「まだ戦争ではない」・Ⅳ

バルチック艦隊を撃破した日本、しかしその内情はまるで敗北であり、この機を逃せば永遠に勝利は無くなる、もはや講和しか他に道は無く、しかもこうした場面を任せられるとすればたった1人しかいない。
小村寿太郎、彼以外にこの講和条約をまとめられる者など存在しようも無かった。
小村は早速アメリカにいる金子堅太郎に連絡を取り、合衆国大統領に日本とロシアに講和勧告を出してくれるよう依頼し、これによって合衆国大統領ルーズベルトは、明治38年(1905年)6月10日、日本とロシア双方に講和勧告を出す。
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この講和勧告は日本が依頼したものだが、表面上はアメリカの調停であり、ではロシアはどう言う態度に出るかと思えば、小村の予測したとおり、ロシアもこの講和勧告を受け入れる。
大帝国ロシアも相次ぐ日本との戦闘での敗北から、国民感情が帝政に対する不満となって現れていたこと、また日本から極秘に送り込まれ、ロシアの共産主義活動を支援していた明石元二郎大佐(あかし・げんじろう)の活躍もあり、ロシア国内の政情は不安定になっていた。
このことからニコライ2世は戦争に負けても外交交渉で勝利する道を選択したが、その背景には、日本がこれ以上戦争継続が困難なことを見通していたからである。
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またこのアメリカの講和勧告は、もともと日本が勝っている状態の時に、アメリカから出される事になっていたのだが、こうした準備は全て金子堅太郎が根回しして置いたものであり、日本が勝っている状態で講和に持ち込めば、ロシアのアジア進出を抑えることが出来ること、そして何より大きいのは大国の戦争調停をアメリカがすることの意義である。
いやが上にもヨーロッパ列強に対して、アメリカがその影響力を強めることが出来るわけだ。
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日本はこの戦争の講和勧告が出された翌月、混乱に乗じて樺太へ侵攻し、そして樺太を占拠してしまうが、これは後の交渉で割譲を求めるためのものであり、万一この講和条約で何にも得られないとしても、せめて樺太の割譲ぐらいの見返りが無ければ、国民を納得させる事は出来まい、そう判断した日本政府の苦肉の策だったが、こうしたことが小村全権が横浜港から出立した、1905年7月8日の前日から始まっていることを考えると、日本政府が如何にロシアに対して賠償を求めることが困難だと思っていたかがうかがい知れる。
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小村はこうして7月8日、大日本帝国全権大使としてアメリカに旅立った。
その船の出向に際し、横浜港には「小村先生、頑張れ」「先生、バンザイ」と叫ぶ民衆が溢れ、大混雑となったが、この民衆の大歓声は小村が帰ってくるときには、おそらく罵声に変わっているだろう事は、見送りに来た伊藤博文が一番承知していたのかも知れない。
「小村君、他の者はともかく、帰国したときは自分が一番先に君を出迎えるぞ」と告げる伊藤に「伊藤先生・・・、ありがとうございます」、そう言って小村は帽子を取っている。
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日本がロシアに求める戦後賠償のポイントはまず樺太の割譲、それに15億円の賠償金の支払い、そして基本的なことだが朝鮮半島における政治経済全ての優越権、また遼東半島の租借、満州からのロシアの撤退だが、このうち15億円の賠償と樺太割譲を除けば、それは日清戦争で既に名目上得られたものであり、元に戻ったと言うべき筋合いのもので、これだけでは日本国民はおそらく納得できないだろうが、既に日本の国力を知っているロシアは、もしかしたら日本の要求の全てを拒否する可能性があり、その確率は高かった。
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だがしかしこの交渉はどんな譲歩をしてもまとめないと、日本は間違いなく滅亡するしかなかった。
そしてそれは桂太郎以下、伊藤博文、山本権兵衛、山縣有朋や井上馨にしても承知していた。
だが、国民に強いてきたこれまでの犠牲を鑑みるに、もし日清戦争で名目上得られていた条件だけで交渉が妥結した場合、国民に示すべき日露戦争の結果が存在しない事になり、その不満は交渉に当たる小村一人が背負う事になる。
遠く民衆から離れたところで小村を見送っていた桂太郎は胸に手をあて、「頼むぞ小村君、君の手に日本の全てがかかっている、頼むぞ・・・」そう呟いていた。
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1905年8月9日、日本とロシアの全権委員はアメリカ、ポーツマスで講和交渉に入った。
小村の孤独で熱い闘いはこうして始まったが、実は小村は7月25日、先に陸路でニューヨークに入り、そこで金子堅太郎と合流し、アポイント無しでルーズベルトの別荘を訪ね、先に日本側の条件をルーズベルトに提示している。
樺太割譲、15億円の賠償・・・、それらの条件を見たルーズベルトは、「おおむね妥当でしょう」とだけ答えているが、この時初めてルーズベルトに会った小村は、その印象を「古タヌキ」と述べていて、これは後に身をもって小村が実感する事にもなる。
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一方ロシア全権大使は「セルゲイ・ウィッテ」がその任に当たっていたが、彼はまずアメリカへ到着すると、アメリカのユダヤ人街へと足を運び、そこで穏やかに子供たちと親睦を深め、このことはアメリカの有力紙が大きく取り上げたが、ロシアはこの時代その国内に措いてはユダヤ人を迫害していたため、アメリカに住むユダヤ人は、おしなべてロシアに批判的だった。
このことから、まずこうした批判をかわそうとしたのであるが、これが結構効を奏し、ウィッテは良い人だ、ロシアは良い国かも知れない、そんな印象を大衆に与えるには一定の効果があった。
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8月9日、講和会議1日目、ウィッテは大男で体格も良く、これに対して小村は身長が低くまた体も貧相だったが、そのときの小村をウィッテはこう記している。
「小村は堂々としたところが有り、またその眼はどこを見ているのか分らないところが有る、向こう(日本)もその存亡をかけてきてるのだ、絶対油断は出来ない」
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そしてこの日、小村はウィッテがユダヤ人街を使ってアメリカの世論を味方につけようとした、あのやり方を見ていて、ウィッテにけん制をかける。
それはこの講和会議を秘密会議としたいと言う提案だったが、この会議の模様は各地から集まった記者たちによって取材されていることから、あるいは何か捏造されたものが報道される事があるかも知れない、それを防ぐために会議は秘密にしませんかと言うものだったが、世論を使うのが上手そうなウィッテの手を封じよう、それが小村の目的だった。
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しかし小村はこれをウィッテが黙って認めるとは思っておらず、当然拒否するだろうと考えていたが、以外にもウィッテは快く承知し、こうした経緯から小村は会議初日と言うこともあって、とり合えず日本の講和条件である、12か条の要求が記された書面をウィッテに渡してこの日は散会する。
余りにあっけないウィッテの態度、小村は内心いやな予感がしたが、その予感は翌日的中する。
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                        「まだ戦争ではない・Ⅴ」に続く
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。