「平安寿司」

平安の時代、右大臣、藤原帥輔(ふじわら・もろすけ)と言う人物を記述した「九条殿遺誡」(きゅうじょうどの・ゆいかい)によれば、この時代の食事は朝夕の1日2食だったことが伺える。
しかもその2食、朝と言っても「午の刻」(うまのこく)だから、殆ど正午のことであり、今で言うなら遅く起きた日曜日、朝昼兼用の食事となってしまった風情であり、これに比して夕飯は「申の刻」(さるのこく)だから、何とこの朝飯と夕飯の間隔はたった4時間程しかない。

そしてこの藤原帥輔、天皇に娘を嫁がせている、いわば天皇に次ぐ権力者なのだが、まことにケチくさいことを言っていて、「たくさん食べてはならない」「時間が来ないのに食べてはならない」と、その量や早弁までも細かく注意しているのである。
この時代は優雅に見えるかもしれないが、実はこうして藤原帥輔を見るまでもなく、万事一切がしきたり、儀式至上主義とも言うべき社会で、朝廷での仕事も政治よりは儀式の方に重点が置かれ、その際は一挙手一投足、箸の上げ下ろしに至るまで作法がやかましかった。

また貴族の家には大抵「庖丁」(ほうちょう)と呼ばれる専属料理人がいて、この庖丁が料理したものは魚の他、肉ではキジやカモなどがあったが、牛や馬は人目のあるところでは食べなかった・・・、と言うことは隠れては食べられていたと言うことになろうか。
現代は食事の支度をする場所を「台所」と呼んでいるが、この時代「ダイ」と言う発音は食事のことを指していて、一般的には食事のことを「御台」(みだい)と呼んでいたようだ。

ご飯には大まかに4つの区分があった。
つまり平安時代には食事の時に食べるご飯は4種類あったと言う事で、その一つが「こわいい」と言い、コメをむしきで蒸したものだが、これに小豆をを入れれば「赤飯」となる。
これに対してコメをやわらかく炊いたもの、こちらは「ひめいい」と言い、これが現在私たちが主食としているご飯とほぼ同じものとなるが、「ひめいい」或いはこれを干した物を冷水につけ、柔らかくして食べる事を「水飯」(すいはん)と言い、干したご飯、つまり「干しいい」に湯をかけて食べることを「湯漬け」と言った、いずれもこの時代の物語には、たまに登場してくるオーソドックスなものである。

「こわいい」を握って固めた「屯食」(とんじき)、こちらは吉凶どちらの行事でもそうだが、行事の際に召使に食べさせた、いわゆる魔封じの要素があり、またこの「こわいい」は旅の携行食としても用いられたが、その際は干したものが用いられ、この場合も「干しいい」または「かれいい」と呼ばれた。

また餅もこの時代から既に存在していて、この場合はもち米と麦粉を混ぜ合わせたものが使われていたが、祝賀の儀式に使われたことは現代と何等変わるものではなかった。
正月の鏡餅、雑煮の餅、3月3日の草餅、5月5日の「ちまき」、10月亥の日(いのひ)の「亥の子餅」などが存在していたが、ちなみにこの時代には正月15日に七種粥(ななくさかゆ)の習慣が存在していたが、これも七種とは「七草」ではなく、七つの種類のことを指していて、餅の粥に「ササギ」、や「ゴマ」など七種類の穀類や「豆類」を入れたものを指していたのである。

そして「惣菜」だが、魚の身や野菜には「なます」と言って、今で言うところの和え物、この場合は塩の和え物だが、そうした食べ方と、「あつもの」、煮物、煎りもの、あげもの、蒸し物、茹でものなど、現在存在している調理法は全て存在していたし、新鮮なものは少なかったが、それでもたまに新鮮な魚介類が手に入ると、それは刺身に近い食べられ方までしていたのである。
ただ、この時代の調味料は厳しいものがあり、塩と味噌はあったのだが、甘味料は「アマズラ」(植物から取れる甘み)やハチミツしかなく、その味は如何なものだったかは推して知るべしのものが有ったことだろう。

また平安時代に人気の食べ物と言えば、意外かも知れないが、寿司がある。
だがこの寿司、今の寿司とは少し様子が違うものの、原理的には確かに寿司で、その作り方はこうだ。
まず魚を塩でまぶして一晩石の錘を置いて押さえておく、それから水分をぬぐって冷たくなった飯とともに桶に入れて、蓋をしてからその上にまた石の錘を置き、そのまま何日か置いておく。
するとどうなるかと言えば、若干酸味が出てくるが、これを食べても食あたりにはならない、つまり今で言うところの「なれ寿司」になって仕上がるのである。
ちなみに酢を使った寿司はかなり新しい時代の話になる。

更に今度は菓子だが、平安時代菓子と言えば「くだもの」のことを指していたが、他に「唐菓子」と言って、餅や米、麦、豆などを加工した菓子があって、例えばそれは「ぶと」と言う油で揚げた餅、今の煎餅かも知れない、そんなものや、小麦と米の粉を練って細長くねじった餅索(さくへい)と言うものなどがそうだが、さっきも言ったとおり甘味が極めて少ない事情から、現代我々が菓子と呼ぶものと、並べて考えることは出来ないような代物だった。

雅な平安貴族、しかし衣装はともかく、こと食事事情は極めて貧相なものだった。
物語から察するに例えば中納言でも、ある日の食事は、鮎の寿司に干した瓜、それを「ひめいい」に水をぶっ掛けた、今で言うならさしずめ猫飯のような形でかきこんで、これが食事になっているし、ある貴族が狩に出かけて、結構な家柄の邸宅で食事をご馳走になっているのだが、その食事も焼き米(米を炒ったもの)に惣菜は大根にアワビ、そして鳥の乾燥肉である。
鳥や魚と言えば今ではご馳走だが、この時代の魚とはフナやコイであり、鯛などは新鮮なものを手に入れるのは至難の業で、大体が干したものだったし、鮭なども塩ザケであり、魚と呼ばれるものは大方が干物だったったのである。

さて、そして最後に酒だが、酒を温めて飲む習慣はこの頃から始まっていて、熱燗のルーツは以外に古いものだったが、それにしても酒の肴と言うことであれば、繰り返しになるが、干した魚、または干した肉、それに「くだもの」が最もリッチな酒の肴だったようだ・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 「平安寿司」

    確か「今昔物語」で、大臣級の貴族がダイエットを志して、一向に痩せないので、医者に立ち会ってもらったら:-

    夏の中食に大きな茶わんにご飯をタップリ盛って、水をかけて、アユの干物と瓜の漬物を食べながら、5~6杯も食べて、医者が裸足で逃げ出した~~♪

    今は食べなくなったが、真夏に、茄子の一夜漬けだけで、ご飯をたっぷり食べた~~♪

    この話より数百年前に、多分、大伴旅人とその歌人仲間、山上憶良他が夜、私的な歌会の後、酒食を楽しんで、最後は場が乱れて~興が乗って、卑猥な歌を大声で歌って笑ったり泣いたり、と言うのもので、素直で大らか、万葉歌人~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      平安時代はしきたりと前例の時代であり、これは取りも直さずその時代の文化は役人文化だったと言う事なのだろうと思います。
      それゆえ食べる事より装束に経費がかけられた訳で、結果として賢覧豪華、優美な平安時代が成立したように思います。
      結構な身分の人でも現在から見ればかなり貧相な食卓であり、昨今の日本の食文化の優美さに鑑みるなら、少なくとも食べ過ぎて太ってしまい、ダイエットに金をかけるなどの行為を無くするだけでも経済は随分上向くような気がするのは私だけでしょうか・・・。

      コメント、有り難うございました。

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