「空気隔離」

柿シブが漆器の下地材として登場して来るのは900年頃、実際に他の用途で使われ始めたのは600年頃と言われているが、これは日本独特の塗料であり、漆そのものには抗菌作用は無いが柿シブには抗菌作用、防カビ効果が実証されている。

元々は民間治療薬として使われ、それが布や紙の保護、例えば重要文書などが書かれた紙を保護する為などにも使われるようになった可能性が高いが、山村などでは衣服の染料として、或いは大切な器物の表面に塗って器物の腐食を抑制したりする用途が有ったとされている。

その製法はシブ柿が青い内に採取し杵などでついて潰し、樽に入れて3日ほど発酵させた後、これを絞り取って不純物を沈殿させたら上澄み液を掬い取り、1、2年醸成させれば出来上がるが、柿シブには「一番シブ」と「二番シブ」が有り、「二番シブ」とは最初に抽出した時に残った絞りかすに水を入れて再抽出されたものを言う。

基本的に古典工業資材の初期段階、その発見段階は「食」から始まり、それが工業用資材へと発展するか、「食」に適さないものが資材として発展するかの大まかな流れが存在するが、漆などもその原初は実を食べてみる事から始まったと考えられ、柿シブなどもその初期は火傷や切り傷などに塗って治療するゆえに、発展して来たものと考えられる。

漆の下地材料として用いられるようになった背景には、その生産の拡大に要因が有り、原初は1、2日の発酵液を搾り取って使っていたものが、やがては数年醸成させる技術が平安期に確立し、そこから建築材料として発展するに至って大量生産体制ができた。

この事から砥の粉などより比較的平易に柿シブが用いられる素地が出来上がり、そこから一般大衆が作る漆器に柿シブ下地が発展したものと言えるだろう。

従って柿シブ下地は上と下が有るなら下に位置づけられたが、この認識は後世の研究者達が強度だけを見て判断したものであり、正確には誤りと言える。

柿シブの漆下地としての難点は経年劣化による剥離性の高さだが、そもそも漆器表面の平面性や光沢の正確さと言う観点から、素地である木の木目を表面に影響させない事を考えるなら、漆下地の必要性の一角は素地との隔離性に有り、素地との隔離性とは剥離性の高さを意味している。

つまり漆表面の平面性や美しい光沢は素地と表面漆の隔離性によって得られ、その意味で絶対的隔離性は「空気隔離」であり、漆が素地に対して空気を挟んで浮いている状態こそ究極の下地と言えるのであり、ここで完全な空気隔離が不可能な場合、それが剥がれるか剥がれないかの限界点で剥がれずに存在している概念もまた、至上の塗りの概念と言える。

またこの「空気隔離」の概念は現在建築の思想に繁栄され、内壁と外壁の空間が持つ温度の絶縁性は近代建築の重要な思想となっているが、広義で覆うと言う意味では建築のこうした概念も、漆と素地の関係も同じである。

ここに古くは一般大衆の粗雑な漆器と判断されたものも、そこにはこれから先10年、20年の単位では時代の最先端を行く技術となり得る可能性を秘めているのである。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 伝統的技術は論理は論理は知らないけれども、結果の良い技術を知っていて継承しているように言う人が多い気がしますが、これは現代人の傲慢だと思います。特に他人に知らせる必要が無ければ、記録する理由も無いと言う事でしょう。

    技術はその人の資質や環境に大きく依存しているのは当然としても、昔無知で、寛容だった(笑い)だったから、現代文明を比較的に早急に受容発展させたのは、事実でしょうが、日本人一般に、器用だと言うのは思い込みのような気もします。パキスタン人も見ていると、とっても器用です(笑い)。
    FIFAの公式ボールの80%位は、パキスタン製ですが、工賃はとっても安く、フェアトレードだとは思えません、お偉いさんも選手もサポーターも、少し想像してくれればいい気がしています。

    パキスタンにも柿が伝わって、街に売っているのですが、昔は綺麗な渋柿が多かったです、評価も余り高くなかった(笑い)
    実生苗はほぼ100%渋柿なので、甘柿の枝を接ぎ木しなければ成らないし、ムスリムでアルコールが余りなく、渋抜きの技法も、自分が教えたぐらいでは、中々流布しない(笑い)
    熟柿になれば、急速に劣化が進行して行くように、色んなものが、その頂点を極めると、予想外に崩壊は、接近していると言う事かも知れません。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      まさにその通りでしょうね。
      今必要とされ実際に使われている技術や思想はそもそも記録する必要が無い。
      これは報道も同じで実際に普通で動いている普通が有って初めて成立しているのに、それが普通だから光は当たらない。
      どうしても記録しておかねばならないほど劣勢に有るもの、突出した特殊なものに目が行き易いと言う事になります。
      伝統工芸と言う狭い技術は、日本の技術立国と言う「井の中の蛙」の更に「井の中の蛙」に在りながらそれに気づかない。
      同じ人間のやることだから、自分ができて人ができない事は有り様がなく、だれでもできると思うのが普通です。でも広い社会を知らないとこれに気が付かない。普通に暮らしている人たちの事をしっかり評価しないと自分が今どこにいるのかすら分からない。その状況の物つくりを危ないと私は思うのです。

      コメント、有り難うございました。

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