「こだわりは女を背負って」

むかし、二人の修行僧が旅をしていた。
彼等は一人は仏門の先輩、つまりは兄弟子で、もう一人はその後輩の弟弟子(おとうとでし)だったが、ある村に近付いたとき、先日来の長雨のせいだろうか、道に大きな水溜りができていて、衣の裾をたくし上げなければ渡れない状態になっていたので、仕方なく二人は衣をたくし上げ、帯に挟んで水溜りを渡ろうとしていたが、そこへ年の頃なら18、19歳くらいか、若い女がやってきて、水溜りの前で難儀をしているようだった。
「仏門にある者は女に手を触れてはならない」、おとうと弟子は水溜りを前に渡れず、難儀している女を無視すると、先に水溜りを渡り始める。
そして当然兄弟子も自分の後に続くものと思っていた。
だがここでおとうと弟子は信じられない光景を目にしてしまう。
「娘さん、この水溜りは難儀なことだ、良ければ私が背負って渡ってあげようか」
何と兄弟子はそう言って娘に声をかけると、頷く娘を背負って、さっさと水溜りを渡ってしまったのだった。
「有難うございます。おかげで助かりました」
「なんの、これしき、お気を付けて旅をお続けあれ」
丁寧に礼を言う娘に笑って答えた兄弟子は、その足でさっさと先を急ぐ・・・。
これに対して面白くないのはおとうと弟子だった。
そも仏門にある者が女に手を触れることすら禁じられているにも拘らず、それを背負うとは何事か、邪な行い、いやこれをして姦淫とも言うべきものだ・・・。
おとうと弟子は鬼のような形相になり、面白くなさそうに先を行く兄弟子の後に続いた。
水溜りを渡るその以前までは、あれやこれやと話をしながら歩いていたおとうと弟子、しかしやがて、全く声も出さずに不機嫌そうについてくるおとうと弟子に気づいた兄弟子は立ち止まり、「どうした具合でも悪いのか」と尋ねた。
「兄弟子は仏法の戒律を犯し、女と語り、そして女に手を触れるどころか、それを背負うた。そも煩悩の中でも最も戒められるべき姦淫の罪を犯し、そして知らん顔をしている。どうしてこのようなことが許されようか・・・」
おとうと弟子の口からは、これまで溜まっていた不満が関を切ったように飛び出してくる。
一通りおとうと弟子の話を聞いていた兄弟子、しかしおとうと弟子の話が終わると、大声で笑いはじめる。
「おまえあの水溜りからずっと女を背負うていたのか、それは随分重く疲れたことだろう」
「また私が背負うた者は難儀に遭っている人だったのだが、お前には女に見えたのだな・・・」
兄弟子は更に大きな声で笑い続ける・・・。
この話は私が書いた以前の記事でも出てきたことがあるかもしれない。
また仏教の説話としても有名なものだが、水溜りを前に難儀している女を、女と捉えれば、その者を助けることはできない。
だがそれを女と意識せず、難儀に遭っている人だと思えば助けることができる。
してみれば姦淫の罪とはその対象が女であるか否にあるのではなく、自身の内にあることをこの話は説いている。
また同時に女に捉われ、それをずっと背負ったまま、鬼の形相で歩かなければならなかったおとうと弟子、彼が捉われたものは女だけではない。
「仏法」と言うものにまで捉われ、本来であれば、仏法を修める者ならなおの事、難儀している者に手を差し伸べねばならないところを無視した。
「仏法」に捉われる余り、「仏法」を忘れてしまったのであり、結局水溜りを渡って以降、彼はずっと背中に女を背負い、水溜りの近くを彷徨っていた事と同じなのである。
そして我々一般庶民はこのおとうと弟子を笑えるかと言えば、さに非ず。
更に愚かな事をしている場合がある。
実はこの話に出てくるおとうと弟子の有り様を言葉にするなら、「こだわり」と言うのであり、仏法のみならず、古来より人の有り様として忌むべき姿とされているものだ。
然るに現代社会はどうか、「こだわりの職人」、「こだわりの一品」などまるで「こだわり」を良いことのように用いているが、「こだわり」は本来人の有り様として褒められた状態ではないどころか、およそ物作りに有っても、人の姿勢に有っても、これは具合の悪い状態を指していて、そのような者が作った品など始めから評価の対象の外にあり、また人であるならそのような者は、周囲に悪い影響を及ぼすことしかできない事を指している。
「こだわり」は漢字で書くなら「拘る」と書くが、「拘」と言う字の意味は、基本的には「何かに捉まる」、「留め置かれる」「身の自由を奪われる」の意味を持っている。
それゆえ「こだわる」と言う事は、何かに捉まった状態を指していて、狭い中を彷徨っている有り様を示している。
冒頭の仏教の逸話で言うなら、修行僧のおとうと弟子は女を背負って苦労したが、これを自慢げに「私はこだわりの○○です」と言う者は、女によって水溜りに引きずり込まれている状態に気づかないかの如くの、愚かさを持っている。
その道に精通した者、またはそれを目指す者であるなら、少なくとも自分を形容する言葉くらいは自分で調べておくのが、その道を目指す者の謙虚な有り様であり、こうしたことも知らずに、自身を「こだわりの○○」と称する、若しくは人がそれを形容することを止めない者は、その時点で本来なら全ての信用を失うべきものである。
ゆえに「こだわり」を使うなら、自身を謙遜し、小さな声で恥ずかしげに使うならまだしも、「こだわりの○○」と呼ばれて喜んでいるなら、それは馬鹿にされていることを、誇らしげに自慢している行為だと言うことを知るべきである。
人は全く「こだわり」を持たずには生きられないが、これは自慢すべきことでもなければ人に誇れることでもない。
間違いなく「恥ずべき事」なのであり、「こだわりの一品です」と言われて料理が出されたなら、「巨人の星」の「星一徹」のように料理をひっくり返し、「たわけ!」と一喝するのが、正しい日本語の理解と言えるだろう・・・。
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 星一徹が、ちゃぶ台返しをしたのは1回だけだそうです(笑い)

    娘婿が、奥さんの実家に遊びに行って、岳父が丹精して育てている盆栽を見て、
    「お義父さん、拘っていますね~~♪」
    義父が「ソンなことはない」
    娘婿「いや~~、色々拘りを感じますよ~~♪」
    義父は不機嫌を現しはしなかったが、それ以降会話は弾まなかった、と言う話をかなり昔に聞いたことがありますが・・・
    今だったら義父が「分かるかね~~♪」とか言って、会話が弾みそうです(笑い)

    日本の民主主義は、花開いて、憲法論議でも経済政策でも、野党の教条主義に与党は会話的に応えるばかりで、本質的な、国の安全、国民の安寧は、積み残して、活発な議論が延々と続きます。取り巻きの学者もマスコミも勉強不足なのか元馬○なのか、歴史的な俯瞰的な話には移行する気配すらなく、議席と視聴率のみ関心があるようで寒心(!)に堪えません(笑い)

    昔上座部の地域で、そこの人々とこちらと10人ぐらいで、それなりのやや贅沢な海鮮を食べようとしていましたが、探しきらず、地域の地味な現地料理を食べました。
    食べ終わった後、何でも食べれば、お腹が一杯になって、満足だ、ああ、美味しかった、見たいな事を言ってまして、全くその通りで、まあ、当時としては「眼から鱗が落ちました」(笑い)、モスレム地域でも、全く同じ様な経験が有り、遅れている(?)地域がよっぽど進んで居る(笑い)
    それ以降、寛容になって(?)美味しいものが増えました(笑い)

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      そうでしたね、星一徹のちゃぶ台返しはたった1回だったと言われていますが、やはりあの鮮烈さ加減でしょうか、私としては気に入らない事が有るたびにひっくり返していた印象が有ります。いや、もしかしたら憧れなのかも知れないですね(笑)
      女に水たまりに引きまれているかの如く「こだわり」を自慢げに自ら口にする、愚かと言う事すら気付かない間抜け、裏ばっかりで表がない卑しさを地で行く「おもてなし」、本来悪しき因縁に近いものを美しいものと勘違いして皆で叫ぶ「絆」、どれもこれも聞いていると気分が悪くなりますが、こうした事を言っていると時代遅れなのかも知れませんね。人間の言語は最上級以上の表現をする場合に「否定形」が出てくる事が多くなります。例えば「良い」と言う言葉は本来最上級なのですが、これを強くする為に「とても」とか「大変」と言う言葉が出てきて、これらの言葉は本来は「良い」と言う形容の相反も含む言葉です。最近テレビで「旨いにも程が有る」と言う言葉を使った料理評論家が存在し、私は彼の言葉を聞きながら、これから益々言語本来の意味が失われ、以前の言葉が軽くなって行くのだろうなと思いました。
      ちなみに、国会の議論はもはや議論ではなく学芸会のレベルと言うべきでしょう。
      園児のお遊戯の方がまだ説得力があるかも知れません。
      女に水の中の引きずりこまれた「拘りの職人」が作る料理より先に、額に汗して働き、「塩むずび」を有り難く頂ける、その事の方に私は価値を観たいと思う訳です。

      コメント、有り難うございました。

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