第一章「一人残らず特攻員となりて・・」

昭和20年(1945年)3月、硫黄島陥落、4月1にはアメリカ軍が沖縄本島に上陸し、同年6月23日には沖縄に展開されていた日本軍の地上部隊も全滅、アメリカ軍によって殺されなかった者はすべて自決によって死亡した。
このアメリカ軍の上陸作戦で死亡した日本軍の兵士数は9万人、そして沖縄の一般市民、つまり沖縄県民の死者は実に15万人に及んだが、この中には中学生によって編成された「鉄血勤皇隊」などの少年兵による戦闘隊員をはじめ、同じく女子学生によって編成された「ひめゆり部隊」などの野戦病院の看護婦達も含まれている。
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しかしこうして皇国のために文字通り全力を尽くした彼ら、彼女達は最後、「解散」の言葉と共に敵前に放り出され、皆一列に並んで「海征かば」を歌いながら、アメリカ軍による銃弾の雨の中にその身を沈めて行った。
この余りに惨い仕打ちに、私は敵であるアメリカ軍よりむしろ、日本軍に対してより多くの怒りをおぼえる。
だがこの時日本本土の「大本営」、軍令部はこれをどう見ていたか、「沖縄の戦闘はやがて本土決戦が訪れたとき、一般国民がどうなるかを知る材料になる」、そう言っていたのである。
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それゆえここに「高松宮」(たかまつのみや)の情報係をしていた「細川護貞」(ほそかわ・もりさだ)の日記が存在し、そしてそこには中部軍司令官の見解としてこのような事が記されている。
「本土は戦場となるゆえ、老幼者及び病弱者はみな殺すひつようあり。これらと日本が心中事はできぬ」・・・・。
読んでいても落涙を禁じ得ない言葉だ、大東亜戦争で追い詰められた日本軍は、ここまで腐っていたのである。
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沖縄では兵力補助のために、満17歳から45歳までの県民男子25000人が特設連隊の中に動員されたが、その内男子中等学校上級生1685人、女子中等学校上級生600人がこの中に含まれ、彼らは皆勇敢に戦い、或いは敵前で昼夜を問わず傷病兵の救護に当たった。
しかしもはやこの戦争の結果は目前に迫っており、その戦力を失いつつあった第32軍は首里の死守を諦め撤退、小祿半島で疎開させていた沖縄住民の守備も兼務していた大田実少将は6月11日、「今11日2230玉砕す。従前の厚誼を謝し、貴軍の健闘を祈る」と第32軍に打電し、最後まで敢闘するも、6月13日、拳銃で頭を撃ち自決した。
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沖縄防衛の任にある第32軍、その32軍に求められていたものは本当のところ、玉砕だっただろう。
沖縄県民と共に全員が玉砕すれば、アメリカ軍との本土決戦でもその士気は上がるに違い、などと言う本土の思惑ががそこからは透けて見えてくる。
4月26には鈴木貫太郎首相が沖縄向けの訓令で、ラジオを使ってこのように発言している。
「私共本土にある国民亦時来たらば1人残らず特攻員となり・・・・、いかなる事態に立ち至ろうとも絶対にひるむことなく、最後まで戦い抜いて戦局の勝利を得んことを固く決意している」
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つまり、ここではもはや沖縄のことは触れられていない、沖縄の人たちに向けて話しているのに、本土の事しか話していない有り様から、そこにはもはや沖縄はどうでも良い、早くみんな死んですっきりして良いぞ、と言う感じが漂っているのである。
それゆえ第32軍司令部でも大方の者が求めていたものは「死に場所」だった。
最後を飾るべく華々しい戦場があれば、そこで戦って玉砕したい、これが第32軍幹部の多数意見だった。
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しかしこれを1人で押し留めていたのが、八原博通参謀だった。
後世彼のこうしたあり様はその評価が2分されるだろうが、大東亜戦争の敗戦は目に見えている、また沖縄の陥落も時間の問題だ。
だとしたらこう言う状態で戦うとは何を意味するか、それは生き残っていることではないか、兵力を温存して敵の勝利を早めるような決戦は避けて篭城する、これしか今の32軍の戦いは残されていない。
そうした八原の思いが色濃く表れたのが、この沖縄防衛第32軍の南部での篭城作戦だった。
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八原の作戦は確かに軍事的にはクールなものだ、しかし人間は死ぬ事より生きている方が辛いときがあるものだ。
もはや負けは分っている、だとしたら敵のなかに飛び込んで、部下達の後を追ったほうがましだと思う他の幹部達には、アメリカ軍の攻撃に対して逃げるしかないと言う、およそ帝国軍人らしからぬ、まことに辛い日々が続き、またこうした32軍を信じ、それを唯一の救いとしていた沖縄県民にとってはどうだっただろうか。
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大田実少将が自決した後、そこに付き従っていた沖縄県民は、雨がしとしと降る中を隠れるところを捜し求めていた、せめて死ぬときぐらいは自分の家で死のうと思っている者もいた。
だがその多くは第32軍の後を追うように南下して行ったが、天秤棒に食料と鍋をつるし、子供を背負い、更にその空いた片手にはもう一人の子供の手を引いて歩く女性、杖にすがり動かない片足を引きずって歩く老人、戦火で親を亡くし泣き叫ぶ弟を背負って黙って歩く少女、正気を失い半ば笑っているような表情の男性、そうした人々がいつ途切れるともなく、列をなして南を目指していた。
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そしてその第32軍だが、最終段階でもまだ1万人の兵力を擁していたものの、その殆どが現地で動員された50歳前後の男達であり、妻子の安否を思う彼らの中からは脱落者が続出し、また傷病による欠落で数日を待たずしてその数は激減していたが、そんな中で奮闘していたのが、中学生によって編成されていた「鉄血勤皇隊」の少年達だったし、「ひめゆり部隊」だった。
実に沖縄戦でもし日本が誇れる戦いをした場面があるとしたら、また日本がこれこそ日本であると言えるものは何かと尋ねたら、私はこの少年少女たちの戦いをそれだと言うに違いない。
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「秋をまたで、枯れゆく島の青草は、皇国の春に 蘇らなむ」
1945年6月23日午前4時30分、沖縄防衛第32軍司令官「牛島満」が割腹自決する際に残した辞世の句である。
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アメリカ軍は沖縄戦まで来ると、火炎放射器を多用した。

そのことから一般的に日本人はみんな焼き殺されたように思うかも知れないが、実は違う。
防空壕の入り口から中に向けて火炎放射器の炎が放出されると、防空壕内部の酸素がなくなってしまい、みんな窒息死したのだ。
みんな黙って静かに倒れて行った。
また、それ以前に防空壕から出ようとした者は、自動小銃の弾丸の雨に晒され、体に数え切れないほどの弾丸を受けて死んで行った。
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それゆえ「ひめゆり部隊」の少女たちは窒息死した者が多く、「鉄血勤皇隊」の少年達は、体に数え切れないほどの銃弾を受けて、防空壕の外で死んでいたのである。

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    第二章「ポツダム宣言の拘束」へ続く
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

1件のコメント

  1. 第一章「一人残らず特攻隊員となりて」
    第二章「ポツダム宣言の拘束」

    各種検証して、将来に備えるしか無いのだろう。

    我が座右に終戦の詔勅が有るが、現代日本人は忘れたのだろうか。

    薩摩藩が、江戸時代に、川の名前は忘れたが、現地に案内版が有るが、濃尾平野の河川改修に幕府より従事させられ、悲惨な事が沢山起きたのだが、幕末に討幕の原動力ともなった。

    大東亜戦争~特に対米の太平洋戦争には、誤解も多かったし、悲惨な事件も発生したが、最も酷いのは広島長崎に投下された原爆で有り、日本は決して忘れてはならない。

    スイスは、呑気者には憧れの国だが、旅行者に取っては理解されていないようでもあるが、政府から提案で、徴兵制廃止、常備軍の創設は常に国民投票で否決されている。国民と政府は、最期は焦土作戦を実行するだろう。

    生存と繁栄には覚悟が必要だ、いざと言う時に刺し違える覚悟が無いものの発言は画餅~~♪

    ついでながら、森本某が、以前は9条を守って、黙って滅んだ民族が居た、という事で良いじゃないかと発言していたし、最近は老後は年金以外に実際「¥6000万」必要とも言われるが、トカイナカで、悠々自適も選択肢だ、とか寝言言っているが、寝言は寝ている時に言ってもらいたい(怒)

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