「地下足袋」・1

「正二郎や、済まんがお前が私の家業を継いで、この店をやって行ってくれんか・・・」
明治39年、当初進学を夢見ていた正二郎は、長男が出征してしまったことから、病気の父の、この言葉に従い家業の仕立物屋を引き継いだ。
石橋正二郎、17歳のことだったが、ブリジストンタイヤの歴史はここから始まった。
ちなみにブリジストンの名称だが、創業者の石橋、つまり「石」と「橋」、これを英語に訳して名づけたことにその由来がある。

家業を継いだ正二郎、まず一番最初にやったことは、翌年明治40年のことだが、仕立物屋と言う大変間口の広い商売のあり方を改め、「足袋専業」とし、その際当時丁稚(でっち)は無給と言う徒弟制度を廃止し、これを賃金制度に改めたのである。
シャツや下着、それに足袋などを注文に応じて作る形態が仕立物屋だが、正二郎はこうした商売の形態は非効率的だとして、これを当時一番需要の多かった「足袋」(たび)に特化することで、需要に見合った生産を効率的に行える体勢を整えたのである。

18歳の小僧が考えるにしては大したものだった、が、石橋の凄さはその次、修行中は飯は食わせるが、金は払わないことが通例になっていた徒弟制度の廃止である。
当時無給で使っているだけでも飯を食わせたり、風呂賃を出していたのでは割りに合わなかった丁稚に給料を支払うなど、考えられないことだった。
「石橋んとこの正二郎はきっと店を潰すぞ」、そうした声が久留米の街中で囁かれた。
しかし正二郎の本当の才能はここにある。それは「人の心」が投資に資することを見抜いている点だ。
それまで金を払わなかった者に金を払うことが、採算性を否定することにはならないと読んでいたのである。

表面的収益性の自己否定、並みの商人では絶対できない、いや、やれないこうしたことを若き正二郎は断行して行った。
その結果どうなったかと言うと、それまで頑張っても金を貰えなかった丁稚たちは、もともと口減らしで実家から丁稚に出されていることもあって、正直頑張ろうよりも「何とか早く修行期間を終えて」に主眼があったが、給料が貰えるとなれば一生懸命働くようになって行った。
そして正二郎の事業が次々その時代をリードし、巨大産業として発展していくその根本には、こうした表面的収益性の自己否定の精神が宿っている。

また正二郎はもともと商人と言うよりは開発者の素養が大きかったのかも知れない、彼のやり方は売り上げの1割を適正な利益とし、それが確保されれば価格を下げ、良い品をより安くの方針を貫く。
こうしたところから見える正二郎の横顔には儲かればどこまででも、と言った金のための在り様ではなく、こんな言葉は気恥ずかしいが、「世のため、人のため」と言った、今の社会では神話になってしまった精神などが垣間見えるのである。

そして時代は大正に入って、25歳になった正二郎は、それまで文数、つまり足の大きさによって価格が違っていた足袋の価格に「均一価格制度」を採用していくが、ここに至って正二郎は「屋」と言う店舗から、規格品を揃える「工業」として家業を発展させて行ったのであり、この思想は日本の産業革命とも呼べるものであり、この成功により当時の金額で100万円と言う大金を利益計上していく。

また「志まや足袋本舗」と言う名称も「日本足袋株式会社」に変更、おりから始まった第一次世界大戦の特需により、大正7年には何と会社の足袋販売高は300万足と言う途方も無いものになって行った。
しかし第一次世界大戦が終わった日本経済は急激に冷え込み、おりから起こってくるパニックによって経済は混乱し、そのため正二郎の会社も取引先の多くが破綻、売掛金倒れのため、創業以来初めて15万円の欠損金をだし、それだけならまだしも100万足の在庫が行き場を失ったのである。

石橋正二郎31歳、ここが正念場である。
1000人を超える従業員、そして100万足の在庫、ここで並みの、例えば現代の経団連会長ぐらいが考えることなら、人員整理に経費節減、それに価格を下げての商品の販売ぐらいだろうか・・・、だが正二郎のそれは一味違ったものだった。
彼の目は一般大衆の足元に向けられていた。
すなわちこの時代、まだ一般大衆の勤労者の履物は江戸の昔から変わらぬ草鞋(わらじ)であり、その生産の多くは農村での夜なべ仕事・・・、と言う形でしか生産されていなかった。

また草鞋は耐久性が低く、これを履いて働いているとすれば、1日で1足は使い果たしてしまうが、買うとなると1足4銭から5銭はして、その上に足袋を履くとなると、1日少なくとも6銭から10銭は飛んでいく勘定になる。
この頃の日本の日雇い賃金が一日80銭から1円、そうした勘定からすれば例えば日給1万円なら、最低600円は履物で費やされ、それが毎日の状況である。
どうだろうかデフレの今の時代に換算してみれば、そんなことはあり得ない状況だったのである。

正二郎はこの庶民の大変な事情を緩和し、そして自身の会社が発展する道を考えた。そして出された結果が「地下足袋」だった。
当時「地下足袋」(じかたび)に近いものは阪神や岡山で明治34年ごろから作られてはいたが、とても高価な上にゴム底を糸で縫いつける方式だったことから、ゴムが磨耗すると糸が切れ底が外れ、その上に縫ってあることから耐水性は極めて低く、余り実用的ではなかった。

そこで正二郎が考えた地下足袋は、ゴム底を縫いつけない、いわゆるゴム糊で靴底を接着すると言う方法だったが、この開発は1919年ごろから始まり、1923年1月1日に販売が開始されたことからも分かるように、実に4年の歳月を要して完成されたものだった。
この年、正二郎の「アサヒ地下足袋」は人々から好評を博し、150万足も売れたのである。
「地下足袋」・2に続く

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 「地下足袋」・1

    ブリジストンにしろ、日立にしろ、大発展した理由は、時流に乗った、という事ではなく、その従業員に対する配慮と社会貢献の姿勢、だったという事を再評価すべきであろうと思う。

    アメリカのハーシー社の創業者、ミルトン・ハーシーの祖先はスイス人で、チョコレートで大成功をおさめたが、ミルクの製造のための酪農家を育て、自社工場労働者の為に教育施設を整えて、『ハーシータウン』を作った。今でもテーマパークとして、人気を集めている。残念ながら、過去産地までは、彼の手には負えない。

    不況とかで、首切りがしやすい状況を官民揃って作っているが、全く方向は逆で有ろう、パート従業員が常態と言うスーパー業界で、出来る限り正社員にした会社が、今、業績向上しているらしい。今流行りの立志伝中の人物~会社も、景気の良いうちに、何かに気づいた方が良いだろう~~♪

    とはいうものの、金に目が眩んでいる俗物も嫌いではないが、見てくれの最大効率が、全体の発展を阻害すれば、自己の存続も覚束ないかも~~♪
    この一族からルーピー○○が出たのはご愛敬かも・・その代わり、逆だって起きる時が有る~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      石橋氏の凄いところは現在の何がまずくて、何をすれば良いかが見えていた点にあるでしょうし、そのスケールがとても孫子的です。
      自分や会社と言うスケールではなく、社会が必要なもの、民衆が必要するものと言った、ある種空間的制約を越えたスケールで物事を考えている点にあるかと思います。
      ですから終身雇用制だから是としているわけではなく、社員の福利厚生が主眼にあるのではなく、その時社会が何を必要としているかと言う問題だっただろうと思います。
      私などは終身雇用制はしつこいと思っている部分が有り、現代は現代で良い部分も有ります。
      また極端に社員の方に偏重すれば社会主義や共産主義になって行きます。
      経営者の考え方も時代と共に変わって行きますが、それと同じように社員である民衆の考え方も変化して行きます。
      これが重要なポイントと言えるかも知れません。

      コメント、有り難うございました。

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