「状況の尊重」

https://youtu.be/QnsqBCSBW88

書は體を現し、體は心を映す。
現在ではパソコンのワードが主流になってしまったが、文字と言うのは文字そのものが最も大きな意味を持つ一方、それが書かれた状況と言うものも書体の端々に現れ、それは心情のみならず書いている人間の環境をも現し、この事からも心と体は一つのものと観ることが出来る。

 

巻紙で書をしたためる時、最後の方に行くに従って巻きが細くなり、この事を「紙が痩せる」と言うが、使って行って減らずに逆に太ったりするのは人間とゴミだけで、大概のものは時間経過と共に少なくなるか、摩滅していく事から、巻紙も痩せてくると文字が書き辛くなってくる。

 

筆で書をしたためる時、机の上で書かれた文字と、机を使わずに書いた文字は同じ人でも違いが有り、これはその机の高さによっても違いが生じる。

 

だから書かれた文字によってその人が家で自分の机で書いているのか、或いはどこか旅に出ていて、普段使っている机では無いところで書いているのかが見えてくるのであり、これが机を使わず片膝を立て、そこに左手を固定し、巻き紙を少しづつ回しながら文字を書いている場合は、明確に違いが出てくる。

 

また電気の無い時代、文字は蝋燭との位置関係からも違いが生じ、蝋燭を左にかざすと文字は少し荒れ、右にかざした文字は狂いが少ない。
これは文字の書き始め、筆を入れる時の誤りの方が、筆を離す時の誤りよりも大きく影響するからである。

 

一本の蝋燭をかざし、片膝を立て、そこに文字を書く状況と言うものが、如何なる状況かを思えば、その書を受け取った者が感じる危機感、或いは書いた人の状況というものが、時に文字の内容以上に物事を伝える事になる。

 

だが一方、何時も机を使わずに片膝を使って文字を書いている人は、それが常となっている為、相手に自分の状況が覚られ難く、これをして言うなら、何時も机で書いている人の文字は緊急時には荒れる事になり、机が使えない状況の文字は緊急時も平常時も同じ文字になる。

 

つまり何時も自分の体以外の道具を多用してる人の文字は美しいが弱く、何時も自分の体だけに近い状況の人の文字は強い。

 

また一般的に片膝を立て、左手で巻紙を送りながら、書をしたためるのは大変難しいように思うかも知れないが、実はこれが巻紙の中心が常に見えていて文字が傾斜していく事が無く、目に対して平行な位置で文字が書ける為、意外に書き易い。

 

ただ立てている膝が安定していないと文字は簡単に乱れ、膝が綺麗に固定されると言う事は、体に不調が少なく、精神が乱れていない状況をして初めて成立する話でも有る。

 

これと同じ状況はみかん箱でも出てきて、昭和40年代くらいまで、通常袋売りの「みかん」が少なく、大概は箱売りされていたものだったが、この箱が木の箱だった。

 

まだまだ貧しい暮らしだった地方の田舎では子供に机を与えられる親は少なく、兄弟姉妹が師走に買ったみかん箱を机代わりに勉強している状況が有ったが、みかん箱をひっくり返した裏は平面ではなく凹凸だらけで、ここで鉛筆に力を入れて文字を書こうものなら容易にノートに穴が開く事になる。

 

みかん箱を机代わりにしていた子供達は、ノートの紙の反発力を利用しながら文字を書くことを体で憶えて行ったのであり、まさに道具の無い状況が人を、その強さを育てていたと言える。

 

そしてこうして文字を書く事でも「状況の尊重」と言う事が出てくる。
家が豊かで文机で書をしたためることが出来る人は、その状況を使わないと「他」に対して傲慢な事になり、ましてや相手が机が使えない事に配慮し自分も机を使わないなどは、相手の状況を哀れんでいる事になり、この哀れみの情が一番人を傷つける。

 

だから何時も片膝で文字を書くことが習慣ならば良いが、文机が有り高価な筆が使える者は、その机で高価な筆を使って美しい文字を書かねばならず、これは富める者の使命でもある。
机を使わず、わざと先の乱れた筆を使うことは虚飾となるのであり、これを恐れるなら普段から在野に有って自身を鍛える事が必要になる。

 

ちなみに巻紙が痩せて筆の幅に足りなくなってきた時は、膝先と手の平に乗った紙の反発力をして筆を使うのであり、最後尾は文字が書けない。
この事から昔の書簡は最後の余白が出るのであり、この余白が少ない者は文章、文字は上手いが優雅さに欠け、余白の大きな書簡は時間や暮らしに余裕が有る事になる。

 

差し迫って左にしか蝋燭がかざせなかった文字、余白が全く無い書はその人の状況が困窮しているか、或いは緊急時を現していて、これを読む者はその書の内容を読まずして相手の状況を知る事になる。

 

「状況の尊重」とは無駄な事をしない、自分の状況を偽らない事を言い、この事をして天意を乱さない事になるのかも知れないと私は思っている。
また、緊急時にこそ何事も無かったかのように普通である事が、最も大きな力で有るとも信じているかも知れない。

 

文字は誤ったら線を引き、そして正しい文字を加えれば良い。
紙を棄てなかった事、そして自らの誤りを自らの手によって正した事は褒められるべきことで、私はこうした書簡にこそ、その人の「状況に対する尊重」、誠実を感じる・・・・。

「侵入型重複人称」

我々の日々の行動は全て自分の意思決定に拠って為されているように見えるが、例えば仕事で人と面会しなければならない場合、そこには相手の都合と言うもう一つの意思が働き、友人との約束、恋人との約束もその共通の約束に拠って自身の行動決定要因が成立している。

またブログで文章や写真を掲載するにしても、それが例え自身の記録だったとしても、公開している場合はどこかで予め「他者」を期待している事になり、この他者に対する期待と言う影響は特定の1人称ではないが、不特定多数の反響と言う他者の意思を動機の一部にしている。

このように考えて行くと、我々人間社会に暮らしている者に取っての完全な1人称は成立が難しい。

全てどこかで他者の人称が加えられ、しかもそれを他者の人称と意識すらせず1人称と自覚している「重複人称」が多いのである。

だが、仕事の相手と言う対象がある場合、或いは恋人や友人、また不特定多数で有っても漠然とでも対象が意識できるものは形としての見え方が存在するが、世の中にはこうした形が見えない人称、予め人称が付帯しながら、それを1人称と錯誤させているものも多く、これらの重複人称を「侵入型重複人称」と私は呼んでいる。

原始的なところでは、スーパーやコンビニエンスストアーなどで、清算レジ付近にさりげなく並んでいる商品が有るが、これなどは清算する時の僅かな時間で「ついでに1つ・・・」と思わせるものが置いてあり、どうしようかなと思っている間にもレジの清算が終わりに近づくと、思わず最後に追加してしまうケースが多くなる。

これなどは自分の意思で選択したものだが、その選択の一部分を手助けしているものがスーパーやコンビニエンスストアーの主宰者の、1個でも多く売れて欲しいと言う他者人称が予め存在して成立する。

そしてこれが更に巧妙になるとアドバイザーやマヌカン、コンシュルジュと言った、自分の側に立っているような顔をした他者の意思を持つ人称へと進化し、ここでは如何にも自分の為と言う形を取りながら、最大でも自身と相手の利害一致点、悪ければ相手主導の人称に持ち込まれるのであり、これが利害関係に無ければ、他者人称に拠って自分と言う1人称を錯誤している事にまで及ぶ。

コーディネーターのアドバイスなどはコーディネーター自身が生産者ではないから、どれを選択するかは「専門知識」と錯誤され易いが、これも社会と言う漠然とした他者人称の影響が避けられず、またもしかしたらコーディネーターの好みも含まれているかも知れない。

コーディネートされたものは、専門家の意見を聞いて自身が判断したと思うかも知れないが、それは自身の選択ではなく、予めコーディネーターと言う他者人称が重複されているのであり、それが自身には気付かれないようにデコレートされているだけなのである。

更にこれが画像や映像に至ると、コマーシャルならまだしも流行の服を着ているアイドルなどは、この時点でメーカーや服飾デザイナー、衣装担当、ヘアメイクや照明、カメラマンの人称が予め含まれ、観ている者は自分で見ている気になっているが、それらは既に人の人称、しかも複数の膨大な人称になっている訳である。

勿論こうした傾向は例え景色の映像でも、それを第一選択したのはカメラマンや企画者であり、それを観ている自分は他者の人称に共感している、或いは他者の人称に自身を重ね合わせているだけ・・・とも言えるかも知れない。

インターネットの世界は、実はこうした重複人称、しかもしかも侵入型の重複人称に拠って成り立っている。

第一投稿者、企画者は1人だが、これがネット情報に流れた途端多くの人称が加えられ、最終的端末の人称はそれを1人称と錯誤しながら、特定方向の意思を持たない無意識流動に踊らされているだけになる。

自身が視覚的に見て良いなと思ったとしても、それは既に他者がもう自分に見せているものである事に鑑みるなら、この時点で1人称では無く重複人称、しかもその見せている者の意思なのである。

我々が観ているものの多くは「見せられている」のであり、聞いている多くの事は「聞かされている」のかも知れないのである。

「後始末工学」

熱力学第二法則に措ける質の高いエネルギーに対する質の低いエネルギー、つまり相対的に劣化したエネルギーは、例えば電気を使って湯を沸かした場合、この沸かされた湯が劣化エネルギーである。
電気はそれで湯も沸かせれば他にも動力としても使える、或いは電気そのもののエネルギーとしても使えるが、これで沸かされた湯を電気エネルギーに還元する事はできない。
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従って電気で湯を沸かした場合、我々はより質の高いエネルギーを使って質の低いエネルギーを生産した事になり、人間の営みは全てが質の高いエネルギーを質の低いエネルギーに変換し続ける、この作業の連続と言え、本来質の高いエネルギーはその存在が地球に古来から存在する成分と調和しているが、劣化したエネルギーは非調和成分が多く、こうした観点から考えるなら劣化エネルギーは存在そのものが邪魔になってくる、つまり人間の生産したものは全て最終的にはゴミなのである。
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これが地球と人類の関係であり、人類は地球を食いつぶすならまだしも、その本質は地球をどうにも還元しようのない劣化エネルギー、つまりゴミの星にしようとしていると言うのが正しい表現かも知れない。
近代科学技術社会が生産する物質の特徴は、その一つが量の莫大さ、二つ目には難分解組成物で自然分解が困難なものが多いこと、三つ目には人類史より遥かに長い歴史を持つ生態系に対する非調和性物質が多い事である。
プラスティックを例に取ろうか、この素材の生産物質は世界中に溢れ、しかも土に埋めようが野ざらしにしようが分解されず、植物や微生物がこの物質上に繁殖する事はできず、害こそあってもそこから養分などの摂取は不可能である。
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プラスティックは他の熱など質の高いエネルギーを使わなければ分解が困難なのであり、こうして質の低いエネルギーが質の高いエネルギーを使って分解され、その上分解時に発生する煤煙などには有害物質など、更に劣化したエネルギーが生産されるサイクルが有り、こうしたサイクルは地球が持つサイクルとは全く相反するサイクルで有り、人類が如何に「エコ」を唱えようがそれが行う生産はエネルギーの観点から全てゴミと定義されるべきものとなる。
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マクロエンジニアリングが進行し、人々がより高度な生活様式を展開する社会を迎えた今日、大衆の夢や希望とも言える豊かで快適な社会は、大量生産、より細部に至る物質のクオリティへと向かい、その事は質の高いエネルギーが質の低いエネルギーに変換されていく速度を更に早め、人間が使用する物質が全て永遠では無い事を考えるなら、その大量に生産された劣化エネルギー物質はいつか必ずゴミになる運命に有って、尚且つそれは長期に地球に滞在する事になる。
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また野菜や穀物などに措いても、既に自然が持つ還元型生産から離脱し、科学肥料や殺虫剤、除草剤などの非還元型、非調和物質、ここで言うなら劣化したエネルギーによってその多くが生産され、流通や保管、安全性の確保には生産以上のエネルギーが使われ、ここに分散されたエネルギーは元に集積させることはできず、日本人を例に取るなら食と言う第一次欲求に関して、その本質に使われるエネルギーの実に6倍から10倍の、質の高いエネルギー劣化変換が起きている。
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更にこうした意味で原子力をエネルギーを鑑みるなら、そこに有るのは莫大な量のエネルギー劣化で有り、しかもこのエネルギ劣化こそ地球に長期に渡って滞在する難分解劣化エネルギーであり、人類がもし原子力をエネルギーとして使い続けるなら、この処理工学は原子力開発以上に重要になるが、現在の段階ではそれが為されていない。
この現状で原子力エネルギー政策を推進すなら、人類は自身等が生産する劣化エネルギーによる影響以上の悲惨な結果を迎える事になる。
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だが一方、では石油火力発電や水力発電ではエネルギー劣化が無いのかと言えばそうではない。
化石燃料を燃やし、そこから電力を得てこれが人々によって消費された時点、冒頭の話でも出てきたように湯を沸かした時点でそれは劣化エネルギーに変換されるのであり、この事は水力発電でもダムに侵入する土砂などによって相対的貯水量の減少、また下流域の水コントロールによる平野の老化現象などに繋がる訳で、結果として原子力発電で消費するエネルギーと同等のものが劣化していき、この事は風力発電でも同じ原理を持つ。
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それゆえ人類が生きていく事、その中で豊かな暮らしや利便性を求めるなら、その滅亡は必然とも言えるのであり、国際社会や国家の破綻などたかが知れている。
今日我々人類に求められるものは、エネルギー劣化の阻止であり、言い換えれば貧しく不便な生活へのシフトダウンと言うことになろうか・・・。
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この地球の第一次生産者は「植物」である。
地球46億年の流れの中で、はるか26億年前には葉緑素の働きが既に始まり、藻類の発展こそが地球の大気を酸化性のものとし、その後発生してくる動物生態系の大発展の礎となり、海のプランクトン、高等藻類、地表を覆う緑色植物の存在は現段階でも全ての生物生存の絶対条件である。
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この事は常に忘れてはならない事であり、最も特殊で良質なエネルギー、「水」の循環濾過システムも「植物」であり、これを劣化エネルギーにし続ける事をして人間が生きていると言う事なのである。
人間の社会はおそらくどんな事でも最後は金で決算できるかも知れない。
だが、金や経済で地球は決算してくれるような相手では無い、その代償は「命」だ・・・。
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さて、不用意に湯を使う事から減らして行こうか、生きていく為に・・・。

「YESの中のNO」

これは輪島塗だけに限らず工芸会全て、いや現在の日本社会全般に付いて言える事だが、「頑張っている」と言う価値観は既に手遅れだと思う。

頑張っているから結果が良いとは限らず、頑張っても、頑張らなくても結果が同じなら頑張らない方が効率は良い。

また頑張っていると言う感覚は他者評価感覚であり、ここでは表面的に他者が知る範囲をして当人を評価した言葉が「頑張っている」と言う事なのであり、この言葉は自身が使う言葉ではない。

頑張っていると言う言葉を喜ぶなら、それは他者が持っている頑張っていると言う価値観に拠って、自身がそれを目指してしまう事になり、ここに自身の価値観の完結を求めることはできず、頑張っていると言う価値観は表面上の形に捉われ、本質は失われてしまっている事が多い。

プロフェッショナル、職人の本分は仕事の完結に在り、他者から頑張っていると言う評価を受けることではない。

頑張っていると言う評価を求めるは、もしかしたら仕事に対する自信の無さを自己擁護したい為、或いはできていない仕事に対する言い訳であるかも知れない。

頑張っていることをして価値観とするは、手続きを評価して結果を蔑ろにする事に同じかも知れない。

同様にコミュニケーションでも「親しい」と言う形をしてコミュニケーションと考える事は頑張っていると同等傾向の勘違いと言えるだろう。

みんなで集まってバーベキューをしたとする。

これを企画した人、主催者は集まった人が皆喜んでくれる、感謝しているものと錯誤し易いが、来ている人は嫌々ながら断りきれずに来ているかも知れない。

上司からの誘いだから来ているかも知れない。

その本質は親睦ではなく、実は本質的関係が壊れてしまって行く方向の可能性もある。

人間は言葉に拠るコミュニケーション、表面上の笑顔をして良好な関係を築いたと考えがちだが、コミュニケーションの中には沈黙や、目の前にいないが故に良好なコミュニケーションも存在する。

早く家に帰ってDVDでも観たいのに、「今夜は俺のおごりで飲みに行くぞ」の結果はYESの中のNO、つまりNOより深いNOとなってしまうのである。

だが「俺のおごりで・・・」と言う者に取っては他者は感謝するだろう、自身は良い事をしていると言う、「自分の範囲」を全く出ない価値観の強要だと言う事に気づかない。

人間は立場が上の者には抗し難い、為に笑顔で感謝する形を示すが、その感謝の本質には恨みが潜むかも知れない。

そしてこうした感謝の本質に潜む恨みを避ける方法は「親しくしない」と言う事になるかも知れない。

損もしないが得もしない関係、つまりは他者への干渉を行わない事は、他者に取っての善悪双方に措いて干渉しないと言う事であり、感謝を買おうとするなら恨みもまた買い易い、ならば感謝を買おうとしない事なのである。

プロフェッショナルにはこうした冷徹さと謙虚さが必要ではないかと思う・・。

そして「頑張っている」の売り買いは、こうした感謝の売り買いの無意味さと傲慢さに同じに見える・・・・。

「オペラは使い捨て」

ドレミと言う音階、この音階を決定する標準音、つまり元になる音だが、これはフランス音名「ラ」、ドイツ音名A「アー」の周波数となっているが、こうした標準音はいわゆるバロック期以前は非常に曖昧なものであり、地方によってその基準はバラバラの状態だった。
例えばフランスでは390ヘルツ、ドイツでは410~415ヘルツとなっていて、現在の音階よりはかなり低い音階で楽曲が演奏されていたようだ。

だがこうしたことでは地方によって同じ楽曲でも、もし半音階低く演奏されてしまうと全く違った曲調になったり、移動して演奏が行われるようになると支障が現れてきたことから、1939年標準音の基準音が定められた。
それによると気温20度の状態で場所はロンドン、そこで440ヘルツの音を基準音とすることが決められ、以後はこの440ヘルツを基準音として音階が構成されるようになる。

しかし近年、古典と呼ばれる楽曲の演奏には、やはりその当時の音階でなければ作曲者の意図が伝わらないのでは無いか・・・と言う考え方から、その時代の楽曲が作られた地域の音階を用いて演奏すると言う演奏形態も増えてきている。
この場合、例えば古い時期のフランスの音階だと、基準音より半音低い標準音が用いられ、その演奏は基準音の音階とは全く違ったイメージになる。

そしてこうした世界的な標準音が決められて以降、ではこのような標準音が守られているのかと言うと、これが実は違う。
標準音が決められた以降も世界の基準周波数は年々上がり続けており、近年のレコーディングスタジオでは、ピアノのA音を441~442ヘルツに調律し、それに合わせて他の楽器の音階も決めていくのが普通になっている。
また最近では445ヘルツを基準にしているオーケストラもあるようだ。

周波数が高くなればそれだけ音は繊細で鋭角的になる。つまり聞く側にはクリアな印象があるが、その代わり穏やかさを失うと言う欠点もある。
音楽も、忙しくストレスの多い現代社会には、その時代が求める音階へと自然に移行しているのであり、これから先も多分こうした標準音の基準値は上がり続けるのでは無いだろうか。

また音楽の話のついでにもう1つ。
16世紀にイタリアで生まれたオペラだが、始めは貴族社会の最もポピュラーな娯楽として生まれたオペラも、その後台頭してきた市民階級の登場によりさらに広い需要が発生してくると、現代のアニメのように次々と書かれては上演し、それはそれで素晴しいことなのだが、いわば使い捨て状態となって行った。

再演されることもなく、日々大量に書かれるオペラの楽譜は出版されることは稀で、劇場に売り渡される自筆譜や写譜も殆どが上演の後は棄てられるか、紛失するケースが多かったようであり、こうしたことから今日我々が知るオペラの数よりも、実際は桁外れの数のオペラが存在していたと見られていて、実数は不明ではあるが、統計学的に見ると最大72000作以上のオペラが上演されたのでは無いか・・・と考えられるのである。

つまりオペラは書かれては棄てられを繰り返し、その殆どが失われていったと言うことだが、こうした状況は19世紀以降、出版の定着とともにある程度解消されていくが、例えば19世紀だけでも10000作以上書かれたイタリア・オペラ、このうち現代社会で曲りなりにも上演できているオペラは100以下しかない。
我々は結局のところ、オペラを見ているようで、実はそれはのぞき穴からやっと見える程度のものを、チラッと見ているに過ぎないのである。

では今夜はこれまで・・・、と思ったが、最後に忘れていたことがあった。
ちなみに赤ちゃんが生まれて最初に発する声、産声(うぶごえ)だが、この声は440ヘルツの「ラ」の音だとも言われている。