「2種の木地取り」

輪島塗だけではなく「椀」を見る時、職人はまず親指と人差し指で上縁付近を弱くはさみ椀を一回転させるが、これは内縁と外縁に微妙な段差が無いかを確かめる為で、どんな微妙な歪みも段差もこれで知る事ができる。

一度漆器店へ行ったらこうした撫で方をしてみると良い。

そこで嫌な顔をされたらその店は結構知識が有り、全く気にしないようだったら知識が無いと言う事になる。

椀木地には「縦木」(たてき)と「横木」(よこき)と言う木地の取り方が有り、年輪に対して平行に木地を取る場合を「横木」、年輪と直角の角度で木地を取ったものを「縦木」と区別するが、見た目での区別は横木が板目状に見え、縦木は柾目状に見える。

そしてこの両者にはそれぞれメリット、デメリットが有り、横木は縁が割れにくいものの木地そのものが歪み易く、長い燻蒸(くんじょう・燻しながら乾燥する)処理期間が必要となる。

一方縦木は柾目である事から割れ易いが木地の歪みは少なくなり、時代が古くなればなるほど木地の取り方は「横木」が多くなる。

産地としては横木の木地産地が富山県庄川(とやまけん・しょうがわ)、縦木は石川県山中(いしかわけん・やまなか)が最も著名だが、横木の木地の取り方の方が同じ木材から取れる数が少なくなる為、現在は庄川では皿や鉢などを主体に木地生産が行われ、椀木地の生産は石川県山中地区が主流となっている。

勿論漆器産地である輪島市にも椀木地は存在するが、元々が小規模な循環の中に有る事、それに現在に至っては木地も作品とする考え方が一般的で、この意味では塗り木地と言う概念からは外れてくるかも知れない。

また椀の木地としては「欅」(けやき)が最高では有るが、材料の調達コストが高く、その殆どは「はんさ」が使われ、「とち」「銀杏」なども使われるが、「とち」や「銀杏」は極めて歪み易く、現在市場に出回っている「椀」の36%が中国漆器の椀であり、51%がプラスティックや合成樹脂、残りの13%が漆器産地の椀と言う事になる。

しかしこうした13%の国内生産木製椀だが、その内の80%が中国漆器を国内で塗り替えたものであり、この点を考慮するなら日本国内生産の椀は極めて少ない流通でしかないと言える。

輪島塗りのピーク時の総売上は180億円だったが、これが2012年度は42億円にまで減少し、しかもこの42億円の内の半分近くは中国製の椀の塗り替え加工や他産地漆器の塗り替え、それに中古漆器の塗り替えと修理と言う状態で有る事を考えるなら、現実に生産されている輪島塗がいかに少ないかを漠然と感じる事ができるだろう。

「自然幾何数」

人間の視覚、或いは自然が持つ数値的傾向には「三角形」が深く関与している。

例えば写真や絵などで最も安定した構図を考えるなら、そこに3点で物や人物を配すると人間の視覚はこれを安定と認識し、こうした3点構図の3次元化によって遠近法、更には2点透視図法などの概念が発生してくるが、これらはいずれも三角形の概念である。

三角形は直線と言う1次元が次に形成し得る最も直線に近い2次元であり、この事から如何なる複雑な平面で有っても、三角形の組み合わせでこれを計測すると、他の多角形よりはるかに高い精度で平面を表現する事が出来る。

またピタゴラスの定理「直角三角形に措けるα2乗+β2乗=c2乗」関係は、ピタゴラスの定理として成立する遥か以前、6000年前のエジプト、古代バビロニアでも既に使われていたある種の自然対数であり、「3・4・5」「5・12・13」「8・15・17」の関係は日常の経験則として汎用性を持った数値原則だった。

勿論、古代には微積分の概念がまだ詳しく発達していなかった事から、流石にαやβ、cが「素数」でないものは使えなかったが、彼等は生活の中でこうした自然の中に潜む法則を経験則から使っていたので有り、こうした自然の中に潜むピタゴラスの定理数値は「原始ピタゴラス数値」と表現され、数の概念は無限である事から、「原始ピタゴラス数値」もまた無限に存在する事になる。

つまり無限に広がり、今この瞬間も人間にとっては動き続けている数字の一角を、直角三角形の関係が支配している訳で、この点を考えるなら三角形は一種の数値的原則、それそのものが自然定数と言え、このような在り様から、我々が生きて行く上で最も重要な法則の一つと言えるのかも知れない。

そして三角形の三次元化が「円錐」(えんすい)の概念であり、これは直角三角形の底辺と直角の関係にある辺を中心にして回転させることで得られ、我々が日常で使っているパラボラアンテナの語源であるパラボラとは単純な楕円形ではない。

三角形を回転させて得られた円錐を、斜めに切り取った形の事を指しているのである。

ちなみに1対1・6180339の黄金比だが、こうした比率は古典比率と言い、古くは最も安定した比率とされたが、現代はA4用紙などに見られる、1対√2近似値が最も見慣れた比率になっていて、これはピタゴラスの定理に出てくる基本三角形の一つの比率に近い。

が、面白い事にはA4のコピー用紙の比率は1対1・40476なのに、何故か輪島塗の幅3尺、長さ5尺の座卓が1対1・6666で、輪島塗の座卓がより黄金比率に近いのである。

三角形の起源は黄金分割よりもおそらく古く、これが現代比率に用いられている一方、それと同時期か少し新しい時期の黄金分割が日本の比率に自然形で残っている訳である。

最後に、黄金分割比は「1・6180339887・・・」だが、この中で「339887」と言う数字は結構頻繁に出てくる事になるので、後日どこかで解説しよう。

今日は形の基本が三角形である事、そして造形や構図には三角形が重要な役割を果たす事、また自然摂理の一角を三角形が占めている事を書かせて頂いた。

「見えない第4の層」

私が輪島塗で独立したその日、最初に考えた事は「これで自由だ、いつでも好きな時に休めて、もう誰にも頭を下げずに済む」だった。

だがどうしてどうして・・・、現実にはどんどん時間が無くなり、休めるのは葬式でも出来た時くらいになり、元々中身も少ない軽い頭は、上がっている時を探すのが難しい事になってしまった。

自由とは究極の不自由のことかも知れないと思う今日である。

経営者とは実に孤独なもので、それゆえ組織に在れば情報こそがその拠り所に成る事は塗師屋の親方も同じ事だが、自分や運営している組織に対する正確な評価や、その改善点などは容易に経営者の耳に入る事は無く、また経営者自身もどうしても自身に対する厳しい評価を嫌い、耳障りの良い言葉を求めてしまうものだ。

輪島塗の塗師屋の組織はそれぞれの仕事で部屋が分かれているのが一般的で、下地、研ぎ、上塗りの部屋にはそれぞれ数人から大きいところでは数十人が一緒に仕事をしていて、このような閉じた空間で座って手仕事をしている環境では、たわいも無い会話こそが全てと言う感じになる。

情痴、噂話、悪口などで盛り上がりながらコミュニケーションがはかられ、仕事をしているのだが、時々親方に対する悪口も出てくるのが普通で、たまたまそうした話が出ている時に階段を上がってくる親方がそれを聞かざるを得ない時も有って、当然これは面白くないが、親方ともなればそのような些細な事で一々怒っている訳にも行かない。

またそうした自身の悪口の中には10に1つくらいには自分が一番気にしている事に関するものだったりもする。

従ってこの悪口の中には、自分や運営する塗師屋に対する職人達の正直な思いが含まれている訳で、孤独な立場の親方に取って最も必要とされる情報もまたこの中に有った訳である。

優秀な塗師屋の親方はこうした職人達の悪口を制する事はしなかった。

階段を上がりながら自分の悪口が聞こえてきても、仕事場の戸を開けると、まるで聞こえていなかったかのように満面の笑顔で皆に挨拶をしたものだった。

経営者の悪口が言える環境こそを、善しとしていたのである。

輪島塗の器で100年ほど経過した物の剥離層を見てみると、その大部分が補強布と上塗りの層で有り、一番厚く付いているはずの下地層が、ほんの僅かしか残っていないのには理由が有る。

一つは経年劣化で含有水分が無くなり萎縮した事、そしてもう一つは職人が付けた下地を研磨して成形した為に、下地の半分ほどが消失してしまうからだ。

つまり輪島塗に限らずあらゆる漆器は、こうして消失してしまう部分が有ってその形が為されている。

形として残らず、見えない第4の層が有って漆器は出来ている訳で、職人達の痴話ばなしや悪口、そしてそれで盛り上がった笑顔が、形無きとも第4の層を作っているのである。

「政治と文化の関係」

古来より日本の文化はある種の独立性を持っていたが、それは大日本帝国憲法の天皇の輔弼事項でも同じことが言え、ここに「形無きもの」を誰かが所有、利用してしまう事を好しとはしない思想は、最終的には天皇家によって担保されていたと言える。

律令国家時代、平安の世での仏教文化に措いても、それが政治的に利用されつつも為政者によって畏れられ、最終的にはその関係が拮抗した状態で推移してきたが、この均衡を破った者が織田信長で有り、彼はこの「形無きもの」の本質、つまりは何も無い事を実践しようとして失敗、「本能寺の変」で命を失う。

そしてその後発生した「豊臣秀吉」は政治を担保するものとして、文化を権勢によって手中にしようとするものの、「千利休」がこれを拒否し、結果として千利休は命を失うが、これによって文化の政治的独立性、或いは文化が持つ権威は保たれた。

しかしこれが簡単に破られてしまったのは西洋文明の流入によってで有り、明治の大日本帝国憲法の素案は西洋の立憲君主統治思想をモデルとした事から、かろうじて統帥権が独立した形を保ったが、これに経済的窮状が加わった日本は太平洋戦争中、軍部が統帥権をも手中にしてしまい、戦後統帥権に限らず全ての「形無きもの」が国家管理となってしまった。

つまりここに織田信長や豊臣秀吉ですら為しえなかった政治と文化の統合が成立したのであり、「天意」「運命」「形無きもの」は全て政治によって担保される事になった。

その結果が芸術院会員、人間国宝などの制度であり、これらは本来政治が認定したり決定する事では無く、万民による畏れや支持が必要な事で、この万民の支持こそが権威を担保すべきものである。

それゆえ政治と文化は相互が独立し、それぞれが認め合う事が必要なのだが、これが一体となったものは既に文化に有らずして「行政施策」にしか過ぎず、為に生まれて来るものは行政による文化らしきものと言う稚拙な事態に堕ちる事になる。

発足直後の明治政府、その権威で有った明治天皇ですら軍を動かす権力で有る「統帥権」を輔弼事項とした。

天皇は「天意」をご存知だったと言う事である。

「天意」は一見文化とは別のものに見えるかも知れないが、その本質は同じものであり、これのもっとも深いところには「畏れ」が有る。

そしてこの「畏れ」を忘れると文化を守る、継承すると言った傲慢な自我の暴走が起こるが、文化は守られるべきものでも継承されるものでもない。

今この瞬間にも創造され動いているものであり、これを決するものが民衆の生活で有ったり、夢、希望などが総称された所にあるものだ。

誰が作った物が優れていて、誰が作った物が劣っているかを決するのはとても恐ろしい事でも有り、そもそも自身がそれに値するのか疑わない者の考え方は愚かだ。

古来為政者や政治権威を担保する最終的権威が文化や、「それが解っている」と言う「形なきもの」であり、これを政治や行政が決定していく状態は「逆流」である。

畏れとは自分を疑う事にその始まりが有り、それの行き着くところが「天意」と言う事になるのかも知れない・・・・。

「漆が持つ2つの感触」

書道など筆を使う仕事をしている人、或いは筆を使う機会の多い人は理解できるかと思うが、筆には縦と横が有り、必ず筆先が揃わずに墨が太くなってしまう横部分と、すっきり墨が付いてくる縦部分で構成されていて、安価な筆はこの中でも縦の部分が少なく横の部分が多くなり、高級な筆になるほど縦と横の差が少なくなる。

同じように漆もその感覚上の差異として「粉系」と「液系」が存在し、これは下地生漆でも上塗り漆でも塗った時の感触の違いとして現れ、どちらかと言うと塗った時に粉の感じがする漆の方が仕事は綺麗に仕上がる。

液体の漆に「液体」の感触は理解できるが、「粉」の感触とはおかしな事を言うと思われるかも知れないが、これは木ヘラや刷毛で漆を塗る際、その最後にヘラや刷毛が漆の表面から離れる時の感触を言い、「粉」を置いて行くように切れる漆は作業もし易ければ、仕上がりも木ヘラや刷毛の最後の斑(むら)が残りにくい。

そしてこの液系と粉系は基本的に漆産地や季節によって左右されるのではなく、採取した漆の木によって違ってくる差異であり、液系の中にも粉系が存在し、粉系の中にもやはり液系が存在すると言う繊細なもので、輪島などの漆器産地で「漆の顔を見る」と表現される漆の感触とはまた別の、職人独特の感触である。

「漆の顔」とは乾燥していない液状の漆ならその乾燥速度と、表面張力による平面の均一性傾向の予想であり、これが乾燥している漆ならその表面光沢や、どれくらいの厚さに見えるかと言った事を指しているが、漆の液系と粉系は塗った時のイメージを表現したものだ。

またこうして実際の作業ではとても効率が良い「粉系」の漆だが、一般的に日本産などウルシオールが多く含まれる良質な漆は「液系」が多くなり、従ってこうした液系の漆にどれほど作業効率の良い粉系の漆を調合するかによって、総合的な仕上がりが違ってくる。

良い材料だけを使えば良い仕事に成るとは限らないので有り、中国産漆でも日本産以上の漆は存在するし、日本産でもそれが採取して早い段階で使われるなら、非常にコントロールが難しくなり、良い効果は得られない。

話は少しそれるが、フランスの車のオイルフィルターは紙製が多いが、これだとすぐにフィルターを交換する必要が出てきて、それによってエンジン性能を保護する効果を持たせているが、日本の車はこのフィルターを強靭な材料で作って有り、為にフィルターの交換はそう頻繁に行わなくても一定の性能が得られるようになっている。

考え方の問題だが頻繁に交換して安全性能を得る方法と、出来るだけ完璧なものにして故障を少なくする方法では、その性能が万一ダメージを負った時の大きさが違ってくる。

完全に近いものの万一の時のダメージは大きく、日本人はどちらかと言えば完全で有る事を求める。

良い材料を使っていれば安心かも知れないが、その良い材料はどこかに普通のものすらも不完全としてしまう性質を持ち、その事が全体のバランスを崩す。

書は唯美しければ良いと言うものでは無い。

そこにその人なりが現れてこそ良い書であり、縦も横も使いこなしてこそ、初めて筆を使うと言う事なのだろうと思う・・・。