我々の日々の行動は全て自分の意思決定に拠って為されているように見えるが、例えば仕事で人と面会しなければならない場合、そこには相手の都合と言うもう一つの意思が働き、友人との約束、恋人との約束もその共通の約束に拠って自身の行動決定要因が成立している。
またブログで文章や写真を掲載するにしても、それが例え自身の記録だったとしても、公開している場合はどこかで予め「他者」を期待している事になり、この他者に対する期待と言う影響は特定の1人称ではないが、不特定多数の反響と言う他者の意思を動機の一部にしている。
このように考えて行くと、我々人間社会に暮らしている者に取っての完全な1人称は成立が難しい。
全てどこかで他者の人称が加えられ、しかもそれを他者の人称と意識すらせず1人称と自覚している「重複人称」が多いのである。
だが、仕事の相手と言う対象がある場合、或いは恋人や友人、また不特定多数で有っても漠然とでも対象が意識できるものは形としての見え方が存在するが、世の中にはこうした形が見えない人称、予め人称が付帯しながら、それを1人称と錯誤させているものも多く、これらの重複人称を「侵入型重複人称」と私は呼んでいる。
原始的なところでは、スーパーやコンビニエンスストアーなどで、清算レジ付近にさりげなく並んでいる商品が有るが、これなどは清算する時の僅かな時間で「ついでに1つ・・・」と思わせるものが置いてあり、どうしようかなと思っている間にもレジの清算が終わりに近づくと、思わず最後に追加してしまうケースが多くなる。
これなどは自分の意思で選択したものだが、その選択の一部分を手助けしているものがスーパーやコンビニエンスストアーの主宰者の、1個でも多く売れて欲しいと言う他者人称が予め存在して成立する。
そしてこれが更に巧妙になるとアドバイザーやマヌカン、コンシュルジュと言った、自分の側に立っているような顔をした他者の意思を持つ人称へと進化し、ここでは如何にも自分の為と言う形を取りながら、最大でも自身と相手の利害一致点、悪ければ相手主導の人称に持ち込まれるのであり、これが利害関係に無ければ、他者人称に拠って自分と言う1人称を錯誤している事にまで及ぶ。
コーディネーターのアドバイスなどはコーディネーター自身が生産者ではないから、どれを選択するかは「専門知識」と錯誤され易いが、これも社会と言う漠然とした他者人称の影響が避けられず、またもしかしたらコーディネーターの好みも含まれているかも知れない。
コーディネートされたものは、専門家の意見を聞いて自身が判断したと思うかも知れないが、それは自身の選択ではなく、予めコーディネーターと言う他者人称が重複されているのであり、それが自身には気付かれないようにデコレートされているだけなのである。
更にこれが画像や映像に至ると、コマーシャルならまだしも流行の服を着ているアイドルなどは、この時点でメーカーや服飾デザイナー、衣装担当、ヘアメイクや照明、カメラマンの人称が予め含まれ、観ている者は自分で見ている気になっているが、それらは既に人の人称、しかも複数の膨大な人称になっている訳である。
勿論こうした傾向は例え景色の映像でも、それを第一選択したのはカメラマンや企画者であり、それを観ている自分は他者の人称に共感している、或いは他者の人称に自身を重ね合わせているだけ・・・とも言えるかも知れない。
インターネットの世界は、実はこうした重複人称、しかもしかも侵入型の重複人称に拠って成り立っている。
第一投稿者、企画者は1人だが、これがネット情報に流れた途端多くの人称が加えられ、最終的端末の人称はそれを1人称と錯誤しながら、特定方向の意思を持たない無意識流動に踊らされているだけになる。
自身が視覚的に見て良いなと思ったとしても、それは既に他者がもう自分に見せているものである事に鑑みるなら、この時点で1人称では無く重複人称、しかもその見せている者の意思なのである。
我々が観ているものの多くは「見せられている」のであり、聞いている多くの事は「聞かされている」のかも知れないのである。
これは輪島塗だけに限らず工芸会全て、いや現在の日本社会全般に付いて言える事だが、「頑張っている」と言う価値観は既に手遅れだと思う。
頑張っているから結果が良いとは限らず、頑張っても、頑張らなくても結果が同じなら頑張らない方が効率は良い。
また頑張っていると言う感覚は他者評価感覚であり、ここでは表面的に他者が知る範囲をして当人を評価した言葉が「頑張っている」と言う事なのであり、この言葉は自身が使う言葉ではない。
頑張っていると言う言葉を喜ぶなら、それは他者が持っている頑張っていると言う価値観に拠って、自身がそれを目指してしまう事になり、ここに自身の価値観の完結を求めることはできず、頑張っていると言う価値観は表面上の形に捉われ、本質は失われてしまっている事が多い。
プロフェッショナル、職人の本分は仕事の完結に在り、他者から頑張っていると言う評価を受けることではない。
頑張っていると言う評価を求めるは、もしかしたら仕事に対する自信の無さを自己擁護したい為、或いはできていない仕事に対する言い訳であるかも知れない。
頑張っていることをして価値観とするは、手続きを評価して結果を蔑ろにする事に同じかも知れない。
同様にコミュニケーションでも「親しい」と言う形をしてコミュニケーションと考える事は頑張っていると同等傾向の勘違いと言えるだろう。
みんなで集まってバーベキューをしたとする。
これを企画した人、主催者は集まった人が皆喜んでくれる、感謝しているものと錯誤し易いが、来ている人は嫌々ながら断りきれずに来ているかも知れない。
上司からの誘いだから来ているかも知れない。
その本質は親睦ではなく、実は本質的関係が壊れてしまって行く方向の可能性もある。
人間は言葉に拠るコミュニケーション、表面上の笑顔をして良好な関係を築いたと考えがちだが、コミュニケーションの中には沈黙や、目の前にいないが故に良好なコミュニケーションも存在する。
早く家に帰ってDVDでも観たいのに、「今夜は俺のおごりで飲みに行くぞ」の結果はYESの中のNO、つまりNOより深いNOとなってしまうのである。
だが「俺のおごりで・・・」と言う者に取っては他者は感謝するだろう、自身は良い事をしていると言う、「自分の範囲」を全く出ない価値観の強要だと言う事に気づかない。
人間は立場が上の者には抗し難い、為に笑顔で感謝する形を示すが、その感謝の本質には恨みが潜むかも知れない。
そしてこうした感謝の本質に潜む恨みを避ける方法は「親しくしない」と言う事になるかも知れない。
損もしないが得もしない関係、つまりは他者への干渉を行わない事は、他者に取っての善悪双方に措いて干渉しないと言う事であり、感謝を買おうとするなら恨みもまた買い易い、ならば感謝を買おうとしない事なのである。
プロフェッショナルにはこうした冷徹さと謙虚さが必要ではないかと思う・・。
そして「頑張っている」の売り買いは、こうした感謝の売り買いの無意味さと傲慢さに同じに見える・・・・。
ドレミと言う音階、この音階を決定する標準音、つまり元になる音だが、これはフランス音名「ラ」、ドイツ音名A「アー」の周波数となっているが、こうした標準音はいわゆるバロック期以前は非常に曖昧なものであり、地方によってその基準はバラバラの状態だった。
例えばフランスでは390ヘルツ、ドイツでは410~415ヘルツとなっていて、現在の音階よりはかなり低い音階で楽曲が演奏されていたようだ。
だがこうしたことでは地方によって同じ楽曲でも、もし半音階低く演奏されてしまうと全く違った曲調になったり、移動して演奏が行われるようになると支障が現れてきたことから、1939年標準音の基準音が定められた。
それによると気温20度の状態で場所はロンドン、そこで440ヘルツの音を基準音とすることが決められ、以後はこの440ヘルツを基準音として音階が構成されるようになる。
しかし近年、古典と呼ばれる楽曲の演奏には、やはりその当時の音階でなければ作曲者の意図が伝わらないのでは無いか・・・と言う考え方から、その時代の楽曲が作られた地域の音階を用いて演奏すると言う演奏形態も増えてきている。
この場合、例えば古い時期のフランスの音階だと、基準音より半音低い標準音が用いられ、その演奏は基準音の音階とは全く違ったイメージになる。
そしてこうした世界的な標準音が決められて以降、ではこのような標準音が守られているのかと言うと、これが実は違う。
標準音が決められた以降も世界の基準周波数は年々上がり続けており、近年のレコーディングスタジオでは、ピアノのA音を441~442ヘルツに調律し、それに合わせて他の楽器の音階も決めていくのが普通になっている。
また最近では445ヘルツを基準にしているオーケストラもあるようだ。
周波数が高くなればそれだけ音は繊細で鋭角的になる。つまり聞く側にはクリアな印象があるが、その代わり穏やかさを失うと言う欠点もある。
音楽も、忙しくストレスの多い現代社会には、その時代が求める音階へと自然に移行しているのであり、これから先も多分こうした標準音の基準値は上がり続けるのでは無いだろうか。
また音楽の話のついでにもう1つ。
16世紀にイタリアで生まれたオペラだが、始めは貴族社会の最もポピュラーな娯楽として生まれたオペラも、その後台頭してきた市民階級の登場によりさらに広い需要が発生してくると、現代のアニメのように次々と書かれては上演し、それはそれで素晴しいことなのだが、いわば使い捨て状態となって行った。
再演されることもなく、日々大量に書かれるオペラの楽譜は出版されることは稀で、劇場に売り渡される自筆譜や写譜も殆どが上演の後は棄てられるか、紛失するケースが多かったようであり、こうしたことから今日我々が知るオペラの数よりも、実際は桁外れの数のオペラが存在していたと見られていて、実数は不明ではあるが、統計学的に見ると最大72000作以上のオペラが上演されたのでは無いか・・・と考えられるのである。
つまりオペラは書かれては棄てられを繰り返し、その殆どが失われていったと言うことだが、こうした状況は19世紀以降、出版の定着とともにある程度解消されていくが、例えば19世紀だけでも10000作以上書かれたイタリア・オペラ、このうち現代社会で曲りなりにも上演できているオペラは100以下しかない。
我々は結局のところ、オペラを見ているようで、実はそれはのぞき穴からやっと見える程度のものを、チラッと見ているに過ぎないのである。
では今夜はこれまで・・・、と思ったが、最後に忘れていたことがあった。
ちなみに赤ちゃんが生まれて最初に発する声、産声(うぶごえ)だが、この声は440ヘルツの「ラ」の音だとも言われている。