「東条英機・第二章」

第二次世界大戦は、本当のところ日本が真珠湾攻撃を開始しなければ、この段階では世界大戦にはなっていなかった。
ドイツ、イタリアのヨーロッパアフリカ戦争だったが、ドイツ攻撃をもくろむアメリカの作戦は、対立していた日本を追い込み、そこから戦争大義を得てドイツ攻略の足がかりとするもので、この点ではその戦争視観において、平面と立体ぐらいの差があった。真珠湾攻撃は東京時間の12月8日、午前7時45分、第一次攻撃隊の先頭を飛行する淵田総指揮官機に搭乗する、水木徳信一等兵曹のモールス信号「ト」の連送で始まった。突撃命令の「ト」であったが、同日午前7時52分、淵田中佐は水木兵曹に「トラトラトラ」の打電を命令する・・・、すなわち「われ、奇襲に成功せり」である。

真珠湾攻撃を巡っては、もともとこの作戦は海軍、山本五十六が推していた作戦であり、その背景にはアメリカを良く知る山本が、こうした奇襲作戦である程度勝利を収めた時点での講和がその作戦目的だった。
つまりこの時点では戦争目的と作戦の終了点が存在してたのだが、日本はこの作戦で勝ちすぎた、また暗号電文の解読に手間取り、宣戦布告の通知が真珠湾攻撃の後になってしまったこと、これらがあいまって「日本は卑怯だ、絶対許せない」と言う気運がアメリカ国内に拡大していくのである。

戦争を始めなければならないときの首相、その決断をしたとき、人間はどう言うことを考えるものだろう。
東条は家へ帰っても、家族には一切政治や軍のことを話さなかったが、それは東条の軍人としての職務ゆえ、また家へ帰れば一家の父としてできることが、ただ黙っていることをして、自身ができる精一杯の思いやりだったのかもしれない。

太平洋戦争の開戦を決意した日、東条はいつものとおりに帰宅し、まずは先祖に挨拶をするつもりだったのか仏壇にお参りし、それから婦人に1人にしてくれと言って早めに休んだようだが、その夜明かりが消えた東条の部屋からは、遅くまで東条の押し殺した嗚咽が聞こえていた。

天皇陛下のご期待に最後まで応えられなかった、もとより陛下のためであれば、この東条、命をかけてお仕えする覚悟なれど、大勢の意そこ(開戦)にあれば、我、大勢をおもねる者としては、これに抗すことかなわず、それをして陛下の御心に翳りを生じせしむるを、ただ唯、申し訳なく・・・。

私が幼い頃、神棚の隣には昭和天皇と皇后、明治天皇の写真が飾られていて、大人たちはそこを通るたびに姿勢を低くして頭を下げていた。
写真で見る昭和天皇と皇后は、明治天皇からすると、その威厳と言う点で少し見劣りがしたが、私も大人たちと同じようにそこを通るときは頭を下げて通ったものである。
そしてその写真は今も家の神棚の隣に掲げてあり、私はたまにそれを眺めているが、こうしてみると昭和天皇も随分と風格があることに気づく、そして大して尊敬もしているようには思えないが、なぜか僅かでも頭を下げてそこを通る自分がいる。

東条は戦争の恐ろしさを分かっていて戦争を始めたかどうか、おそらく分かってはいなかっただろう。
この点では木戸幸一とさほど大差が無いが、東条の開戦の決断、この話を何か感動的なものと思ったら、それは違う。
東条の天皇陛下に対する気持ちは分かる。
しかしそこには感動的な話の影に隠れて「国民」の姿が消えているのであり、東条が婦人や子供たちのことを考えなかったとは言わないが、1人1人の命が極めて軽く考えられていることだ。

誰でも、もしかしたら戦争を決断しなければならない状況のとき、総理大臣の椅子は躊躇するだろう。
皇族は天皇との関係を考えて大日本帝国憲法へのかねあいから、皆内閣の組閣を拒んだが、東条は余りにも官僚主義的、事務的男だったことから、この大命を引き受け、ただ唯黙々と事務的に戦争をこなしていくのである。

軍人と言えども平時のときは1つの組織であり、そこに求められるのは高い事務処理能力だ。
東条は若いときから努力の人であり、自分に与えられた仕事を全力で全うしようとするところがあり、大変な勉強家でもあった、このことが東条をどんどん高い地位へと押し上げていくのだが、その根底はどうしても法令順守の型抜きされたようなものの考え方であり、だから開戦前、陸軍、海軍、その他財界や皇族からも、「開戦時の総理としては東条は妥当だが、戦争には向かない男だ」・・・とされていた。

随分卑怯な話である。
戦争の表紙を東条にして、後は好きなことをしようと言う、こうした輩の姿勢は終戦後まで続いていくことになる。

真珠湾攻撃で大勝した日本は、国内中が日露戦争当時の再来と湧き立ち、関東大震災以降ずっと続いていた不景気に加え、その後の世界恐慌でズタズタになっていた民衆の生活の中に光を差し込ませた。
「アメリカ何するものぞ・・」大本営の発表は、今や世界の半分を手に入れた超大国日本に敵なしの雰囲気を伝え、民衆の多くも「ああ、これで少しは暮らし向きも良くなるかも知れない」と思った。

そしてこうした戦況に伴い、東条の人気も上昇していったが、現実は小さな風船が大きく膨らんだだけのことであり、このことは現在の日本でも余り変わらない。
すなわち日露戦争での勝利は戦争による勝利ではなく、むしろ外交交渉による勝利だったことを日本国民が自覚していなかった。
このことから一挙に国際的注目を浴びた日本は、その身分をわきまえず、自身を大国と思い始めたことに、太平洋戦争の鍵が潜んでいた。

ここに日本は、本来の実力以上の力を自国に信じ、その根拠となるものが軍事力しかなかったことに、しかもその軍事力は継続作戦が可能なものではなかったにもかかわらず、ナショナリズムと言うプライドに押され、方や追い詰められた資本主義の行き場としての、帝国主義から戦争にひた走っていったのである。
そしてこうした状況は何故か今の日本でも余り変わっていないように思う。

中国に追い抜かれ、その立場も風前の灯にありながら、それでも世界第3位の経済大国、人々は休日になると旅行やゴルフに出かけ、困った金が無いと言いながらも、多くの人は週末ショッピングを楽しみ、豪勢な食事をし、その生きることを楽しんでいる。

しかし現実の日本は負債が、公式見解でも1000兆円を超え、実に国家予算の10年分以上の借金をしていて、その上まだ自分で紙幣を印刷して金を増やしているのであり、増税は避けられないとしながら、膨らんでいく風船の空気を、さらに入れ続けているのである。
この姿を見ていると、まるで太平洋戦争開戦時の、まったく一時の夢幻でしかない大日本帝国が破綻に向かって膨らんでいく有り様に重なって見えるのである。

「東条英機・第一章」

「毒をもって毒を制すだね・・・」拝謁した木戸幸一内大臣に昭和天皇裕仁は頷くようにして同意を求めたが、この時木戸幸一にはどれほどの覚悟があっただろうか、戦争が回避できなければいかなる事態が待っていたか理解していただろうか、おそらく殆ど分かっていまい、私は太平洋戦争を考えるとき、木戸ばかりを責められないことは理解しつつも、なぜかこの木戸のそつのなさがどうしても許せない。

もともと昭和天皇は戦争にはきわめて強い不快感を示していて、御前会議でも珍しく語気を荒くしたり、本来発言しないことが慣例の席で発言をしたりと言うことがあったが、これは迫り来る戦争の足音に対する危機感からであった。
方や軍部はどうかと言うと、戦力は十分にある、「勝てる」、アメリカのおかげで経済的にも、物資の面でも不都合な状態にある今こそ、「思い知らせてくれん」がその全体を統一する意思であり、こうした状態に開戦か非戦かの判断がつけられなかった近衛文麿内閣総理大臣は、日米戦争開戦を強く主張する東条英機陸軍大臣の「もはや交渉の時期は終わった」との言に、万策尽き総理大臣を辞任する。

そしてこの近衛内閣の後継者には一時皇族の東久邇宮を・・・、と言う話も出るのだが、開戦時の総理の責任を考えるとこうした案は実現に乏しく、結局強固に開戦を主張する陸軍、その代表の東条を総理とし、東条の力で陸軍の開戦論を何とかしよう・・が木戸幸一の考えだったが、それで天皇に東条内閣を奏上し、その答えが冒頭の天皇の言葉である。

こうして1941年(昭和16年)10月18日、東条内閣が誕生したが、第二次世界大戦では全体主義(ファッショ)の台頭がその根底にあり、どうしても資源の少ない国、経済力の無い国は独裁政権、独裁政治の道を辿っていかざるを得なかったが、ナチスのヒトラーの病み具合、イタリアのムッソリーニの凶暴性を鑑みるに、同じ枢軸国の独裁者とされた東条英機には、どうもそこに並外れた「狂気」が感じられない。

余りにも普通の人物なのである。
東条が総理大臣になったこの時点で、では戦争が避けられたかと言うと、これは誰がやっても難しかっただろう。
1940年、すでにドイツに降伏していたフランスの植民地、インドシナ北部に日本軍は侵攻、1941年には南部仏印に進駐していて、この段階でもはや事実上アメリカとの戦争は始まっていたようなものだったが、天皇の篤意で内閣は幾度も日米交渉を試みるも、実際は日本軍の侵攻は進む一方の現実において、アメリカはアメリカにある日本資産の凍結、石油の対日輸出の禁止など、経済封鎖を断行していたのである。

東条が内閣を組閣したとき、天皇はあらためて東条に、天皇の意向が戦争回避にあり、日米交渉を進めるように・・・と告げるのだが、生真面目な東条はこの言葉に、何とか戦争回避、日米交渉の継続に努めるも、陸軍内部の声は「開戦」以外に無く、総理になる前は激しく開戦を唱えていて、総理になった途端戦争回避とはどう言うことか・・・と東条に対する批判が続出する。
こうした意味では激しく開戦を唱えながらも、天皇には深い尊敬の意を持っていた東条の総理大臣起用は、確かに功を奏したかに見えた。

しかし東条と言う人物は軍の法規集を丸暗記するほどの、実直さ、趣味も無ければ酒や女に対しても清廉潔白の男であり、官僚を地で行くような実務主義者である。
またこうした官僚志向の特徴として権威への弱さ、そして正規の手続きを得て意思表示された多数決への盲目的信仰があり、そのため軍と言う組織内部で大方の意見が「開戦」にあれば、それを上司である天皇に報告するのみであり、それに対して天皇は反対できなかった。

その理由は大日本帝国憲法にあり、天皇の地位は「統治権総攬者」ではあるが、現実には天皇は政治責任を負わないので、最高権力者ではなく、最高権威者にとどまる。
しかし権力は行使しなくても、天皇の名と意思は最高の権威を添付することから、よほど明確な政府または軍の責任行為が無ければ、天皇自身の意見は控えなければならない・・・。
つまり正式な手続きを踏んだものであれば、それに対して天皇は反対ができなかったのである。

そしてこのときアメリカはどうだったかと言うと、日本が太平洋へ進出してくることは早い段階から分かっていた、またこの時点ではドイツはアメリカの挑発に乗らず、従ってアメリカの対ドイツ参戦工作が進んでいなかったことから、ドイツに対して宣戦布告する大儀を日米戦争に求めていた。つまり、ドイツと同盟関係にある日本と戦争状態になれば、念願のドイツ打倒に移れるとの判断をしていたが、アメリカ陸軍は10月6日の時点でフィリピンの防備がまだ終わっておらず、3ヶ月の交渉引き延ばしをハル国務長官に求めていた。

これに対してハル国務長官も、この要請に沿って交渉引き延ばしをはかっていたが、11月22日に出した案は中国、オーストラリア、オランダ各国の反対にあって、結局11月26日、三国同盟の破棄、満州国否認まで要求した「ハル・ノート」を日本に提示したが、当時中国はともかくとして、国際社会は満州国を黙認しようとする傾向が強まっていただけに、この「ハル・ノート」は日本にとって全面屈服か、開戦かの最後通牒に等しく、これはハル長官も承知していた。

スターク海軍作戦部長は、太平艦隊洋司令長官、アジア艦隊指令長官に11月27日にこう打電している。
「本電文は、戦争警告である。対日交渉はすでに終わった、日本側の攻撃は数日内に予期される・・・・」

東条以下、天皇のご意思にお答えしようと努力していた者たちにとって、この「ハル・ノート」は戦争だ・・・とアメリカが言っているに等しかっただろうが、ハル長官にわずかな望みを抱いていた日本の外務省の想い、天皇の望みなどは、すでに開戦のはるか以前からアメリカによって引き裂かれていたのである。

さて第1章はここまでだが、最後に東条がその存命中、ただ1度だけ実際に作戦を指揮したことがあり、今夜はそのエピソードを紹介して終わりにしよう。

シナ事変が起こると、関東軍はただちに北支に増援部隊を派遣したが、このとき関東軍司令官が不在だったために、参謀長の東条がチャハル兵団4個旅団を指揮することになり、このことから同旅団は「東条兵団」と呼ばれたが、この「東条兵団」が北支に進駐して間も無く、突然天候が変わり、9月中旬と言うに、積雪に見舞われたが、まだ残暑シーズンだから将兵は夏服のままだった。

参謀が対策を思案している間に、東条参謀長は「何でも良いから冬服を調達せよ」と言って周辺の部落から綿服、下着を買い集めさせた。
そろった制服が本国から送られてくるのを待つ非合理より、格好は構わずまず寒さを防ぐことを考える東条、彼はまた兵隊の食事にも気を配り、必ず一般兵と同じ食事を用意させた。
急激な進軍のため食料補給部隊が間に合わない・・・、現地調達の食料は粟(あわ)が精一杯のとき、幕僚や当番が努力して、何とか指揮官の東条には米の飯をと思い用意しても、東条は承知するはずも無く、少しでも変わった料理が出ようものならジロッと副官をにらんで問いただす。
「これは兵と同じものか・・・」
これに対して「いや実は・・・」などと言おうものなら「下げろ、兵と同じ食事を持って来い」と激怒するのだった・・・

また軍紀も厳正で、特に女子供に対する暴行には容赦が無かった・・・、軍法会議にかけて厳罰に処したため、中国市民も「東条兵団」には好意的だったが、東条はまた、有名な大同郊外の石仏の保護にも特別の配慮をしていた。     (第2章に続く)

「グラジオラス・其の二」

田に水が行き渡ったかを確かめる為、畔(あぜ)を歩いていると、時々1本、2本と細い竹を切った棒が刺さっている事が有り、これは一体何だろうと思っていたが、その答えは意外に早く判明する。

畔の草を刈っていると、その棒の付近で必ず草刈機の歯が石に当たり、カチーンとはじかれるので有る。

5年前に死んだ母が刺した目印だった。

死して尚、子を思うか・・・・、いやそうではあるまい。

母は自分が草刈りをしていて、いつもそこで草刈機の歯が石に当たるので、目印をしただけだろう・・・。

また山に近い田の土手には、毎年3本だけ薄いピンクのグラジオラスが必ず咲き、一面緑の中でそこだけが何故か人の匂い、グラジオラスが好きだった母の面影がするのだが、これもきっと母が余った球根を土手に植えたもので、それは後年自身が命を失う事を思い、何かを痕跡を残したいと願ったものでは無かっただろう。

だがいつかの時、同じ道を通って来る者がそこに親が子を思う気持ち、或いは既に失われた者の面影を見るは、間違いにして正しき事のように思う。

目印をした本人は自身の為に、自分がそれを楽しむ為に為した事を、後年同じ道を通った者がこれを自分に繋げて思う。

この事は「天意」に同じであり、真実の以前の一致で有るのかも知れない。

田んぼの畔に刺さった竹の棒、頼みもしないのに毎年咲く土手のグラジオラス、これらは知る必要のない者に取っては全く意味を為さないが、いつか時が来てそこを通る者には必ず必要となる目印であり、最も無駄を廃した、最も大きな指標と言えるのかも知れない。

そして土手から突き出た大きな石の脇に植えられたグラジオラスを見るに付け、どこかで後進の指導と言う慇懃(いんぎん)な在り様が大袈裟なような気がして、どこかでそれ自体がまことに傲慢な感じがしてしまう。

自身が必要とする事、自身が楽しむ事をして、やがて数少ないながらも自身の後を追う者の指標となれたら、それを指標と思ってくれる者が有るなら、これをして自身との一致、最大の喜びと言えるのではないか、そんな事を思う。

私も竹の棒を刺そう、グラジオラスを植えよう・・・。

でもそれは後進の為ではなく、自分の為に、自分が楽しむ為に・・・。

「魚と米」

この10年を見ていると、どうも世界的に産業のあり方、消費のあり方が大きく変わってくる時期なのかな・・・と考えるようになった。

イギリスに端を発した産業革命は効率、利益、資本と言う具合に、その後の世界経済に一定の法則をもたらしたかに見えたが、今日の株式相場、世界経済を見るに、全ての経済理論は唯「雰囲気」を元にしたものに過ぎなかったようでもある。
つまり「何となく先が明るそうだ、何か買おう」と「何となく先は暗そうだ、買うのはよそう」いろいろな経済学者、評論家が難しい理論を展開したが、経済はこの2つだけだったのではないかと思うようになった。

少し前だが、昔の知り合いで、今もデパートに勤務している男から電話があり、その中で彼はデパートの地位も随分下がってきたとぼやいていたが、何でもあるメーカーが試作して作った企画商品を、デパートでさらに利益を出そうとして、そのメーカーとは別のメーカーで安く作ってもらい、売り出したら、もとのメーカーから訴えると言われたらしい。

道義的にもっともな話で、これで文句を言うデパートもどうかとは思うが、昔だったらこのパターンでは多分メーカーは文句を言えなかった事は間違いない。
下手に文句を言って、取引を打ち切られたらそれこそ大変だったからだが、それはこのデパートがある程度の売上を出していたからだ。現在のように余り売れない割に、人の企画を横取りした場合、それは間違いなくクレームがつけられる。
それだけデパートの力は衰退してきているのだ。

バブルがはじけた直後、それまで商品流通の中でメーカーと小売店のクッション役になっていた「問屋」と言うものが、流通コストになるとして、どんどん排斥されていったが、今度はインターネットと通販事業、宅急便などの普及によって、消費者とメーカーに直接のルートができ、デパートなど小売店事業が販売で侵食を受けてきているのだ。
また家電大型専門店などの進出も大きいだろう。

昔のデパートはひどいものだった。
出入りの業者に毎晩のように酒をたかる外商部員、愛人との旅行代金を仕入れ先から出させている仕入れ担当、旅行の企画をすれば、売れ残ったチケットは全て出入り業者に買わせていたケースもあった。
業者はなけなしの金でも付き合わねばならず、ヨーロッパ10日間150万円なりのツアーを、銀行で融資して貰って何とかしていた人もいた。
また着物の企画では着物をつき合わされ、宝石でも同じ、つまらぬ陶器や漆器などもあったが、絵画、家具など売れ残りは必ず業者に付き合わせるのが、デパートのやり方ではあった。

だがそれでも業者は文句を言わなかったのは、それ以上に自社の商品を買ってくれていて、それに対する決済、支払いが安定していたからだ。

また一般には余り知られていないかも知れないが、物の価格には上代(じょうだい)と下代(げだい)がある。
上代とはデパートで売られている値段、下代とは業者がデパートに売り渡す価格だが、昔「問屋」と言う、メーカーとデパートを繋ぐ流通経路があった時は、その価格は「4つ折」つまりメーカー納入価格の4倍が普通だった。

1万円のものは2500円で納入されていて、しかもメーカーはこの2500円の中で利益を出しているから、多分実際の製造価格は1万円の物で1200円くらいではないだろうか、そしてこれはまだいい方で、大きな問屋と小さい問屋が2つ絡んでいた場合は「いち・ごー」つまり1万円のものは1500円で納入されていたケースもあった。

その上で、デパートは仕入れ業者が他に直接販売する場合でも、デパート価格、上代で販売するよう縛りをかけていた。
これはつまりデパートが価格競争に負けないよう、メーカーに価格統制を強いていたのだが、もっと簡単に言えば、自分が作っている物だとしても、それを独自の客に販売する場合でも「デパートで買え」と言うことで、「これだけ売ってやっているんだ、それくらい協力しろ」と言うことだった。
そしてバブルがはじけて「問屋」がなくなってもデパートはその分の利益をメーカーと折半したかと言えばそうではなく、利益は全てデパート側に落ちていったのである。

また先生稼業、「○○家」と言われる人、例えば画家、陶芸家、染色家などの品は全て作品展をした場合、大手デパートでは25%が製作者、残りはデパートの収益になっているし、これが良い条件でも35%が製作者に支払われる金額で、残り65%はデパートの収益となっている。
つまり私達消費者は殆どデパートの売り場経費、人件費を払って作品を買っているのだ。
これがギャラリーでは、良い条件だと製作者60%、ギャラリー40%、悪くても製作者50%を切る事はないが、その代わり下手をすればデパートの上代価格より高い価格設定がされていて、製作者がにこやかに出迎えてくれる、その笑顔までが価格に含まれていたりする。

昔、仕事で独立した時、よく先輩から「人は物を買うんじゃない、お前を買っているんだ」と言われたが、私はこの言葉が大嫌いだったし、今も嫌いだ。
自分は技術で勝負したい、だから自分などどうでもいいし、何と思われても構わないが、「この技術がいい」と言って貰えたらと思っている。

また私は兼業農家でもある。
だから秋はコンバインで稲刈りなんかもやっているが、当然これは家の仕事なので、会社スタッフには手伝って貰うことは出来ず、忙しければ昼食を自宅まで食べに行けないので、近くで湧き出る水を飲み、おにぎりを食べて少し休む時がある。
これもかなり以前の話だが、こうして昼休みをしていた私は、疲れが出て、秋の良い天気に田んぼの土手で眠ってしまったことがあった。

それを具合が悪くて倒れているのかと思った通りがかりのトラック運転手が「おい、大丈夫か、トンビにやられるぞ」と起してくれたことがあり、この運転手と喋っていたら、彼も漁師で、トラック運転との兼業だと言うことがわかった。
確かに危ないところだった。
トンビは例え人間でも、倒れて動けないと知ったらその肉をついばもうとし、そうした場合真っ先にやられるのは一番柔らかい部分、まぶたと目なのだ。

それから道で何度か出会うたびにお互い手を上げて挨拶したり、クラクションを鳴らしたりして合図するようになったが、この男はとても寡黙で、無愛想なのだが、いつも通る道路沿いにある私の家も知っていて、たまにアジやカレイをくれたりするので、私もナスやキュウリ、芋や米などをお礼に持たせるようになり、今も続いている。

妙なものだが、漁師と農家は何となく同じ匂いがする。
そして経済、流通でもし自分が理想とするところがあるとしたら、この男とのやり取りでありたいと思う。

「陰 徳」

治於神者 衆人不知其功 争於明者 衆人知之   「墨子」
(神に治むる者は 衆人その功を知らず 明に争う者は 衆人これを知る)
 ・
昔、中国の「魯」()と言う国に「公輸般」(こうしゅはん)と言う天才的な技術者があり、彼はその通り名を「公輸子」と言ったが、「公輸子」はまた大変な発明家としても広く知られていて、ある時彼は「楚」の国を訪れたことがあった。
 ・
だが当時「楚」の国は「越」(えつ)の国と戦争をしていて、長江が主戦場となる船戦ではいつも楚の国が苦戦していたため、楚王から「何か良い新兵器を作って貰えないだろうか」と依頼された公輸子は、早速「鉤拒」(こうきょ)と言う道具を開発し、これによって船の進退は以前よりはるかに迅速になったが、また公輸子はほんのお遊びで竹と木を使って鳥を作り、それを飛ばしたが、その鳥は何と3日も地上に落ちてくることは無かった。
 ・
この公輸子の在り様から、すっかり公輸子を信頼するに至った楚王、今度は戦に備えて大掛かりな「城攻め」の方法は無いものかと相談する。
そこで公輸子が開発したのが「雲梯」(うんてい)と言う、今で言うところのハシゴ車のようなものだった。
この少し以前、紀元前500年頃までは戦争にもルールがあって、敵と言えどその城壁を越えて攻めることは許されなかったのだが、戦国時代のことであり、こうして楚と越が戦っている頃には、すっかりそうした古式ゆかしい戦場信義も無くなっていた。
 ・
それゆえ開発された、このような城壁を乗り越えて敵の城を攻めることが可能な、「運梯」の出来栄えに気を良くした楚王は、この「雲梯」を使って、次は小国「宋」を攻めると周辺に豪語し始める。
 ・
この話はたちまち「魯」の国にも広がり、噂を聞きつけた「墨翟」(ぼくてき)、つまり墨子は大慌てで楚の国へと駆けつけるが、これには理由がある。
墨子の信条は「この世から戦をなくする」ことであり、ゆえに軍備の弱小な国の為に城の防衛をもっぱらの才覚とし、ついにはこれまで担当した城の防衛では、一度たりとも落城を許さない城防衛の天才だったからであり、これに対して「公輸子」の作った「雲梯」などが使われるようになれば、一挙にこれまでの城防衛の概念が崩壊させられかねない・・・。
 ・
楚に到着早々、公輸子に面会を求めた墨子、しかし公輸子はこれを拒否し、仕方なく墨子は楚王に面会を求め、貧しい「宋」など攻めてみたところで、何も益の無いことを主張した。
しかしもはや「雲梯」に心を奪われてしまった楚王は、既に「宋」などどうでも良く、ただ「雲梯」と新兵器を使って見たくてしょうがない。
 ・
さても難儀なことよ・・・。
暫く考え込んだ墨子、やがて妙案を思いついたが、それは現在で言うならば戦場ゲームだった。
いわゆる戦場シュミレーションをやろうと言い出すのである。
 ・
自分の帯をといた墨子はそれで城の城壁を作り、木切れを楼閣代わりにその真ん中に置く、これに対して公輸子も小さな木片を持って城攻め開始である。
仮にも一国の王の面前で、大の大人が城攻めゲームとは随分可愛らしい話だが、今の時代と比して、随分健全な時代で有るとも言えようか・・・。
 ・
公輸子は持てる知力を尽くして城攻撃を始め、あらゆる攻撃を打ってくる。
しかしこうした攻撃に対し、墨子が理論上全て撃退して行くに付け、公輸子はついに持っていた木片を放り投げ、「私の負けだ」と敗北を認めるが、よほど悔しかったのか「最後の一手がある」と言い出す。
 ・
「最後の一手・・・」、墨子はここでハッとする。
なるほど公輸子は確かに戦場ゲームでは負けたが、この場で墨子を殺せば実戦では既に墨子がいない訳だから勝利できる。
「そう言うことか・・・」
墨子は公輸子が自分に対して殺意を抱いていることを知り、楚王にこう告げる。
 ・
「公輸先生はもしかしたら、この場にて私を殺害することをして、宋との実戦では勝利することをお考えやも知れません」
「されど、既に私の配下は、私の作った雲梯防御道具を持って、宋の城壁の上で待機しています」
「ですから私を殺しても宋の城は陥落しないばかりか、もし実戦で雲梯を使ってそれで負けてしまえば、これまでその正体が知らしめられないがゆえに、他国に対して与えていた脅威も霧散してしまうことになります」
「どうぞ、今一度宋を攻めることはお考え直しください」
 ・
これを聞いていた楚王、ようやく事の真意を悟ったのか、墨子に「宋」を攻めないことを約束するのである。
そして架空の戦場で勝利を収めた墨子、彼はまた急いで帰途に付くが、その途中「宋」に立ち寄ったおり、間合いも悪く激しい雨に遭う。
仕方なく雨宿りの為に僅かに軒先でも借りようと、「宋」の城門をくぐろうとした時の事だった。
「怪しい者だな、門の中には入ってはならん」
門番は容赦なく墨子を雨の中へと追い立てたのだった・・・。
 ・
誰が「宋」の国を救ったのか、そのことを宋の人間は誰一人として知らない。
それゆえ墨子は雨宿りさえさせてもらえなかった。
だが、誰も知らないはずの墨子のことを、2400年後に生きる私がしっかり知っていて、「なるほど」と思っているのである。
「陰徳」とはこうした在り様を言い、冒頭の文を訳するならこうなる。
「人に測り知れないように事を為す者は、人はその功績に気が付かない。だが人の目の届くところで騒ぐ者は、人には良く分かる」
 ・
人間が為す仕事や良い行いは、常に人目に触れるところだけで為されるものではなく、その多くは人知れず為され、それがどこかでは多くの者の役に立っている場合もある。
そしてそうした場合、一抹の寂しさも感じてしまうかも知れないが、嘆くには及ばない。
誰も知らない墨子の思いを2400年後の私までもが知っている、この在り様はなぜか、例え誰も知らなくても「天」がこれを知っている、これで充分では無いか・・・。
 ・
人の運命など偶然に次ぐ偶然で発展していくものであり、そうしたものの中にはやはり「天の采配」と言うべきものをどこかでは感じざるを得ない。
ゆえに「天が知る」事であれば、それはいつかどこかで「采配」してくれるものなのではないだろうか・・・。