス裁ち」の必要性を生んだのであり、これが万能なわけではない。

四角い「お重」などの器物には長さに相当する繊維方向と同じ方向で布を裁つ「縦取り」が有効であり、強度は無いが上縁が極めて薄い杯(さかずき)などの場合には、繊維幅方向に対して平行な「横取り」が有効な場合もある。

元々こうして素地を補強する概念の始まりは「麻布」、しかも割りと粗めの麻布が始まりで、確かに古代に使われていた麻布なら素地補強としての意味も有ったのだが、近代からこれは「サラシ」などの綿織物に変化して行き、決定的だったのは明治以降、綿織物が市場で爆発的に出回り消費が増え、それに比例して麻布の消費は後退、これに連動して綿は手に入り易いが麻布が手に入りにくくなって行く。

この過程の少し前から輪島塗の「布着せ」に使用する布は麻布から綿の「寒レイ紗」に切り替わっていったのであり、現在ではこうした強度に対する思いから、現代の麻布を使おうとする動きもあるが、これは意味を為さない。

古代の麻布は原始製法であり、この場合は麻の繊維が1本丸ごと通っているものを1本の糸として編まれている。

しかし現代の麻布は麻の繊維を粉砕して綿状にしたものを糸として編まれている為、確かに布だけ見れば綿の「寒レイ紗」よりは強度があるが、これが漆に接触すると、漆の乾燥硬度に負けてしまい、つまり漆と一緒にいとも簡単に割れてしまうのである。

現代版麻布は、確かに素材は麻だが、こうした意味では古代の麻布とは全く別の麻を使った綿織物なのであり、繊維のときは確かに寒レイ紗よりも強度があるが、漆によってその繊維の強度を失うと言う点では寒レイ紗と全く変わらない。

更に糊付けが為されていない現代の麻布は、適当な幅と長さに裁つ時、繊維としての平面性、硬さを持たないことから思うような幅や長さに裁つ事が難しい。

輪島塗で寒レイ紗を裁つ場合、伝統的に「うす刃」と言う「臼」(うす)の形をした刃物を木の定規に当てて裁つのが一般的だったが、これも現在では「うす刃」を「薄刃」と考えているケースも多く見られ、更には前出の「粉砕麻布」などを裁つ場合には、繊維が柔らか過ぎてこの「うす刃」は使えない。

鋏(はさみ)で「切る」と言う事になって行く訳である・・・・。

「重複集合社会」

2の倍数が集まった集合A群と、3の倍数が集まったB群、そして5の倍数が集まったC群はまったく接点が無いかと言うと、2と3を掛け算すると求められる6から、その6の倍数12、18、24と言う具合にA群、B群は次々と同じ接点を持ち始める。
またこれと同じようにA,B群共通の最も小さい単位6と、C群の5を掛け算して求められた30は、A,B,C群共通の接点であり、この倍数からA,B,C群共通の接点が60、90と言う具合に始まっていく。

2と3、5はそれが個体だとまったく接点がなくなるが、これが倍数で複数の場合は数が多くなるに従って接点は増えていき、大きな数ほど接点、つまり交わる部分が多くなっていくのである。
これは小学校で習う「集合」と言う数学上のものの考え方だが、そもそも数学とは自然の中の関係や、その因果関係を誰でも分かりやすい形にしようとしたものであり、自然や言葉にならないものを、人にもっとも身近な立場から示そうとしたものである。
従って数学の理論は人間の社会を現すものとして、また人間の思想を表す記号としての意味も持っている。

Pillarization:Verzuiling・・・、日本語に訳すと「柱状化社会」とでも呼んだら良いだろうか、オランダの社会は少し前までは、この冒頭に出てきた「集合」の理論そのものの社会形態を持っていた。
多文化社会形成モデルとして知られるこのオランダの社会システムは、宗教と政治的信条によって形成される「集団」(柱)が、それぞれに自由を認められ、平和的な共存を可能にする仕組みのことだが、分かりやすく言うとアメリカ社会にある例えば外国人街・・・、これに自由と自治権利を認める代わりに、アメリカ国民として果たさなければならない責務もまた課していく・・・と言う仕組みだ。

オランダは19世紀にカトリック教徒、プロテスタント各派などにその自由を認め、国民国家の統合を確保してきたが、各集団ごとに政党、労働組合、新聞、学校、病院などが設立され、各集団所属の住民はその集団の中で生きて行くと言う形態があった。
しかし1970年代、オランダは労働力不足に陥り、そこで移民労働者が大量に流入し始めた結果、やがてイスラム教徒が外国人労働者の主流となってしまった。

またこうした19世紀に始まった、言わば狭い社会の重複形式を古典的と考える社会思想から、1960年代を契機にこのオランダの集団(柱状)社会も次第に溶解し始め、現代ではすでに解体してしまったとも言われているが、これはそう日本における古い文化や慣習、しきたりが次第に消滅しつつあるのと原理は同じことである。

しかしオランダでは信教、教育の自由と言った基本原則や仕組みは今も残っていて、そうしたシステムに支えられて、大量に流入してきたイスラム教徒も、独自の集団(柱)を形成するようになっていったものと思われているが、1990年代から移民2世、3世の失業率が増加していった背景から、この弱くなっても残っていた集団(柱状)社会が、イスラム系移民の集団(柱)を宗教上、慣習文化上受け入れられないケースが続出し、こうした移民2世、3世が社会的不適応とされる問題が起こってきた。

これに対してオランダ政府は労働、教育政策などを統合する政策、つまり集団(柱状)社会に逆行する形・・・、の政策を進めていったが、イスラム社会を糾弾していた映画監督テオ・ファン・ゴッホが2004年、移民2世の青年に暗殺される事件などがあってから、現在多文化主義モデルの見直しも進められている。

この柱状社会の考え方は、古代ギリシャのポリスの構想とも似ていないことは無いが、古代ギリシャのポリスはそれぞれの独立性が極めて高いことであり、柱状社会は同じ国土内での重複がある点で、決定的な差があり、またそれぞれの集団と言っても、カトリックとプロテスタントと言った具合に、対立しながらも、共有できる文化同士なら、つまり数の集合でも2の倍数と3の倍数の接点なら最初は6だが、これにイスラム教が入ってくると・・・、つまり5の倍数が加わると、いきなりその最初の接点が30にまで跳ね上がってくると言う問題点がある。

だがこれからの国際社会は情報、経済の観点から他民族、多文化国家の形態にならざるを得ないことから、問題点は多いとしても、このオランダの集団(柱状)社会のモデルは1つの指標となるのではないだろうか。

10年近く前、多分まだ15歳の少女だったと思うが、日系ブラジル人だった彼女は付き合っていた男子大学生の子どもを妊娠していたが、保険もなく、結局自分1人で出産しようとして失敗し、死亡しているのが後で発見された・・・と言う事件があったが、こうしたことは制度上有り得ないことだから・・・と皆が無視し、また付き合っていた大学生もその責任を放棄したことから起こった悲劇だった。

しかし幸せになろうとして日本へ渡ってきて、一見優しそうな大学生の子どもを身ごもり、そしてそのことから棄てられ、たった1人で子どもを出産しようとした15歳の少女は、どんなに不安な思いのまま死んでいったことだろう。
そしてこうしたことは「間違い」「手違い」のようにしか考えない日本社会の形式主義は、同じ悲劇を繰り返すに違いない。

オランダの社会はこうした点から見ると非常に現実に即した社会システムを持っている。
すなわちそこには、有り得ないことは誤差としか考えない社会と、有り得ないことでも実際に起これば、これに対処する社会の違いがあり、こうした考え方の差は、早くから多文化国家としての歴史を持っていたオランダだからこそと言えるだろう。

日本もこれから少子高齢化社会を迎えるに当たり、また活発な経済活動を望むなら、どこかでは異民族多文化国家とならざるを得ないのではないか・・・、そしてこうしたことに対処できる心の準備が必要になってきているに違いない。
まずは緊急に医療保険制度から考える必要があろうか・・・。

「乾燥しないもので乾かす」

急激に進行する革命(revoliution)の中期、その意義や内容は理解されることなく、表面上の正義や自由、平等と言ったものが先行して人々の中に蔓延し、あらゆる現実をこうした表面上の形骸、薄い膜が覆い尽くして、その下では全く動きが取れない状態が発生する。

これは事態が急激に進行する為、直接空気に触れる表面が急速に乾燥し、その乾燥した表面が蓋になる事に拠って中が乾燥できなくなる、漆と温度の関係に全く同じであり、漆の場合は気温33度を超えると乾燥速度が低下する一方、表面は高い気温に拠って急激に乾燥し、形成された塗膜は加速的に蓋としての働きを強め、塗膜下の漆は乾燥速度が大幅に遅れてくる。

これが夏の高温時、漆の乾燥速度が遅れてくる原因だが、漆は空気中の湿度と温度で乾燥するものの、温度だけが高くて湿度が低い場合にも乾燥速度は遅れ、下地などに使われる添加剤に拠っても乾燥は遅れる。

漆の添加剤は上塗漆では「水酸化鉄」だが、下地では膠(にかわ)、砥の粉、米糊、燻蒸木製粉末、カーボン、チタニウム粉末、珪藻土焼成粉末(地の粉)などが使われ、これらの殆どの添加剤は時間経過と共に漆の乾燥速度を遅らせる為、調合したらすぐに使用する事が理想的である。

だが一方、高温時にはこうした添加剤を加えた漆を直後に使用すると、調合漆内の水分が急激に水蒸気化し、漆内部の乾燥に必要な水分までも浸透圧で外に出てしまう為、表面乾燥と共に、中が乾かなくなる場合が出る。

この場合の対処法は「遅い漆」を添加する事であり、例えば前日や前々日に調合した漆を、全体の3分の1を超えない範囲で加えると、逆に乾燥速度が向上する。

漆の乾燥は基本的には水分の消失性に比例する事から、これを急激に進行させない事によって全体の乾燥速度を向上させるのである。

また漆の添加剤として最も多用される「砥の粉」だが、この添加剤は基本的には3ヶ月以内には完全乾燥しない。

砥の粉は乾燥した状態だと塊にはなれない為、市販されている砥の粉は水で希釈された膠(にかわ)に拠って固められ、それが砕かれ塊となって販売されているが、膠は一定以上水で希釈されると、硬化の支配を自身が行えなくなる。

書に用いられる墨は膠で固められているが、持っても手が黒くなる事はなく、しかし硯(すずり)で摺れば液体化する、半溶解性の性質に膠が調節され、その効力のおかげで書の墨は乾けば手で触っても黒い色が落ちてくることは無い。

しかし汗ばんだ手で触れば墨は落ちてくる。

固形の墨の状態では取れていたバランスが、硯に水を加えて摺った為に膠が自助硬化支配をうしなったのであり、この場合の硬化支配は水分が握ってしまうことになる。

この墨よりさらに希釈された膠に拠って砥の粉は固められているのであり、つまり砥の粉を一定以上の比率で添加剤として使った場合、その乾燥は水によって常に安定しない状態を生み、この水分の消失率によって乾燥が進む漆の液体は、珪藻類の死骸の中で分散独立し、水に拠っていつでも硬化率が失われる膠の成分と交じり合う。

この状態の硬化は常に不完全な事になるが、しかし、この不完全なるが故に研ぎ加工、研磨が容易になるのであり、これも墨と同じようにバランスの一つと言えるが、高温時、急激に水分が失われるとバランスは崩れ乾燥しにくくなる。

そしてこの対処方法は、現在では一般的に知られていないが、明治、大正期の職人の中では既に答えが求められていた。

「米糊」である。

米糊はその大半が水分で漆と混じると化学反応を起こし、水分の蒸発が砥の粉より遅い。

この為、砥の粉が大量に添加された漆に、砥の粉全体の25%を超えない範囲で糊を添加すると、砥の粉下地は完全に硬化する。

ただし、糊が多すぎると研磨時に硬化した糊が水溶し、表面が涙を流したようにようになってしまうので、添加される砥の粉の量の25%以内は必須である。

砥の粉の添加は表面の滑らかさ、研磨の容易性には欠かせない。

これに糊を入れると、当然表面は砥の粉だけの物より少し荒くなるが硬度は向上し、品物自体の強度も砥の粉だけの物より向上する。

乾いているか否かが微妙な砥の粉下地を研磨するよりは、遥かに安定した研磨が可能になり、その表面上の滑らかさも、砥の粉単独の場合より少し深く研磨すれば影響は全く無い。

漆の強度は躯体、素地を超えない。

同じように漆の特性は添加剤の特性が主になる。

もともと粉末がバラバラでしか存在できない砥の粉と、水分が飛ぶとパリパリになる糊、簡単に言えば干してしまうとカチンカチンになるご飯では、どちらが硬いかと言う事である。

ちなみにご飯と同じで、腐食して水分に支配された糊、カビが生えた糊などを使うと、漆も傷んだご飯と同じ特性になる。

つまり乾かなくなると言うことだ・・・・。

さて、この話、日本で何人の人のお役に立てるかな・・・・(笑)