「危うさの美」

例えばパソコン画面の文字エディタで、文章の色を黒で表示している中に一部分だけ赤の文字表示を起こせば、そこは際立って見え、更にその赤い文字表示に規則性を持たせた配列をすれば、赤い文字は目立たなくなり全体に溶け込むが、この場面で赤の文字を多様し規則性が無いと、人間は文章を読む以前にストレスを感じる。

昨今パソコンで表示できる文字色は多様化し大変華やかになったが、これを多用し目立たせようとすればするほど、その目立たせようとする部分は画面全体のストレスになって行き、文章の内容以前の問題で人には伝わらなくなっていく。

結果として一番人間が読み易い文字は黒か若しくは深い青の色で、特に目立たせたい箇所は文字の太さを少し太くする程度が一番安定した形となる。

同じように物作りの場合でも主張しようとする事を全て詰め込もうとすると、そこには主張の分散が起こり、伝わるものは薄くなる。

「東山魁夷」(ひがしやま・かい)の目が光を中心にして、それを紙の中に写し取る時、闇や影を捉えるようになった事からも解るように、主張とは全体とか環境と言ったものと同義、光と闇は同じものなのである。

それゆえ漆器の意匠でも冒頭の文字色と同じように、煌びやかなもの、主張したいものをあれもこれもと入れ過ぎる、或いは自分の技術ばかりを主張しようとすると、そこに現れるものは「愚かさ」や「稚拙さ」になって行く。

一方人間の存在と言うのは、その生存が始まった瞬間から「矛盾」であり、この意味に措いてキリスト教社会はギリシャ哲学の「ロゴス」を「理論」「言」と約したが、その本来は創造と同義の「破壊」だったと考えられ、一般化、普通、パターンである「ミュトス」との相対だった。

従って人間には「安定」と「破壊」が同義で存在し、安定も破壊もそれが続く事を望まない部分が有り、これに鑑みるなら冒頭の文字色などが持つ「安定」は常に新しい「破壊」によって変遷して行き、やがてはその新しい「破壊」が「安定」となる事を繰り返す。

つまりは「安定」と言う概念が普遍性を持たない事を意味しているが、人間の創造にはどこかで限界も存在し、この非普遍性は必ずしも全くバラバラとはならない。

「周期普遍性」を持っているのである。

ゆえ、これまでの価値観であれば文字は黒や青で、多色を使う場合は規則性が必要だったが、今この瞬間に生まれた者にとっては多色非規則性が「普通」となり、この「普通」に対する「破壊」が文字色の統一性や色配列の規則性で有り、現在は「非規則性」の時に有る。

そしてこの宇宙に完全な「不規則性」は存在していない。

どんなに不規則なものでも、例え壊れて行くにしても、そこには一定の速度法則が存在していて、ここで完全な不規則性を求める事もまた「完全な美」を求めるに等しい。

今「安定」に在る者、一定の年齢を得た者が持つ「安定」からすれば、「愚かさ」や「稚拙」に見えるものも、その中には未来に措ける「安定」が潜んでいるのであり、これが「希望」と言うものなのかも知れない。

 

「サマルカンド・紙の道」

中国において紙が初めて作られたのは後漢時代(105年)、宦官の祭倫(さいりん)が作ったとされているが、その紙がヨーロッパに伝わったのはそれから600年後の事だった。

751年、中央アジア(西トルキスタン)のタラス川の戦いで、唐の軍隊がイスラム文化圏の大帝国であるサラセン帝国(アッバース朝)の軍に大敗した時、捕虜となってサマルカンドへ連れていかれた唐軍兵士の中に紙すき職工がいた。
アッバース朝ではサマルカンドに製紙工場を設けて紙を作らせ、やがてバクダードを始めイスラム世界の各地に製紙工場が建設されたが、このことはタラス川の戦いの時の捕虜の1人の記録(杜環・とかん)の「経行記」と、アッバース朝側双方の記録に残っている。

製紙法は12世紀頃スペインに伝わり、次いでヨーロッパ諸国へ輸入され、それまで使われていた羊皮紙を駆逐してしまい、この紙の使用によって始めて印刷技術が起ってくるのである。

一般に日本における印象で、文化や文明の高度な部分と言えば西欧にその姿を求めるところだが、8世紀から13世紀に中央アジアを支配したサラセン帝国の文化は世界最高水準のものであり、宗教的対立をしていたヨーロッパ諸国の文化、その技術はサラセン人をして「驚く程遅れた」ものだった。

またサラセン帝国の商人は広く東西へ渡って交易をし、それをして各地の文化を仲継する役割もしていたが、このことはヨーロッパに大きな影響を与え、ルネサンスを促進したと言う背景も持っている。
当時イタリア、サラセン両方の商人がともに東西に広がって活躍しているが、イスラム文化圏のこうした商業的センスについては、こちらも高い評価を与えるにふさわしいものだった。

学問の分野でもギリシャ哲学、インド・イランの影響を受けた数学、化学、天文物理、医学などが発達し、アラビアの学問はこうした諸外国の影響を受けて発展していたが、エジプトのカイロにある世界最古の大学、アズハル大学(927年)を始め多くの学院が作られ、セルジューク時代にはニザーム・アル・ムルクによってニザーミア学院(1065年)がバクダードに作られ、これらの大学にはヨーロッパから留学する者も多かった。
従ってこの頃のヨーロッパ古典学問は、こうしたイスラム文化圏からの逆輸入の形で、ヨーロッパへ伝播していったのである。

ちなみに日本へ紙の技術が伝えられたのは610年、バクダードは794年、エジプトへは900年、スペイン1180年、フランス1320年、イギリスには1494年に伝えられたとされているが、ドイツのグーデンベルクが印刷機を発明したのは15世紀のことになる。
これによると中国で開発された紙の技術が最も早く伝播されたのは日本と言うことになる・・・・。

「自分の演奏を手本としない」

物作りに措ける「物」の大きさと作られた物のディテールは、その製作者が置かれている環境に比例し、小さく向かうか大きく向かうか、或いは精緻に向かうか雑に向かうかの分岐点は「一般常識」と言う事になる。

それゆえ物を作る者は「普通の生活」を知っておく、普通の暮らしをしていないと、世界の動きに連動する「一般常識」に付いて行けず、誰かの物まねを続けていく事になり、例えば2年、5年先の物を作る者は最も「今」を理解する者と言える。

未来は本当は存在せず、基本的には「現在」に措ける予測、その人間の希望と言う事になるが、その予測は今と言う「現実」からしか生まれず、今は過去のあらゆる経験から得た記憶によって過去の多くの中に集積された状態で認識される。

この事から過去を忘れない者、今を悩み、あがく者ほど、特に自己認識していなくても予測や希望が未来に措ける一致点を生み易いが、一方で一般大衆の生活と言うものは「少し先の未来」を描き乍、今を生きているものであり、この点で言えば2年先、5年先の「一般常識」は「今」の時点では理解されない。

結果として今流行している物、生活スタイルの中に有る者は「今」に生きておらず、少し先の未来に生きている事になり、この分だけ今をあがく者よりは浮ついた感じになるが、現代の作家や製作者は皆こうしたレベルを出る事は無く、ゆえに適当にお洒落だが、どこかでは感動が無くなる。

つまり少し先の未来の、その先の未来を見せることが出来ないのである。

またこうして一旦どこかで自分の方向性が決まってしまうと、それを守る姿勢に入り、これを生活スタイルや作風としてしまった時、作られた物は籠に閉じ込められたような物しか出来ず、そこから資本力を少しでも失うと、作られた物が容量的縮小、簡単に言えば作る物がどんどん小さくなって行くのであり、また洗練と言う一見安定に見える怠惰は作られた物の力を奪う事になる。

そして物の大きさで重要なのは大きな物と、「一般常識」の範囲を超えて小さい物は等しいか、もしかしたら「一般常識」を超えて小さい物の方がスケール的に大きくなると言う点であり、椀でも直径12cmの椀と直径3cmの椀では、直径3cmの椀の方が製作的には難しくなる事に同じであり、この点では極端に小さい物は極端に大きな物に同じなのである。

その上で今をあがく事無く、少し先の未来を見て物を作る者の小ささとは、やはり「一般常識」の小ささなのであり、この小ささは視覚的には極端に小さな物よりは大きいが、本質は極端に小さな物には遠く及ばない事になる・・・。

以前知己を得たアルゼンチンの女性ピアニストはこんな事を言っていた。

「自分の演奏を手本とはしない」

「自分の演奏が手本になったらそれでお終いよ・・・」

「ええじゃないか」

1866年(慶応2年)この年、坂本竜馬の仲介で成立した薩長同盟は、一挙に討幕運動を加速させたが、この年の12月、討幕には反対だった孝明天皇が崩御、一部では討幕派の毒殺説も流れる中、翌年1867(慶応3年)には明治天皇が即位し、時代の流れは一挙に大政奉還、王政復古へと傾いていった。

慶応2年は余り伝えられていないが、江戸時代全般で最も百姓一揆や打ちこわしが多かった年であり、特に大阪で起こった打ちこわしは、将軍が大阪にいる時に起こっていて、このことは幕府の第2次長州征伐に大きな影響を与えた。
そして翌年慶応3年、秋から冬にかけて畿内を中心に起こった「ええじゃないか」は全国的な運動となって倒壊寸前の幕府支配機構を麻痺させてしまったが、その背後には討幕派の影がちらつき、討幕派はこうした民衆の動きを助長していた形跡がある。

「ええじゃないか」とは有名社寺の札が天から降ってきたと言う噂が広まり、群集が「ええじゃないか、ええじゃないか」とはやし立てながら狂乱する一種の社会現象で、みな仕事も生活も放り出して踊り続け、そのために治安は完全に崩壊した。
慶応3年の「ええじゃないか」はこの内最も規模が大きいが、その背景には混乱の極みにある国情と、それに引きずられる庶民生活の大きな不安、不満がやけっぱちと言う形を取って爆発したとも言える性格のものだった。

しかしこの「ええじゃないか」実は似たような現象が慶応3年のこの時期だけでなく、江戸時代全般を通して数回起こっている。
この基本形態は「お蔭参り」と言うもので、やはり天からお札が降ってきたと言う噂をきっかけに、群集が仕事も生活も放り投げて踊りながら伊勢参りに行くというもので、その道中には宿泊や食物の供与があったりして、それを支援する者も多かったことが知られている。

こうした「ええじゃないか」や「お蔭参り」は飢饉や政治的混乱期に、群集の打ちこわしが起こるのと前後して発生している。
元禄から享保年間への移行期、幕府や武家財政の困窮、農民社会への商業の進出などによって商人以外の武士や農民は多くの窮貧者を出した。
加えて幕府は財政再建策として天領などの年貢率を1割引き上げた結果、それまでは散発的だった百姓一揆も組織的になっていくのである。
名君として名高い徳川吉宗だが、農業政策では失敗し、各地で一揆や打ちこわしが横行するのだが、もともと百姓一揆に対する幕府の姿勢はとても厳しく、首謀者は死罪、家族血縁、そこを代表する名主までもが咎めを受けることから、民衆の一部は形式的には幕府に逆らわず、しかし仕事や生活を放棄して伊勢参りに行くと言う、間接一揆として「お蔭参り」の行動を取ったのではないだろうか。

それが証拠にこの享保年間から発生してくる飢饉、それに伴う打ちこわしに連動したように「お蔭参り」が突然発生してくる。
享保、天明、天保それぞれに飢饉が発生しているが、中でも天保のそれは想像を絶するものがあり、凶作による飢饉は半ば慢性化し、農村部では飢饉や疫病で人口を失うだけでなく、堕胎や殺児(間引き)などの産児制限、希望を失った村人の逐電や欠落(かけおち)などの流出、質奉公や身売りなどの人身売買などによっても人口を失い、その結果農村は荒廃し、更なる飢饉を誘発させていった。

(天保4年)1833年は奥州一体が飢饉になり、その3年後(天保7年)には全国的な飢饉が発生、特に関東、奥羽の惨状は目を覆うものがあり、米などの物価は激しく上昇、それに対して幕府、各藩は買占めの禁止や備蓄政策、穀物の移動制限などを行ったが、悪徳商人達は果物や穀物の買占め、売り惜しみをして物価はさらに上がり、飢饉被害を拡大させたのである。
この頃記録に残っているだけで、江戸では1日180人、上方(大阪)でも1日170人の餓死者がでていた。
民衆はこうした事態に完全に理性を失い、没落して農村から江戸に流入した無籍の貧民達が富裕な米屋、高利貸し、商家を襲い、米や借金の証文などを襲奪していった。

一揆は段々と組織力を増していったが、後世ナチスが用いた密告の奨励などによって、幕府は一揆が大規模化、政治運動化する事は抑止していったが、基本的にはこうした一揆、打ちこわしの流れの果て、1833年の天保の大飢饉から34年後に大政奉還が成立していった。

人間は極度の悲しみや絶望に出会うと笑うものだと言われている。
それはもはや感情が麻痺し、意識がどこかへ飛んでしまうからだが、先が全く見えない幕末、飢饉で絶望しかないところで狂ったように踊りだし、「ええじゃないか、ええじゃないか」とやったら、みんなもうどうでもいいと思ったに違いない。
民衆がこうした壊れ方をしたときは、その国も同じような壊れ方をしているのだ。

そして日本にはもう1つこの「ええじゃないか」や「お蔭参り」に似た風習がある。
神頼み、狂ったように踊る・・・、そうだ祭りだ。
「らっせらー、らっせらー」と踊るねぶた祭り、「踊るあほうに、見るあほう」の阿波踊り、みんな狂ったように踊る祭りで、たいがいの祭りはこうして我を忘れた部分、一種の狂気をはらんでいるものだ。

日本人の根底にはこうした祭りに対する独特の感情がある。
それは苦しい時も、楽しい時もどこかで何か自分ではどうしようも無いものの力を信じ、それにすがる思い、即ち日本独特の宗教観がそこに横たわっているように思う。

「ええじゃないか」はそうした日本人独特の宗教観がなせる、人々ができるたった一つの最後の行動だったのではないか、屍が路に転がり、乳飲み子が死んだ母親のそばで泣き叫び、荒れた形相の男達がたむろしている中、現実にあるのは絶望の中を「ええじゃないか、ええじゃないか」と老いも若きも男も女も踊り明かす。
案外地球最後の日が来ても、人々はもしかしたら気力を失ってがっくりしていないのかも知れない。
意外にも「今日が地球最後の日だ、こんなめでたい事は無い」などと言いながら飲んで踊っているのかも知れない。
もしそうだとしたら、人間は結構偉大だと思う・・・。

「棗」(なつめ)

お茶の世界では道具の一つともなっている「棗」(なつめ)だが、その起源には二重性が存在している。

一つにはその装飾の時代的変化だが、例えば室町時代の棗には華美な装飾が施されたものが存在し乍、その後戦国時代末期には全く装飾を施されていないものが存在してくる事、また記録上明確に「棗」が出てくるのは「天王寺茶会」(1564年)で「津田宗達」が使ったと言う記録が最も古い記録で、しかもこの時は他の薄手茶器「木製の茶器」より遥かに下の座に措かれていた。

また江戸時代の記録には棗に梅の花が入れられている記述が存在するが、室町の時代にも香り草の記録が垣間見える。

この事から「棗」の歴史は「茶道」の歴史より古く、元々香り入れ、薬入れ、茶入れなどとして中流以上の階級では既に使われていたものが、茶道に転用されたと見るのが妥当な解釈かも知れない。

1564年の天王寺茶会で置かれた棗の立場の低さは、「新参者」の扱い、身分卑しきものの扱いであり、ここに一つの結界に措ける日常性の空間、偶然と必然が一体となった茶の席と言う場に、恥ずかしそうに座っている町娘のような棗の姿を見る思いがする。

更にこの時代の棗が黒刷毛目塗りと言った、極めて質素な仕立てで有る事に鑑みるなら、そこに出てくる非装飾性はちょうど千利休(せんのりきゅう)の「ルソンの壺」にも似たりで、華美なものに対する抵抗、つまりは既存権力に相対した考え方に基づいている可能性が高い。

室町時代には一般庶民の普通の道具で、華美な装飾が施されたものも存在する中、敢えてそれを自身の世界に入れることで、華美な装飾を廃する事で、既存との区別を持とうとした茶道の姿勢には、煌びやかな事の中に潜む愚かさや、他を省みない事への抵抗としたのではないかと考えられ、ここに早くも茶道には既存が有り、これに対する抵抗を見ることも出来るのである。

そして今日、千利休好みとして多くの形の棗が存在し、かつ煌びやかな装飾を施された棗を見るに付け、私は随分可愛そうだなと思っていたりする。

本来は梅の香りを楽しんだり、香り草を楽しみ、或いは貴重な薬を入れてどこにでも置かれていた棗が、茶道と言う権力の捉われの身に堕ち、豊かだが自由を失った、以前は純朴な、しかし今はおはぐろの姑となった町娘のように見えてしまうのである。

世の中には権力でしかそれを擁護できないものも多いが、その権力によって縛られてしまうものも多い。

美味しいものが食べれて綺麗な着物が着られ、何の不自由なく暮らせる事が幸せかどうかは解らない。

江戸元禄時代に体を売って自身の父親の生活を支えていた少女の記録が残っているが、彼女は祭りの日に父親から少ないが小遣いを貰って、楽しそうに祭りに出かけて行くのである・・・。