2・「暗闇の濃度」
1・「人の隙間に生きた少女」
「雪斎膳」
今は輪島塗でも殆ど製作される事は無くなったが、「雪斎」(せっさい)と形式のお膳が存在した。
これは内側の隅が縁となだらかに繋がり、外側の縁も4分の1円の外周状のお膳で、その昔は神道の儀式に使われた「折敷」(おりしき)を簡略化、日常生活に適合させたもので、通常は2枚の足が付き、一頃は旅館や料亭で多く見られた日本の一つの形と呼べるお膳である。
折敷は1尺2寸(36cm)、若しくは1尺(30cm)と言った板に1寸(3cm)程の縁を付け、更にこの形で4つの角をやはり1寸(3cm)落とした準定型8角形のお膳だが、戦国時代、駿河の今川義元の軍師として活躍した駿河臨済寺の僧、(大原雪斎)(おおはら・せっさい・1496年ー1555年)が存命中に既に形としての完成の領域に有り、それが神社などに見られる「三方」(さんぼう)などだ。
大原雪斎はこの神道で完成の領域に有った「折敷」の角を全て丸くし、尚且つ「三方」などで見られる複雑な角が多用された高台(足)を更に簡略化して、現代まで使われ続ける雪斎型お膳を開発したが、このコンセプトは「取り回しの良さ」、ある種の合理精神であり、隅も角も丸くして形を簡略化したおかげで随分と扱いが楽になり、その後爆発的にこの形が汎用されるようになる。
以前他の記事でもこの事は書いた記憶が有るが、鋭利な角はいずれ欠ける事になり、すなわち角を落とすと言う作業はその物の未来の形と言える事に鑑みるなら、雪斎のように隅を丸く埋め、角を落とした形はいずれ壊れて行った形の先取りと言えるもので、こうした形に関する思想の起源を社会や自然に求めるか、或いは仏教の持つ死生観に求めるかは難しい所で、これはもしかしたら同じ事なのかも知れない。
自然にいつか磨り減った形は、有る意味最も自然に適合し使い易い形と言え、大原雪斎は禅の境地からこの型に辿り付いている事になる。
だが西洋建築が一般化した現代の日本家屋は畳の部屋が少なくなり、立ったまま事が為される形式になってきた事から、また食生活の多様性によって地面から距離が離れた空間で食を為す形式になり、この雪斎型お膳は平成に入って急激に衰退し、現在では殆ど生産されていない。
勿論以前に大量に市場に出ている事から、それが使われる場面は今でも存在するかも知れないが、酒が日本酒からビール、ワインや発泡酒と言った具合に嗜好的変化を遂げた今、今後いつかの時点では雪斎型お膳は時代劇ドラマでしか見る事が出来ない日が訪れる可能性は必至かと思われる。
そしてこうして折敷と言う形の完成から雪斎と言う形の究極が生まれたが、現代社会の飽和性は雪斎が持つ未来の形をまた複雑な方向へと向かわせている。
社会の閉塞性や個人が抱える闇の深さは社会全体の不安定を招き、この事が死生観に通じる形にまた角を加え、鋭利な隅を加えようとしている傾向が有る。
人間が描く未来の形とは現在の在り様から推し量られる傾向の極端な部分であり、これは現実や物の形の未来ではない。
人間の未来と現実の未来は常に相反するもので有り、神道で完成された人間の完成形が仏教に拠って導かれた未来の完成形に推移し、今また人間精神の形に戻ろうとしている。
人の世は一周して、闇に向かっているかも知れない。
「博物館の軍刀」後編
そして昭和20年7月、良くぞここまでと言うのが正直なところだろう、他の戦地では日本兵の万歳突撃が伝えられる中、安達の18軍はしぶとく持久戦を耐え抜いていて、ここに来てジェネラル・アダチとは一体どう言う人物なのか・・・と言う半ば尊敬の眼差しがオーストラリア軍の中から芽生え始めていたが、そうは言っても戦場である。
8月8日、ついに連合軍は日本軍第18軍司令部付近にまで侵入してきた。
もはや、これまでである、安達は9月はじめには全滅するものと判断し、各部隊指揮官に最後の突撃に対する覚悟を通達していた。
昭和20年8月15日、終戦。
これを一番喜んだのは誰であろう、それは安達では無かっただろうか、もはや第18軍の運命は玉砕しかなかった、まだ少年としか言いようがない幼顔の兵士達を見るにつけ、彼らに「死んでくれ」としか言えない自身のこの有り様、まるでその身を引き裂かれる思いだった。
これから先はどうなるかは分からない、だがしかし、生きてさえ、生きてさえいれば必ずどうにかなる、生きてさえいてくれれば・・・・。
安達二十三中将は昭和20年9月13日、ウェワクのオーストラリア第6師団司令部に出頭、そこで軍刀を差し出し、降伏文書に署名した。
それから第18軍はムシュ島に収容され、昭和21年1月にはその大部分が日本に復員したが、安達を始め140人ほどの部下達は戦犯容疑でラバウルに送られ、そこの収容所で一般囚人と同じ扱いで労働を課せられた。
脱腸の持病は悪化の一途を辿り、手術を進言されたが安達はこれを拒否、激しい痛みに耐えながら水桶を担ぎ、30度を超える灼熱の太陽にあぶられながら畑の整備などの労役に耐えていた。
そして安達は結局戦争犯罪人裁判で、終身刑を言い渡されるが、この容疑は完全に濡れ衣も良いところだった。
シンガポールで降伏した後、自発的に日本軍に参加した「インド義勇軍」を日本軍の強制と見做し、捕虜虐待とされたからだが、このときに安達に判決を言い渡した裁判官が、安達に同情の弁を述べているが、安達はこれに対して「同情はけっこうだ」とだけ答えている。
それから後、安達は同じように収容されている部下達を慰め、彼らをまとめながら、ただひたすら戦争犯罪人裁判が終了するのを待っていたが、自身の減刑の嘆願を申し出るでもなくその日を待ち続け、9月8日、ラバウル法廷が閉鎖される宣言を通告され、同時に戦犯容疑で拘留されていた最後の部下8人の釈放が決まると、弁護団に丁寧に礼を言い、身の回りを整理したあと、9月10日午前2時ごろだと言われているが、自決した。
果物ナイフで腹を割き、自分で自分の首を押さえ圧迫して死んで行った。
オーストラリア・キャンベラ、ここにオーストラリアの戦争博物館があり、太平洋戦争時の日本軍の遺品も展示されていたが、その中にジェネラル・ハタゾウ・アダチ、と書かれたプレートが掲げられた日本軍指揮官の軍刀が一振り、展示されている。
安達二十三中将その人のものだが、戦後ここを訪れた多くのオーストラリア軍関係者の中には、このジェネラル・ハタゾウの軍刀の前に来ると姿勢を正し、敬礼する者がいたと言われている。
最も偉大な指揮官とはどう言うものだろうか、そこにあるのは「責任」と言うものでは無いか、すなわち部下が人間であることを思い、彼らを何とかして生かして帰してやりたい、そしてまた作戦も遂行しなければならない、こうした苦悩の中、自身を顧みることなく、その狭間で最大限に力を尽くし、そしてまた自身の命令により命を落として行った者たちのことを最後まで忘れず、これに対して自らの命をもってあがなった安達二十三。
泣いて、泣いて、泣いて、もとより全てが終わったら死ぬ覚悟でありながらも苦闘し、その中にあって若い者達が1人でも多く生き残る術を見出そうと、最後まで奮闘した安達二十三、私はこの男の中にあらゆる国家、人種を超えて、いや人間として、指揮官と言う枠を超えた「人としての責任の有り様」を見るのである。