「大切な文化は言葉に表せない」

少し前の事だが、うちのスタッフ女性のところへ、取引先の男性(既婚、子供2人あり)から、ミクシィー(ブログ)会員への招待メールが届いたらしく、彼女は名前などどうしようか悩んでいた。

同じものが私のところへは届いていなかったことから「あのヤロー、やっぱり優しいのは女の子だけだったんだな」と思った私は、ブログの名前は個性的な方がいい、そうだ「ローザ・ゴンザレス」などどうだ・・・などと言ってやったが、どうなったことだろうか・・・。

それはさておき、最近この辺でも何かイベントがあると、ロウソクをともしたり松明(たいまつ)焚いたり、はたまたライトアップという具合で「光物」が多くなってきたが、行ってみるとどこか不自然な感じがしてしまうし、そこにいる人も何かみんな同じ雰囲気で同じことを言う。
「自然に優しい、環境を思っている」と、それはいいのだが、どこか雑誌やテレビで聞いた話ばかり、おまけに環境がどうこう言いながら大型車で乗りつけ、茅葺(かやぶき)古民家を我が物顔である。

こうした田舎の古民家と言うものは、とても古い歴史があり、その地域で強大な力を振るっていた家が多く、地域住民にとっては特別な思いがあるもので、そこには「格式」と言う今は懐かしい「規律」のようなものがあり、そうした格式のある家には一般住民が入れなかったし、その家へ入れることはある種のステータスでもあった。
だからこうした古民家には必ず当主と特別なお客用の玄関と、普通の人の為の玄関、勝手口の3つの玄関があり、例え時代が変わってこうした家が行政の所有になり、一般公開されたと言っても地域のお年寄りはその「家」に敬意を払い、決して当主用の玄関から入ったりはしないが、それを平気な顔をして学生や、先生と言われる人達が靴を脱ぎ捨て通っていく。

田舎の文化を研究しているとする彼らがである。
そう古い文献でなくても、例えば昭和初期の記録には、こうしたその地域有力者の家での「村寄り合い」、分かりやすく言えば(現代の自治会集会)の様子を記録した文書が残っていて、そこには座敷に座れる者、居間に座れる者、廊下に座れる者、それ以外は軒先の外でしかこの寄り合いに参加できなかったことが記されている。
それもどの家の誰がどこに座るか、と言うことが細部に渡って決まっていたのである。

今これを読む人は、こうした話を聞くとそれは「差別」ではないか、と思うだろう。私も若い頃はそう思ったし、それが嫌でこの地域が嫌いだったが、この時代の有力者は地域のために道路を作る為の金を拠出していたり、地域社会に経済的恩恵を与えている部分もあり、そうした経緯からも地域住民からは妬まれながら、尊敬もされていた。
私の家は貧しかったから、私も幼い頃そんな激しいものではなかったが、やはりこうした格式のある家の子供から差別されたことがあったが、そのお陰で私は「いつかこんな奴滅ぼしてやる」と思い続けて来た。
そして動機は浅ましいが、こうした感情から頑張ってこれた部分は大きいと思う。

だが時の流れと言うものは残酷なものがある。
こうした格式のある「家」はその規模の大きさ故にすべて没落していき、今では一人暮らしのお婆ちゃんの為に私が米を作っているし、若い頃反発してひどい言葉を浴びせた別の有力者夫妻もすっかり老いてしまい、私が茶菓子など持って遊びに行けば、目を潤ませて喜んでくれる。
私は「恨み」が好きだったし、これを大事にしてきたが、そう恨みはその動機としては愚かだし非常に具合の悪いものだが、「力」の源でもあった。
だが、その行き着く先はこうした空しさだ・・・、ただ時が流れただけでその根拠は無くなり、逆に懐かしくさえ思う。

私はこうした旧家へ入ったときは、例え誰も住んでいない公開家屋だったとしても、絶対床の間を背にして座らないが、それはその「家」に対して敬意を払い、その当主に対しても尊敬の意をあらわすためだ。
私が最も憎んだ「田舎の仕組み」、形はどうあれ経済的差別、なぜかそうしたものが今はとても懐かしく、力さえも感じてしまう。
そして地域住民が思うその地域の文化とはこうしたものだ。
キャンドル焚いて「キャッ、キャッ」、私が決して背を向けて座らない座敷の床の間で、その床に腰掛けてすわり、日本文化について語る有識者・・・それをもっともらしく聞いている知識人や文化人、正直な気持ちを言おうか・・・文化を一番分かっていないのは君たちだ・・・。

また樹木はイルミネーションや夜のライトアップで年輪が歪むことを知っている人はいるだろうか。
クリスマスや正月、イルミネーションに輝く道路の木を見て可愛そうだと思う人間は少ないだろうが、私は木々に「済まない」と思いながら通っている。
米を作っていると、僅か自動販売機の光でさえ稲穂が出る時期に影響が出てくることがわかるし、近くの木の葉が少し小さくなっていくことがある。

また夏の夜のライトアップは近くに蛍が生息していたら確実にそれは減っていき、大体夜は暗いことが自然の仕組みの中で、無理やり光を当てられる木々がどんな苦痛を味わっているかも考えない「環境に優しい人達」のイメージの無さには、説明することさえ空しさを感じる。
だから何も人間に「楽しむな」とは言わないが、楽しんだらきちんと後片付けをしてくださいと言うことだ。
1週間なら1週間、10日なら10日でもいい、その期間が終わったらまた元に戻して置いて欲しいということなのだ。

都市に置いてならともかく、何も田舎にいてまで都市の真似をしなくて良いだろうし、第一都市に住む人がそもそも田舎に来て、自動ドアがサーッと開いてそれらしく作務衣(さむえ・お坊さんが作業時に着る作業着)を着たおねえさんが「いらっしゃいませ・・」とお迎えする、そうした観光を求めるだろうか。
私ならせっかく田舎へ来たのだから、引っかかって開きにくい戸を無理やり開けて、中にいる無愛想な男や女に会いたいと思うが・・・これは個人的嗜好だったか・・・。
自然環境を語るなら、まず自分がやることをしてからにすべきだし、文化を語るならその地域住民が一番話したがらないことに耳を澄ますのが良いように思うが・・・。

「食文化と貧困」

フランス語でconvivialite(コンヴィヴィアリテ)と言う言葉があったが、この言葉の意味するところは「快適性を共有する」と言う意味があった。
そしてこのconvivialiteの語源はconvive(コンヴィーヴ)つまり「会食者」から来ていて、従ってconvivialiteは造語なのだが、その歴史的背景を考えるに、ヨーロッパ封建社会に措ける会議のあり方で、いかに会食と言うものが重要視されてきたかが、こうした言葉の残り方にも見て取れる。

convivialite、狭い意味で捉えるならこの言葉は、みなで楽しく食事することもそうだろう、しかし広義で考えるなら、これは文化と言う言葉に繋がるもので、実はヨーロッパ享楽主義をこれほど端的に現してる言葉は無いのではないかと思う。
つまりこれはどう言うことかと言うと、ヨーロッパ封建社会が当初の勢いを失って崩壊していく過程には、本来主体となる会議はそっちのけで「会食」が主体になっていたと言うことだ。

また中世以降の歴史を見ても、ヨーロッパで発生した人文主義は、深く人間と言うものを考えていく中で、「生きることを謳歌しよう」と言う精神が発生してきて、これはメディチ家を見てもそうだが、非常に享楽的、かつ退廃的な思想となっていたが、こうした傾向は、いずれも没落が近いとにきに起こる、一種の現実逃避であるようにも見える。

ヨーロッパでも日本でもそうだが、いつの時代もその経済が活性しているとは限らない、むしろ悪い時期が長くて、その合間に豊かな時期があると言うのが正しいだろう。
こうした意味から考えられることは、少なくとも食の文化はその国家が豊かなときには発展せず、貧しい時期に発展していくと言うことだ。

例えば日本、日本に措ける歴史的高度経済成長時代は、15世紀後半から18世紀初頭であり、これ以後はそれまでの期間に田畑が3倍に増加し、人口も増大していったことから比べると、田畑の増加率は僅か2・7%、人口にいたっては停滞と言う事態であり、農村では飢饉が発生し、その度に子供が殺されていく状況で、食文化だけは異常に進歩していくのである。

日本が世界に誇る「刺身」「てんぷら」「寿司」はみなこうした時代に庶民へと普及して行った。
また歌舞伎や落語などの文芸も実はこうした時代に完成していて、これは洋の東西を問わず、時代を問わず同じ傾向にある。
フランスでconvivialiteと言う言葉が発生してくる1980年、この時期はフランスのみならず、世界経済が沈滞していた時期であり、その後日本は数年後にバブル経済へと突入していくが、ヨーロッパ諸国はまだまだ長いトンネルの入口だった訳で、そうした中で明日に希望を持てない庶民感情は、1日1日を大切にしようと言う思いになっていく。

すなわち、経済活動で忙しい時は食だ文化だと脳天気なことを言っていられないが、仕事が無く時間が出来てくると、少しはそうした思いも出てくる、また生活が苦しく大方の夢が実現しないとなれば、実現できる範囲で夢を最大限に広げようとも考えるだろう。
こうした思いは例えば、せめて食べるものくらいにはこだわりたい、これだけ働いているのだから、年に1度はディズニーランドでも行こう・・・と言う風なことに繋がっていく。

だがこれはある種の現実逃避だ。
それまであった夢や希望を失って、そこから逃避した心が規模を狭めてストレスを発散しているのであって、こうしたものはどんどん時間とともにエスカレートして行き、これが長じて食文化が発展していくのだが、その遠くない未来に国家や地域の破綻、もしくは何らかの革命が存在しているものだ。

人類史に農業が顔を見せるのは、今から5000年前、メソポタミアのことだった。
イネ科の植物を大量生産する言わば農業革命が起こったが、それ以前の食習慣も勿論残って行った。
そしてそれまでの食物だった自然の植物などは、人間にとって安全なものは少なく、どちらかと言うと毒性があるものが多かったが、例えばイモ類などは生で食べると殆どが毒性で、腹痛を起こす事から、茹でたり焼いたりと言うことが発生してくる。
また肉食は基本的には資本を食べてしまうことになり、こうした観点から遊牧民たちの習慣は家畜は資本、そこから採れる「乳」を利子と考えるような習慣があり、だがしかし家畜が妊娠する期間は乳が採れないことから生まれてくるのが、チーズなどの加工食品であり、雄の家畜などは肉も食べるが、その場合でも長期保存が効く干肉にしておくことを考えたのである。

こうした遊牧民達はその食事にしても、座って食べる習慣が無く、立って肉やチーズをナイフで削って食べる。
これは火や湯を使う調理の必要が無いこと、また食器を持たなくて済むことなどを考えると、非常に合理的な考え方でもある。
ヨーロッパに皿やスプーンなどが伝わって来るのは実はイスラム文化の影響で、それまではこうした遊牧民たちの習慣がその初期段階だったとされている。

更にこうした食べ物に対する考え方だが、20年ほど前までは、エジプトなどの砂漠地帯に住む遊牧民の食事は、男性と客が至上主義で、女性や子供はこうした主人や客のお下がりを、食べていた地域が残っていたし、ヨーロッパでも少し前までは、流石に女性や子供は客や主人と一緒に食事をしたが、宴会で残った料理は、それを作ったサーバメントたちが食べると言う習慣が残っていた。

食に対する考え方は2つ有る。
その一つは生きるため、そしてもう一つは楽しむためと言うべきか、しかし良く考えてみれば、古い時代ほどその有り様は「生きるため」に近く、時代が新しくなってくるに従って「楽しむ」になってきているが、総じてどちらが幸せかと言うことは、私が論じるべき事ではない。
ただ、貧しい者が増えてくると、食文化は花開き、それは多くの貧しい者たちに比して、僅かでもそれより豊かな者たちによって進められると言うことであり、こうした意味では広く文化と言うものも、同じような原理で残っていくらしい・・・、そう言うものであることを、どこか頭の隅に置いて頂ければと思う。

食卓に食べきれないほどの料理が並び、あらゆる新しい食べ物が氾濫し、そしてその多くが捨てられる社会と言うものは、実は貧しい没落社会が、すぐ隣りまで来ている可能性があるのではないか・・・。

「推定三次元位置情報」

臨死体験の初期段階で発生する「幽体離脱」、病院で自身が危篤状態にある姿を、自身がその部屋の天上付近から眺めている状態、或いは「金縛り」の最終段階に措ける「幽体離脱」でも、この視覚的情報は第三者が共有できない。

この意味に措いては「doppelganger」(ドッペルゲンガー)現象で、第三者が視覚情報を共有できない自身の姿の位置情報の投影錯誤と同じだが、一方ドッペルゲンガー現象によって自身の姿を自身が目撃するケースはドッペルゲンガー現象の半分の事例であり、残りの半分は第三者も物理的移動速度の限界を超えた状態、離れた地点で同一時間に2名以上の第三者が同じ人物を目撃する事から、ドッペルゲンガーの視覚情報は一部が外に対して開かれているが、「幽体離脱」の情報は外に対して開かれていない情報と言える。

人の「死」は当事者以外の者には瞬間のように思えるかも知れないが、実は結構早い段階から人の体はそれを認知している可能性が有り、例えば事故死に措ける事例でも「何となく懐かしい友人や知人に会いたくなった」、「実際に会って数日後に事故死した」などの事が発生するのである。

「死」の初期段階は「脳死」だが、これに至る2時間ほど前から脳は奇妙な瞬間波形を定期的に繰り返し、それは機械波形的には瞬間なのだが、おそらく当事者はその瞬間の中を無限の時間として意識している、または実際の時間経過より遥かに多くの時間経過を経験しているものと思われ、脳死によって脳は死ぬと判断されるのだが、脳が死ぬ事と心臓が止まる事は一致しない。

従って脳死は「死」の前段階と言え、そこから心臓が停止し呼吸が止まり、血圧が無くなった状態が訪れるが、これでもまだ「死」の99・9%であり、残り0・1%はまだ「生」の中にある。

ここでは「生」と「死」が濃度のせめぎあいに陥り、やがて「死」の濃度が全体を覆うと言う表現が理解し易いかも知れない。

脳波が止まり心肺が停止し、血圧が0になり脈拍が停止してから、つまり外部観察的には「死」の状態に陥った時、そこから更に3分後まで脳波測定を継続していると、脳波が一時的に通常の意識レベルにある状態を示し、これが人によっては数回繰り返され、2時間後に蘇生するケースまで出てくる。

この事から脳死状態で心肺が停止したからと言って、それが人の死となるか否かは医学的な所見であり、必ずしも現実を全て反映しているとは言い難い部分が発生するが、基本的には24時間以内に蘇生しなければ、その後の蘇生率は極めて低い事から、現行日本国内法に措ける「死」の概念は実質的な整合性を持っている。

だが、脳死から心肺が停止して3分後、呼吸も無く酸素の供給も無い状態で脳は何を見ているのだろうか・・・。

脳波的には瞬間だが、これを感じている脳は、もしかしたら無限の時間の中に在るのかも知れない。

元々人間が持つ空間的な制約と時間の概念は「社会的」なものであり、これから解放された状態が脳にとってはあらゆる制約から解除された状態なのかも知れず、従ってここでは「生きている」と言う「社会」に在る者には瞬間でも、死の当事者には無限と言う概念は有り得る。

人間の視覚情報の本質は「平面」より下に有る。

テレビ画像のように、平面に立体性を持った画像を映している方式より更に「虚性」なのであり、視覚情報を確定させる為に触覚や聴覚、嗅覚などが存在している。

目の前に有るテーブルが視覚的に見えていたとしても、それを触って感触が無ければ我々はそれをどう判断するだろうか。

視覚を担保しているものは視覚以外の五感なのであり、単に視覚情報の投影だけなら空間的な制約を持たない、重複や非空間投影すらも現実として見る事が出来る。

また人間が意識する自分と言う容積は視覚情報でも確認できるが、では後頭部や背中などはどう意識されているかと言うと、「他」の情報を基に暫定の意識が為されているのであり、これを可能にしているものは「他」の情報、他人や景色などで、自分を高い所から眺めた視覚情報を想定する場合、その多くは他の情報が総合された評価によって推定された視覚情報となる。

それゆえ例えば「幽体離脱」でも「うつむせの状態」の自分を見る事例が極めて少なく、これは基本的にうつむせの状態が「暫定情報」だからであり、そこでいつも見慣れている仰向けに寝ている自分の姿を見易いのである。

更に人間の脳は微弱電気信号の情報束であり、周囲の空間の情報は物質の反射光情報の解析結果と言う事ができ、この情報を基に自分の位置が確定されているように意識され、他人の姿の情報を使って自分が本来認識できないはずの情報を処理している。

この事から視覚情報の投影は通常そう大きな過ちを犯さないが、死に瀕した場合、他の情報が繋がりにくくなる事で、視覚情報は制約から解放され、本来の空間的、時間的制限を受けない状態となり、これは視覚情報の暴走とは概念が異なる。

脳は最終的には死を肯定する。

そしてこの事が死の過程では「苦痛からの解除」作用をもたらし、瞬時にして自身の一生を見る事になり、先に亡くなった者たちを見る事になる原因かも知れず、臨死体験経験者が同じような死後の世界を見る原因かも知れない。

統一的な社会に存在した幾多の人間の情報が持つ基礎的幸福感、達成感などはそう大きな違いが無く、この事から臨死体験で見る視覚情報は、その人間が持つ最後の社会的接点と言えるのかも知れず、こうした経緯を鑑みるなら、脳と言う組織は最後の瞬間まで「社会」と言うものの概念の中に有る、人間の文明や知識、そうしたものを「生」の基盤としているような部分が垣間見える。

「死」の概念は生きている人間が絶対知ることはできず、臨死体験にしてもそれが死後の世界である確定ではない。

蘇生して自身の臨死体験を語るその人の体験とは脳の記憶である。

従って臨死体験の記憶情報はどの時点で見た視覚情報かを判別できない。

もしかしたら蘇生して目覚める瞬間に見た情報かも知れないし、遥か昔、母親の胎内にいた時の情報かも知れない。

臨死体験を臨死体験だと確定的に意識させているものもまた脳なのである。

 

 

「漢字の起源」

実は漢字の歴史については、それが発生してきた時期について、詳しいことが分ってきたのは1890年代に入ってからのことだった。
中国河南省北部、安陽県で亀の甲羅や獣の骨に、鋭利な刃物で傷をつけた文字が発見されたが、これを「甲骨文字」と言って、これが漢字の歴史の始まりである。
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同地は太古の昔「殷」(いん)と言う国の都であり、漢の時代すでに「殷墟」(いんきょ)と呼ばれていた事から、紀元前数世紀頃には伝説となっているほど、この殷と言う国が成立した時代は古い。
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そしてこの安陽県から出土したものの中には青銅器や玉器、大きな王の墓や建物の土台などが発掘されたが、その中でもひときわ大きな発見となったのは文字の発見だった。
殷の人々には宗教的未来観が存在し、それ故、そこでは全てが占いによって現在の有り様を決めていく、文化的な土壌が有ったようだ。
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当日から起算して10日間、これを「旬」(じゅん)と呼び、この期間に禍が無いか、今夜は雨が降らないかどうか、などの日常のことから、明朝出立する戦いに勝てるかどうか、先祖の祭礼を行っても良いかなどの民族、国家的な問題まで、殷の人たちは全て占いによって神意に伺いを立て、それによって行動していたものと思われる。
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またこうして占われたものは、その内容を巫(みこ)や「史」(ふびと・記録者の意味)が亀の甲羅などに刻みつけて保存して置いたが、それが3500年と言う歳月を経て、今日の時代に発見された訳であり、こうした文字は、その発祥理由が占いであることから「卜辞」(ぼくじ)とも呼ばれ、「ト辞」として存在した甲骨文字、してその数はいかほどかと言うと、その数凡そ3000種、そのうち解読ができたものは1600である。
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安陽は殷の時代、盤庚(ばんこう)と言う王から始まって、約273年間に及んで殷の都が置かれたところであり、殷の最後の王は有名な暴君「紂王」(ちゅうおう)だが、この王は「ト辞」では「帝辛」(ていしん)と記されている。
この「殷」が王朝として成立したのは、推定だが紀元前1750年頃、「湯」(とう)から始まり、滅ぼされたのは紀元前1027年頃、西北の高地から攻め下ってきた「周」の民族によって滅ぼされた。
それゆえ、こうした甲骨文字は今から3500年前に成立していた文字だと考えられるのである。
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中国では安陽の他に山東省や鄭州などからも殷代前期、若しくはそれ以前の古跡が発見されているが、そこからは何れも文字らしきものは発見されていない。
従って甲骨文字は中国最古の文字であり、これらが発展していくことで形成、安定して行った漢字は、全て甲骨文字にその起源が求められるべきものと判断されるのである。
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ただ、当然のことながら、これら多数の甲骨文字は一時に作られたものではなく、また1人や2人で作られたものでもない。
殷が成立した直後にはおそらく文字は無かったに違いないが、それが国家として安定していく過程で、多くの者達によって集積され、それが文字となって行ったに違いない。
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そしてその文字だが、「文」とは紋様の「紋」と同じ系列の語であり、物の形になぞらえた絵や模様を指していて、「字」は「滋」(じ)、益々増えると同系列の語で、こちらは既存する絵文字を組み合わせて、増やしていくと言う意味がある。
                                 ・
つまり「文」とは原始的な文字を指し、「字」はそれらを組み合わせていく過程で発生していく二次的文字と言うことができ、これを今の言葉で言うなら、象形文字や指事文字はそれを「文」と言うことができ、会意文字や形声文字は所謂ところの「字」であると言うことができようか・・・。
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漢字はこうした「文」と「字」の組み合わせで、何千万という総体をなしているのである。
後漢の許慎(きょしん)は西暦100年、中国で初めての字典となる「説文解字」(せつもんかいじ)を著わし、漢字を「象形文字」(月・日など)、「指事文字」(上・下など)、「会意文字」(武・信など)、「形声文字」(河・江など)、「転注文字」(令・長など)、「仮借文字」(かしゃく文字・同意の時の当て字など)の6種類に分類したが、これを「六書」(りくしょ)と言う。
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「象形文字」は言わずと知れた簡略化された絵文字であり、「指事文字」とは形として描きにくい一般的な事柄を、抽象的な約束や印(しるし)で表したものと言うことができるが、数字などはまさにこれである。
「会意文字」は基本的に「象形文字」や「指事文字」を組み合わせたもので、許慎が事例に使った「武」や「信」などがそれに相当しているが、ここで注意しなければならないのは、「武」の文字は「弋」(ほこ)を「止」、つまり止める意味で「武」となっているのではなく、許慎によれば「止」を「趾」の原字で「足」の意味で用い、これによると、「弋」を持って勇ましく歩く姿をして「武」としていることを曲解してはならないだろう。
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また「信」についても日本人はこれを自身の気持ちや、その心の有り様のように思っているかも知れないが、実はこれは「人」と「言」であり、まっすぐに通る言葉、即ち「素直に信用できる言行」のことを表していて、心ではなく行動する姿を指していることを忘れてはならないところだと思う。
そして「形声文字」とは「河」のように、片側に発音を表す音符を含み、他方にはそれが帰属する世界を示す偏を添えた形式の文字を指す。
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更に「転注文字」、こちらは許慎の解説によれば、もともと命令を意味する「令」と言う語がやがて命令を出す人、長官の意味にまで転じていって、「長」(おさ)と言う言葉になったケースを指しているが、こうしたことから言えば、この有り方は語義の転化であり、文字形成のありようを示しているとは言えないかも知れない。
同じように「仮借文字」もまた、同音の当て字であることから、こちらも基本的には文字形成と言うよりは、文字の使い方の問題となろうか・・・。
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従ってこうして見ると、「転注文字」と「仮借文字」が本質的に文字の形成や成立に関していると言えないとするなら、漢字は基本的には「象形」「指事」「会意」「形声」の4種であると言え、これをして殷の時代の甲骨文字を振り返るなら、そこには無論数の少なさはあるが、甲骨文字にも「象形」「指事」「会意」「形声」などの文字創造的要素は全て揃っている。
やはりこうした観点からも、漢字の原型は殷の甲骨文字から既に定まっていたものと、看做すことができるのではないだろか・・・。
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また殷に存在した甲骨文字はおよそ3000、実は人間の言語は3000もあれば、それの組み合わせで、殆どのことが表現できるとも言われている。

「漆桶」

漆を保管、或いは移動させる為に用いる容器は古来から円形か楕円の物が多かったが、何故四角い容器が用いられなかったかと言うと、漆の自然棄却率が考えられた為である。

漆に限らずあらゆる物は、生産過程や精製過程で必ず不純物として元に存在した質量から一定の質量を失う。

漆の場合は容器に入れると、それに付着した分と、隅が有ればその隅に比例して自然棄却率が高くなる。

簡単に言えば円形かそれに近い形状が四角よりも内側の総表面積が小さく、なおかつ四角ならば底板の4面に加え、立ち上がりの4つの隅に拠っても漆が気づかない間に棄却されてしまい、漆は木ヘラで扱うのが一番効率が良く、この木ヘラは円形に対する取り回しが実に容易でもある。

この為に漆を入れる容器は円形か楕円形が用いられ、材質も陶器などだと重い事は勿論、割れた場合は中の漆が瞬時にして失われる事になる為、木製品の小さな桶、または「曲げわっぱ」などを用いた訳である。

今でも中国から輸入される漆は、原液が5貫匁(ごかんもんめ・約18・75kg)で取引される事から、直径50cmくらいの重い木の桶、日本産だと昭和60年代までは小判型の桶に入れられていたものである。

そしてこれが精製され、一般的な塗師屋や職人が使う時には、2貫匁や1貫匁の単位になり、円形桶に入れられて販売されていた為、こうした桶は何度も再利用されていた。

漆桶を持って行って、その中に漆を入れてもらう形式が一般的だったのである。

この漆桶が劇的変化を始めたのは太平洋戦争終結後の事であり、昭和30年代には合板の曲げわっぱ形式の桶が登場し、輪島でも昭和50年代までは、こうした合板の桶が利用されていたが、この段階までは依然として桶は再利用される形式が残されていた。

しかし、昭和50年代も後半になるとプラスチック製の円形漆桶が登場し、これに拠って漆桶の再利用、循環使用の歴史は消失する。

漆桶は使い捨ての時代に入った訳で、丁度それまで自宅に有るボールに水を入れて豆腐屋さんから豆腐を買っていたものが、スーパーで1個々々がプラスティック容器に入れられ、販売される形に変化したのと同じような変化になったのである。

またこれからほどなく、内部に防水加工がされた紙管(しかん・紙の管)を切って、それに漆を入れる紙の桶が登場し、現在は漆桶需要の半分がこの紙の桶になっている。

プラスティックよりは棄てる事が容易、或いは燃やして処分する事が容易な為である。

妙なものだが、人間同士のコミュニケーションが価値を持った時代は棄てるものが少なく、人間関係が煩わしいと思うようになると、どうしても容器は捨てるようになって行くものらしい。

してみると個人主義や自由と言うものはゴミを増やすものなかも知れない。

ちなみに中国から輸入される5貫匁桶に荒編み麻布を貼って、それに漆を塗ったのは輪島市河井町の私と同郷出身の漆器店と夏未夕漆綾であり、輸入時に入れられてくる中国産漆の木の桶の大量処分に窮した漆販売業者の事情を知った漆器店経営者が、私に何か方法が無いかと相談、雪囲い用の麻布を5貫目桶に漆と糊半々の分量で調合した接着漆で貼り、そこに砥の粉100、漆80の分量の「サビ漆」で目とめした下地を行い、河井町の漆器店が主体となって上塗と販売を担当した。

1989年の事である。

その後この商品は爆発的なヒットとなるが、同時に他漆器店や他産地でも同様の製品が作られるようになり、ここで当初の目的である桶の処分方法が確立した形となった。

やがて当初処分品だった桶は市場の需要に追い付かなくなり、桶に値段が付くようになり、製品は日本全国で生産され価格も上がって行き、現在は漆材料の高騰に拠って生産されたものが価格に対するクォリティに追い付かない為、夏未夕漆綾では生産を中止している。

同様にやはり大量に捨てられる紙の桶の再利用も考えられたのだが、これにも荒編み麻布を貼って、透き漆と朱色のぼかし塗をした加工製品を夏未夕漆綾で開発した。

こちらも一時的なヒット商品となったが、仕上がり具合がとても紙の桶とは想像できないものだった為、木製品と錯誤し、ワインクーラーなどに使用してアイスピックで突いてしまう事例が続出し、生産は1年で終了した経緯がある・・・・。

若気の至りだった・・・・(笑)