「舞いは見事でした」前編

足利尊氏が北条家との和睦の条件として、赤橋家から正室を迎えることが決まる2ヶ月前、屋敷近くの村に白拍子(しらびょうし・踊りを舞う女性)の一行が来ていることを知った尊氏は、その一行を呼んで舞を楽しんだ。

折りしも少し欠け始めたとは言え、煌々と照らされる月と、かがり火の炎に舞う娘のその横顔と、しなやかな肢体は尊氏をして目を瞠らせ、そしてこうした時代のこと、白拍子は有名な貴族御家人ともなれば、その夜の相手もすることになっていたことから、客たちが帰ってからも酒を酌み、舞を舞わせていた尊氏は、その白拍子の1人に勺をさせて夜を共にする。
このとき「舞」が終わって一礼する年若き白拍子に尊氏が発した言葉が「舞は見事でした・・・」であり、多分尊氏の顔は少し赤く染まっていたようにも思うが、それは酒のせいばかりではなかったのではないか・・・。

この白拍子の素性は分かっていないが、越中出身で当時14歳か15歳だったと思われているが、後に尊氏の子どもを産み、その子どもが九州から反乱を起こす足利直冬とされている。
また足利尊氏に呼応して付き従った、京極家の佐々木道誉(ささき・どうよ)、彼もまた尊氏亡きあと、三代将軍足利義満の覚えめでたき斯波(しば)氏が主催した花見の宴をボイコットし、京都の大原野で自分主催の大宴会を開き、このとき宴を飾ったのも白拍子だが、そこはさすがに婆沙羅大名の面目躍如と言うべきか、素肌に薄絹をまとっただけの白拍子を20人近く集めて舞わせ、これには斯波氏の宴から抜け出し駆けつけた者が続出したらしい。

白拍子(しらびょうし)、実はこれが日本の大衆芸能の祖になっているものなのだが、平安中期の終わりごろから始まった踊りは鳥帽子をかぶり、基本的には白装束で短刀をさし、当代流行の歌などにあわせて踊るのがその始まりだったが、同じ「しらびょうし」と発音しながら「素拍子」と呼ばれるものがあり、こちらは笛や太鼓などの伴奏がない、または1人で踊っている場合をさすものとされている。

また初期の白拍子は男や女が農作業の合間に踊ったのが始まりだろうが、実はここに白拍子の深いところがあり、その始まりは神事に深く関与していた様子が伺え、日本神話でも神が女装して云々・・・と言う記述があることから、もともとは巫女の踊りからそれが始まっていると思ったほうがいいだろう。
地方の神社に伝承される言い伝えでは、その昔「鬼」を退治するときに、女の神様が装束を着けて踊り、鬼をおびき寄せて退治する話も残っている。

そしてこうした白拍子、次第にその見た目の華やかさや美しさと言う理由もあったのだろうが、次第に男の白拍子はなくなり、女や子どもが主流になってくるあたりから怪しくなってくるのだが、これが平安時代後期ごろからであり、この頃になると貴族などは自邸に白拍子を呼んで、みなで集まりそれを鑑賞するようになったが、それと同時にこうした白拍子が夜の相手をすることも出てくるのである。
平清盛などはこうした白拍子に屋敷を与えたり、金銭を与えて愛人にしているが、白拍子はこうした例からも分かるように、その身分こそは低いが、実は当代切っての権力者や有力者、知識人との付き合いが多いことから、その学識や所作の高尚な知識を持ったものが多く、時の権力に近いところにいる存在でもあった。

これが平安末期から鎌倉時代にかけて、チャンスを求める貧しい家の出身婦女子が、白拍子化していく過程で、いかがわしいサービスをして行ったり、また敵の情勢を探る役割をして行ったりと、さらにその存在が怪しいものとなっていくのだが、ここで1つ考えておかねばならないことは、その昔、巫女の神事のルーツにも多分にこうした「怪しい部分」が含まれていたことである。

天岩戸(あまのいわと)の前で踊り、神々を大笑いさせた「あまのうずめのみこと」と言う女神は巫女をつとめる女神だったが、この女神の踊りは殆ど裸踊りだったようであるし、天から降臨する神の前には必ずこうした巫女神が存在し、万一途中で不審なものに出会ったときには「下半身を露出してそれに警戒する」とあり、どうやら神代の時代には女神が下半身を露出することは、警戒の現われだったような記述が見える。
そしてこの「あまのうずめのみこと」の子孫が猿女(さるめ)氏であり、古代王朝の宮廷舞楽を司った経緯があり、こうした流れを見る限り、女性が裸体で踊ることが現代ほどはいかがわしい行為にはならず、むしろ古代にはそれが崇高なものに近い意識で、捉えられていた可能性もあるのだ。

だから少し説明としては苦しいが、この流れを汲む平安末期から鎌倉時代にかけての白拍子たちのこうしたいかがわしさも、偶然ではあるが、あながち「当たらずとも遠からず」の部分があったと言えるのではないだろうか・・・。

そしてやはりこうした時期、白拍子たちから発展してきた田楽や猿楽も全盛期を迎えるが、田楽はそのルーツが平安時代の田植えのときなどに行われた神事に端を発していると見られ、すでに平安時代から広まりつつあったのだが、鎌倉末期から南北朝時代にかけての流行は目を瞠るものがあり、二条河原の落書きにも鎌倉幕府滅亡の一因が、時の執権北条高時が田楽興行に熱を上げすぎたからだ・・・としているものがあることから相当盛んだったのだろう。

当時の田楽は美麗な飾りをつけた田楽法師が、囃子や歌謡に合わせて舞うものであったらしく、人々の人気を集めた様子が伺えるが、寺社の再興や修理名目に興行された勧進田楽が、都市、農村で盛んに行われたことが記録されていて、ちなみに鎌倉末期まで来ると、ここに出てくる田楽法師なる者も、おそらくは男装の女だったものと思われる。

1349年(貞和5年)、京都の四条大橋をかける費用を集めるために、鴨川の河原に2百間(約360メートル)にわたる桟敷(さじき・舞台見物席)を設け、勧進田楽が興行されたが、大変な人気で上は関白、将軍から下は下賎な者たちに至るまで大群衆が押しかけ、ついには桟敷が崩れ落ちて大混乱になった・・・と言う記録も残されている。
(後編へ続く)

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 「舞は見事でした」前編

    尊氏は、物の本によれば、双極性障害で躁状態が多かったやに見えるが、偶に鬱状態で、弱音を吐いたりして、そばにしっかりした、補佐の人が居れば、抜群の力を発揮したのだろうと思える。
    祖父が何気なく言った言葉ではあったが、建武の中興は、戦前までの教育では、今よりずっと高く評価教育されていた風に思える。真実は知らないけれど、歴代の天皇御陵は南面しているが、後醍醐天皇陵だけは北面して、尊氏の方を睨んで居るらしい、愛嬌ものだったか(笑い)

    小泉八雲にも白拍子の話が有って記憶によれば、もう晩年だったように思えるが、山深き家に一夜の宿を求めて、そこで往年の事を思いながら、舞ったとすれば、滅びるもののかつての栄華の一閃、なんと美しい~~♪
    最近汚い物・者が増えた、汚いとも思っていない風だけれど。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      私は足利尊氏の無常観と言いますか、そんな部分が好きです。
      戦、戦に明け暮れながら、それでも酒や女を楽しむ事も忘れない。
      これは政治の世界に在りながらも、庶民の暮らしも忘れない感じに見える気がするからですが、太平記は源氏物語よりは読み易いと言う事もあったかも知れません。

      コメント、有り難うございました。

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