「冤罪はかくて作られる」・Ⅱ

この裁判、恐らく上村勉被告人の証言がぐらつき始めていることを考えると、検察側は控訴できないだろう。

唯一の証拠である上村被告の供述調書が信頼を失った現在、作られた罪は元の「無」に戻ったのであり、事実上これで村木厚子氏の無罪は確定になると考えられるが、こうした現実の一方で今回の裁判が社会にもたらす意味は大変大きなものがある。

言うなれば少なくともここ30年から50年、場合によってはもっと長きに渡って、これから司法のあり方が変化していく、その分岐点ともなった裁判であることを、私たちは認識しておかなければならない。

本来裁判のありようとして、特に刑事訴訟法では、罪はその公判によって浮き彫りにされるのが正しいありようと言うものであり、検察の供述調書などいわばその他多くの証拠の1つ、場合によっては参考にする程度のものでしかないことが法的にも定められているが、これまでの裁判ではいかにこの供述調書が偏重されてきたことだろう。

事実上裁判所は供述調書、自白調書を決定的な証拠としてこれまで裁判を行ってきたが、これは現実には裁判の独立を放棄し、またその義務に対して怠惰であったことの証明でもある。

裁判の実態は、捜査のプロである検察が調べたものはまず間違いが無いだろう、では判決は・・・、と言うケースが殆どだった訳で、この意味から言えばこれまでの裁判は検察で大まかな判決が出て、裁判所がそれを追認すると言う形でしかなかった。

刑事訴追を受けた被告の裁判では、第一審がほぼ100%有罪になるが、これでは審理を尽くしているとは到底言いがたいものだった。

だが今回の判決で、裁判長は検察当局の供述調書を完全に否定し、同じ事情を知る立場にある、つまり関係者の一人が供述した調書には証拠能力が無いことを明言したのであり、かつ検察のシナリオを供述者に押し付け、そこから半ば脅迫や騙しで得られた調書には証拠能力が無いことを示したのである。

これは当然といえば当然のことだったが、長らく慣例化したこれまでの司法制度の中では、こんな当たり前のことすらも動かすことが出来なかった。

しかし今回の判決を見る限り、国民が裁判員制度で裁判に参加すると言うことが、従来からの裁判の有り様に少なからず影響を与えたのは事実だろう。

慣習化し馴れ合いになっていた検察と裁判所の関係の中で、少なくとも常識的な民間の感覚が、歪んだままになっていた裁判所に、「これではいけない、司法の中心が検察では無く裁判所に有るのだ」と言うことを自覚させるものとなった結果が、今回の判決であるように思える。

またこうした事からこれまでの裁判、検察、民衆のあり方を考えると、一つの流れとして1976年、田中角栄元総理が逮捕されたロッキード事件に端を発した国家権力や、強大な経済力に対する不信感と言うものは、その後1990年代初頭に始まったバブル崩壊で、完全に反転したものが正当化される風潮を生んでいったように思える。

即ち解決の付かない経済の落ち込みに対して具体的解決策が無いことから、政治家は離れたディテールをして自己主張するしかなくなって行った。

誠実であること、優しい事、クリーンであることは決して政治家の要諦ではないが、強権、金権に対して政治家はその身なり素性の潔白なことをして自己の価値とし、また民衆もこうした政治家のありようを求めたが、一方でこの状況は1789年に始まったフランス革命後の恐怖政治の様相、1976年に終結した中国の「文化大革命」時の民衆の有り方に酷似している面があった。

つまり社会が魔女狩り的に大きな資本や、強大な権力を悪とする風潮にあって、これが1993年、この年の12月16日には奇しくもロッキード事件の田中角栄元総理が亡くなっているが、ここから更に細部の権力に対してまで、民衆が目を光らす傾向になって行った。

つまりは落ち込み疲弊する経済の中で、民衆の中から「平等」と言うものに対する価値観の偏重が生まれ、事実上僻みでしかないものが、正当化される社会となっていく。

そしてこうした社会の変化の中で、微妙に影響を受けた検察庁と言うもののあり方としても、民衆世論を意識し始め、これに迎合するかのように「利益を出している者」「大きな権力を持つ者」に対する疑惑観念が芽生えてきていた。

その流れの今日的な一つの結果が、民主党小沢一郎代議士の政治資金疑惑だったが、どうにも小沢氏は責めることが出来ない。

そこで同じ権力ならと言う思いが、今回の村木厚子氏に対する事件捏造に繋がった思いがするのである。

だからこれはある種今の民衆が望むことに対して、社会の風潮と言うものに対して、微妙に影響を受けてしまった検察の勇み足だったと言う側面も持っているように感じるし、またこうした経緯から裁判所が裁判員と言う新制度を意識したがゆえに、これまでの検察捜査のありようを否定すると言う、つまりは国家に対して相対的に力を増し始めてきた民衆の功罪が、一度に噴出したものでもある様に感じるのである。

その上で裁判所は「権力の座にある者は全て悪とは限らない」と言う判決を出したのであり、このことは少なくとも私の思いとしては、これまで支配的だった民衆の平等意識や、ロッキード事件以降続いてきた「大きな者に対する悪視感」が変遷して来ているようにも見えるのである。

村木厚子氏に対しては「長妻昭」厚生労働大臣が、検察の控訴がなければ、しかるべきポストでの復帰を約束しているが、同氏が失ったものは限りなく大きく深いことだろう。

一刻も早い復帰を希望するとともに、私はこの裁判を大きな節目として、生涯この村木厚子と言う女性の有り様を忘れないし、また大阪地裁のことも忘れないだろう・・・。

※ 本文は2010年9月12日、yahooブログに掲載した記事を再掲載しています。

 

 

 

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 「冤罪はかくて作られる」・I & II

    色々居るが、田中角栄のロッキード事件で:

    最大のロクデナシ:
    元検事総長・吉永祐介:ロッキード事件を捏造、田中角栄を有罪にした。
    立花隆:刑事免責を付与して得られた嘱託証人尋問調書は、反対尋問権を保障した憲法に反する~反対尋問を為されなかった問題についてはついに何一つ答えることが出来ぬまま、曖昧に逃げ切った、その後、本件については、一切発言せず。吉永祐介と共同正犯。

    最もまともな人:
    渡部昇一:ロッキード裁判は日本裁判史上の汚辱だと言っている。当時は「闇将軍」と言われた田中を葬りたいという空気が強くて、裁判の批判をする人は殆ど居なかった。
    小室直樹:田中角栄の無罪を主張した。この最高裁判決には、反対尋問の機会を一切否定する嘱託証人尋問調書は、刑事訴訟法1条の精神に反し証拠能力が否定されるとする補足意見がある。田中角栄を徹底して擁護した。且つ、藤原弘達の創価学会批判の書の差し止め問題が起きたときは、公明党の差し止め要求を受け入れようとした田中を批判しており、田中への評価は公平を期したものだったといえる。

    この事件を去る事約1200年前、和気清麻呂は、道鏡の件で、分部穢麻呂(ワケベノキタナマロ)と侮蔑した名に変えられて大隅に流された。高直な人柄で、一身の利益を顧みずに忠節を尽くした。延暦18年(799年) 2月21日:薨去(従三位行民部卿兼造宮大夫美作備前国造)、贈正三位明治31年(1898年)3月18日:贈正一位、(薨後1100年を記念して)、産経新聞は、皇統の断絶という日本最大の危機を救った人物と評した。こんな感じで、将来、田中角栄の名誉は回復されるであろう、日本人に正気が戻れば(笑い)

    人は、自分基準で考えるから(笑い)、自分が遣りそうな良くないことを、他人も遣ると思いがちだし、逆も真、だから、司法試験~外交官試験~医学部入学試験などは、しっかり面接して、将来の大器~ロクデナシをある程度、予見して置いた方が良い。
    国家の枢要に就けるべき人物なら、考慮して扱え、と備考欄に記すのも良いし、諾否両方が付いた辻正信のような人物は、注意して扱えばよい、爆発力のある火薬は、使い方次第(笑い)

    勿論選挙では言いたい放題の、妄想なんかどうでもいいから、出来ることを着実に遣る責任感を見た方が宜しかろうが、逆のが多くて、消去法で、残った人に投票せざるを得ない~~♪

    囚人のジレンマは原書の翻訳だろうし、間違いとも言えないが・・どちらかと言えば、容疑者(もしくは被告人)のジレンマと訳した方が、自分の好み~こんな話題では、昔のアラン・ドロンとチャールズ・ブロンソンが共演した、映画「さらば友よ」を思いだす。

    上記のような意味では、市役所~法務局~税務署は体質が改善されてきたようにも見えるが、交通違反を取り締まる警察は、運転者に形式上反論の余地が与えられているように見えるが実際は、数千円や数万円の為に、裁判まで争うのは時間と金の無駄な事をしないのを知っていて、一時停止やら通行区分違反など、一方的に違反者にして冤罪を大量に作り出して(笑い)、もっと肝心な住民~国民の警察への信頼を失い続けているように見えるが、沖縄での「市民団体」の「交通検問」や選挙違反などには出動もせず、二重に欺瞞の構造で成り立っているように見える。諸外国、特には途上国に比べて、腐敗度は低いと思われるが、交番を見ればわかるが、道を教える案内所で(笑い)、何か有ったら110番した方が良い~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      今から振り返って見れば、昔は結構良い記事を書いていたんだなと思います。
      冷静沈着に大手新聞社社説では到底書けないほど深く意味を加えて書いていたんだなと思いました。
      自分で言うのもなんですが、自分が書いたものの中でも最も満足度の高い記事の1つだと思います。

      この判決は結構衝撃的でした。
      日本全体が権力=悪の図式の中で毅然としていた村木氏の姿は、権力だからと言って悪ではないんだよ、と言う事を示していたと思いますし、時々現れる非自民政権と相まって、美しい事が正しいとは限らない、人間性の良さが結果に反映されるとも決まっていないと言う現実を突きつけてくれたように思います。
      被嫡子裁判と共に、日本の裁判、判例を覆して行く一歩となった判決でした。
      日本だけではなく世界的に非力、貧しさはなどはどうしても正義になり易い。
      それが劣勢であるが故、多くの人が同じ境遇であるがゆえ共感を呼び易い。
      近いところではライブドアの堀江氏なども同じ側面を持っていたと思いますが、これに近いようで真逆に在るのが楽天の三木谷氏だと思います。
      公正取引委員会から、それをやったら黒だよと言われていながら、黙って送料無料サービスを強要した。

      権力とか強権と言うものは、道具ですから使い方を誤れば人々を不幸にする。
      強権でもそれが多くの人の為、自分が信じる正義の為なら世に有効に働く。
      私利私欲ではなくても、会社利益の為に法を曲げてまでの強権は許されないし、人々の支持協賛は得られない。
      三木谷氏はどうやら日本新党化、民主党化した思考回路に陥っているものと思います。
      楽天の落日は近いでしょうね・・・。

      コメント、有り難うございました。

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