「何故ここに・・・」

1953年、一人のエクアドル人がアメリカのスミソニアン博物館を訪れ、クリフォード・エバンズ教授がこれに応対したが、このエクアドル人は「趣味で古い遺跡を調べているのだが、少しばかり教えて頂きたい」と言う・・・。
彼の名前はエミリオ・エストラーダと言ったが、エクアドルでは自動車販売にアメリカ式の合理的な方法を取り入れ、やり手の実業家として有名な人物だったが、「私の尊敬する人はドイツの有名な考古学者、ハインリッヒ・シュリーマンだ」と公言するほどの考古学マニア、仕事の合間にこつこつ考古学を勉強し、そして商用に出かけるたびに、その地方の遺跡を丹念に見てまわっていた。

エクアドルの人里離れた淋しい海岸にやってきたのも、そう言う機会を使ってのことだったが、「この辺に古い遺跡が出るところはないかね・・・」と土地の者に訪ねるも、皆顔を横にふるだけだったが、そうだこうした場合は・・・すかさず金を握らせたエストラーダ、すると「そう大した物は出ないよ、だけどこんな土器のかけらなら、たくさんある」と言ってその土器の出る場所へ案内された。

そこは荒れた畑の端だったが、ちょっと見ただけでもたくさんの土器のかけらが散らばっていて、古代の遺跡らしかった・・・、エストラーダは足元の土器のかけらを拾い上げ、そしてクビをひねった・・・。
「はて、見たこともない模様の土器だ、ひょっとしたらこの遺跡はまだ学会には知られていないのかも知れない、これは大変な物を発見したかも・・・」と思い、帰って考古学の図鑑や論文を読みあさったが、それらしいものはどこにも掲載されておらず、似たものすら見つからなかった。

こうしてエストラーダはエバンズ教授に面会を求めたのだったが、持参した土器のかけらを見たとたん、エバンズ教授の目は輝いた・・・、「これは珍しい土器だ、つい最近他でも発見され、マヤやインカの古代文明を探る重要な手がかりになるかも知れないといわれている、どこで見つけたのですか」・・・と言うことになり、その場でエバンズ教授との共同研究機関設立の約束ができた。

翌年1954年、エクアドルにやってきたエバンズ教授の指導のもと、海岸の遺跡発掘が始まったが、余り大した成果は上がらず、教授は滞在許可が切れてきれてしまい、帰国してしまった・・・、エストラーダは一人で発掘を進めなければならなくなったが、1956年の夏、海岸沿いのパルディビアの村の近く、エストラーダはかなり大きな遺跡を発見した。

こんもりした丘の上、土器のかけらがたくさん散らばっていた、「おお・・・この土器のかけらは・・・前に発見したものと良く似ているぞ」エストラーダは我を忘れてその発掘に精を出した。
成果はすぐに上がった・・・僅か数十センチ表土をどけると、またも見慣れない土器のかけらが現れ、かけらの面に斜め平行な線が刻まれ、互い違いに重なった模様を成している・・・、そのかけらを拾い集め繋ぎ合わせてみると、縁が波状になっている奇妙な土器になった。
「こんな形の縁を持つ土器はまだ発見されたことがない、今度こそ大発見だ」エストラーダはダンスを踊り、エバンズ教授に電報を打った・・・、ふたたびエクアドルにやってきたエバンズ教授は相当喜んでくれるはずだったが、その顔はなぜか厳しい表情で「あなたは、もしかしたら私をバカにしているのかね」・・・とエストラーダに不快感もあらわに問いかけた。

「これは、古代日本に特有の縄文式土器にそっくりだ、斜めの線模様、波状縁、底すぼまりの形、全て縄文式土器の特徴と一致している、一体どこから発掘したのですか」
エバンズ教授は実際自分の手で発掘してみるまで、とても信じられない気持ちだった・・・が、しかし発掘の結果は更に訳の分からないものとなった。
アジア型住居の埴輪、インドで発見されるような土製のおもり、ビルマで出土する左右対称形の笛、台湾などに見られるイカダ、日本の縄文時代に見られる耳栓などが、ぞくぞく発見され、そのどれもが南方海岸から運ばれたものらしかった。

「これは・・・一体この遺跡はいつごろのものなのだろう」・・・と言うことになり、この土器と一緒に発見された貝殻で、炭素14を使った年代測定が行われた・・・、放射性炭素14は他の炭素成分と一定の割合で混じり、そして一定の割合で減っていくことから、貝殻に含まれる放射性炭素14の残量を測定することで、おおよそのものが何年経過したかが分かるのだが、結果は・・・信じられないものだった。

何と約4500年前のものと測定されたのである。
以後エストラーダは発掘に夢中になり、論文をまとめ考古学専門誌に次々と成果を発表したが、そうした発掘と仕事の両立の中で無理がたたり、1961年、45歳の若さで死んでしまった。
こうしたエストラーダをおもんばかってか、エバンズ教授は、エストラーダの論文をアメリカの科学専門誌「サイエンス」に投稿、これが発表されると、ニューズ・ウィークやワシントンポストといった、大御所新聞社までが取り上げ、世界的な特ダネとなったが、当時日本の東京大学文化人類学教室では、この発見を認めなかった。

それにしても、4500年前に日本やアジアのこうした土器が何故エクアドルへ運ばれたのか、さっぱり見当がつかない。
もしかしたら現代より4500年前のほうが海上交通が発達し、頻繁に貿易などが行われていたと言うことか・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 13000年続いた縄文時代には、国内でも、産地がほぼ確定している土器が、数百キロ離れた地で、何カ所も発見されていて、それなりの交流が有ったようだし、実用的使用のためではなく、芸術的自慢のために以て移動した連中も居たように思います~~♪

    縄文時代は、機構も比較的良かった様だし、縄文人は性格が温厚で有ったらしいが、半島からや南方の島伝いに移り住んできた、民族と競争関係に成り、移動した連中の大集団が、流石に、船で海流~季節風で渡ったとも思えませんが、技術を持って、数世代に渡って、ユーラシアから、ベーリング海、繫がっていたかも知れないが、渡って、エクアドルまで、行って、そこに縄文人の一大居住地域を作ったのかも~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      私は生物の進化は実はかなり早いように思えるのですが、その意味では今から4億年前、1億年前くらいには既に地球生物は文明を築き、滅んで再生して今日に至っている可能性も有るかも知れません。
      ウィルスなどの構造を見ていると、とても先鋭的で恐ろしく合理的です。しかもかれらは生物から選択して「準生物」になっている。高度な文明を築きながら、生物の虚しさに直面した高等生命体は、自身の選択に拠って細分化し、生物である事を拒否したのではないか、そんな事を思ってしまう訳です。

      それにしても暑いですね・・・。
      今日の昼は冷やっこをくずしてご飯に乗せ、醤油をかけて、トマトをウスターソースで頂く、などやって元気を付けたいものと思います。

      コメント、有り難うございました。

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