「ベツレヘムの星」

クリスマスツリーの頂点に大きな星が飾られるが、この星は名前がある。
「ベツレヘムの星」といい、キリストが生まれることを知らされた学者達が集まった場所、まだキリストが生まれた場所である。
奇跡の星がキリストの生誕と共に現れ、ナザレから160キロもロバに揺られてベツレヘムに着いた聖母マリアは、たまたま泊まろうとした宿が満室、仕方なく馬小屋(正確には家畜小屋だが)に泊まっていたが、この星の出現と共にメシア(キリスト)を産むのである。
ツリーの頂点に飾られる星はこのベツレヘムの奇跡の星を意味している。

またクリスマスはキリストの生誕を祝う日だが、新旧どちらの聖書にも、その元になった死海写本にも、キリストの誕生日は具体的に記されていないが、4世紀に西方教会でキリストの誕生日は12月25日と初めて決められたようであり、東方では1月6日となっている。
さらに本来なら西暦はキリストの生まれた年を0年としていなければならないのだが、
キリストは紀元前4年に生まれたことになっている。
これに付いてはそれまでローマ帝国の暦がローマ市創建を起算日としていたものを、キリスト教をローマ帝国の世界宗教としたとき、皇帝の命によってローマ暦からキリスト暦に置き換えたのだが、そもそもローマ市創建日が間違っていたことから、キリストの生誕年が紀元前になってしまったのである。

イエスは幼年期、大変貧しい暮らしにあり、7人兄弟の長男として家族の生活を支えていたようであり、1部外典の福音書ではイエス幼年期の奇跡談が載せられているものもあるが、これらの信憑性は極めて低い。

イエス幼年期の記述は聖書では少なく、特に12歳から30歳までは空白になっているが、マリアはイエスに彼の父がヨセフである事は告げていたが、神の子とは告げていなかった。
マリアは受胎告知を受けていたから、本来イエスにこのことを話すべきだったが、これを幼年期のイエスが逆にマリアに指摘する場面がある。

イエスは「自分の父の仕事に携わる」とマリアに告げ、マリアはこれに動揺するのだが、この記述ではイエスはヨセフの仕事を継ぐのか、神の仕事を継ぐのかは分からないはずだが、これを記述したルカは後者であると判断して、マリアが動揺する場面を書いている。
しかし、マリアはどちらか分からなかったのではないだろうか、ただ未だに告げていない真実の、その影に動揺したと言うのが正しいように思う。

またイエスは聖母マリアに対しては極めて醒めたもの言いをしている。
即ち、母を器に過ぎないと言うようなことまで言っているのだが、片方で罪深い女、後にカタリ派がキリストとこの女の子どもがいるとした、マグダラのマリアには極めて寛容かつ、大きな役割を与えるのだ。
そして・・・・ああそうだった、クリスマス・イヴだった、今日はこの辺でやめておこう、そしてキリストの生誕を祝おう。

明日はクリスマス、この日ばかりは地上に争いがありませんように・・・

皆が幸せでありますように、そしてこの世が優しさで満ち溢れますように、

誰も人を憎まずにすみますように・・・・、Alleluia,Alleluja.

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. 「ベツレヘムの星」

    昔、ベツレヘムに行ったことが有る、一時間ぐらいの滞在だったが、立体迷路のような住宅街に案内された、2千年以前から、人が住んで居るという事で、それだけでも、感慨が深いものが有ったが、聖母マリヤが生まれたとされる土地とはいえ、そっちの方は、特に感慨無し(笑い)
    聖書に書かれているらしい色々な事は、後で辻褄合わせの話もあるだろうけれど、未婚の母、って言っても、処女懐胎と言われてもなぁ、今でも「正式な」婚姻に無頓着な国は多い、特に「婚姻」が法的保護対象じゃない地域では、必要としても居ない事が多いようだ。

    異教の行事にかこつけて、酒を飲んだりうっぷんを晴らしたりするのには、良しなにどうぞだけれど、思想が有って発生した物の外形だけを取り入れても、なんかちょっと悲しい。多分最初、さらなる集客の一環で遣った、渋谷のハロウィーンで暴れて偶々あった軽自動車をひっくり返して、盛り上がって、器物損壊で逮捕、ってバカ丸出しだが、別の状況では自分もそんな気がする(笑い)、今更、言い出しっぺが、責任転嫁しているのは見苦しい(笑い)。

    色んな宗教の行事や文化を学んで、みんなで世界平和を祈るのは賛成だ~実は、偶に行く神社や仏閣で、心の安定の為に世俗の希望を些少な喜捨で願う事もあるが、永久に達成する様子が無い、「世界平和」とせめて「世界中の子供たちが、それなりの食事ができます様に」は忘れないようにしているが・・・実はそれより、「現金」の方が良いのも承知しているので、出来ることをと言う意味で・・でも、免罪符のようでもあって、忸怩たるものが有って、悩みは尽きない(笑い)~~♪

    今日も当地は「晴天」の様です~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      こうして見ると、クリスマスも私が子供の頃は今よりは派手ではなかったものの、そこに見える精神性とか影響力は大きかったような気がします。
      またバブル経済時期を最盛期とするなら、既にクリスマスも衰退して来ているような気もしてきますが、これは日本人の民族性でしょうかね・・・。
      結局のところ島国で動きの少ない封建意識が根強く残った地域では、何でも良い集まって騒ぐことが嬉しい、と言う風潮があったのかも知れません。
      この観点で言うなら日本のそれは宗教と言うよりもイベントだったと言う事なのでしょう。
      そしてこれは古来から続く祭りも同じ事で、その時代ごとに求められるイベントが、祭りから欧米の宗教記念日に推移して来た時代が戦後の日本であり、これから先はそれすらも変化して違う形が求められていくのかも知れません。
      既に昔ほどはクリスマスに関する関心は薄れてきているように思われますし、鳴り物入りで出てきた「ハロウィン」なども、どう考えても農耕民族にはなじまないものでしたが、やはり衰退が始まっていると思います。
      原因の一番大きなものは、やはり高齢化社会と言う事になるだろうと思いますが、それを考えるなら、クリスマスに限らずあらゆるものが衰退していく事になるのでしょうね・・・。

      コメント、有り難うございました。

  2. 「報道のディテール」

    余りはっきりした記憶ではないが、1991年の多国籍軍が、実は直訳は同盟軍だった気もするが、クウェートに侵攻して、イラク軍を追い出した前年に、サウジのプロジェクトが一段落して、砂嵐の季節が終わると同時に、作戦開始、だった様に思う。リヤドに米空軍が、沢山居た。
    国際連合と言うけれど、直訳は連合国、どちらもまやかしであるが、翻訳したのは誰かは不明だが、通常、反政府的=反日的言辞を弄する報道系の人々は英語位得意そうなのに、些末な事は声高に叫ぶが、本来的な名称については、無頓着と言うのは、解せない。

    「自由への逃避」も有って沢田教一の事はそれなりに評価している。後にプノンペンで亡くなったのはお気の毒で有ったが、色々不自然な状況も有ったようだし、戦場の銃弾が中ったというより、何かの陰謀でやられてのじゃなきかと思った事もあった。

    生死の境に在る人々の窮状を世界に知らしめて、救済の契機の一端とすることは崇高な事だと認めつつも、中にはそんな事はそっちのけで、当人の名声の為の人も多いやに思う、地道に孤児を救済している写真にも目を向けた方が良いような、気がする時も有る。
    又、写真の被写体が、自分の子供でも、身を挺しないでカメラを使う人も居そうな幻想に囚われそうな時も有る、芥川の地獄変。
    フライデーは玉石混交で、仕方ない面も有るだろうが、内容も読者も被写体も著しく変容した~平和に成ったのなら良いけれど、無能に成って居なければいいけれど(笑い)

    7~8年前、パキスタンの昔のNWFP州の或る街で、突然銃撃戦が有って、近所のオジサンが、ツイッターか何かで、実況擬きをして、後でわかったのだが、日本のシールズと名前が似ている(笑い)アメリカのシールズの発展部隊が、ISの黒幕、ウサーマ(日本じゃビン・ラディン)が、暗殺されていた、と言うのは結構衝撃的だった。それで今は、そのウサーマ・ビン・ラディンの故国ともいうべきイエーメンが、内乱状態で、それを陰で強く関与しているのが、生まれ故郷の、財を築いたサウジと言うのは、世の不思議な巡り合わせを感じる。

    現象の報道は迅速正確に成ったが、背景・経緯、全体における状況は不問が多くて、取材者の無知・偏向が多すぎる気もしている、もしかしたら、それは受け手の責任かも知れないが、最終的に知らせる任にある人が、そうかも知れない~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      実はテレビの時代はもう20年前に終わりが見えていたと思いますし、新聞なども同様にスピードと、失敗して非難を浴びない事だけを考えていれば、いつか破綻は見えていたと思います。
      そしてこれだけ自由に一般大衆がものを言える時代、もはや新聞の役割は記録と、解析にポイントが移っているように思いますが、こうした意味でも新聞の記事は恐ろしいくらいに浅い。月々3000円では有りますが、金の無駄、紙資源の無駄となっているように思います。
      全くちゃらい話ばかり、適当に大衆が喜びそうな話を書いて記事とは笑わせてくれますが、物事の本質は一様では無く、多面的なものです。あらゆる方向から光を当てて、それを大衆に知らしめ、大衆が出来るだけ多くの判断材料を得る、つまり公の利を考えるなら、今のテレビ、新聞は一度潰れる必要が有り、先般日本漆が品薄でそれに対する頑張りの話も、基本的には安い中国産ですら消費が減って、売り上げ保証のために値上がりしている現実を考えるなら、漆など品薄になっているのではなく、需要が既に無い事を忘れているだろうと思います。そして行き先の無い補助金がここに向かい、こちらも大した話題ない報道が、後先も考えずに縋って行って話しが大きくなっただけだろうと思います。
      本当に需要が有る物はどんな手が使われてもそれは生産される。しかし需要の無いものの材料は衰退する。
      こんな簡単な事も解らずに話しに乗っていく社会こそが、更に闇を深くする。
      日本産漆の生産が減っているのは、それが必要とされないからで、中国産漆の5倍もするような価格は需要に供給が追いついていないからではなく、必要以上に意識の高い生産者の姿勢こそが問題だろうと思います。
      実態にそぐわないプロパガンダはその後、更に深い穴になって可能性が高い、おそらく数年後この話は、皆が忘れているだろうと思います。

      コメント、有り難うございました。

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