「塗師小刀の長さ」

輪島塗の下地工程、及び上塗り鏡面塗りを為すおり使われる木へラは「あて」と言うヒバ材の一種が使われ、漢字表記では「木」と「当」が組み合わされた形だが、文部省の当用漢字には採用されない事から、「あて」と言うひらがな表記を一般とする。

なお、「あて」と言う発音も、何かの代用や瑕疵がある事を表現する場合でも使われる為、縁起が悪いとされ、そこから「あすなろ」と言う名前が出現してきたが、この呼び方は比較的新しい時代の呼び方である。

「あて」と言う木は杉や檜とは異なり、成長する過程でねじれを常とする。

この為、「あて」を伐採して製材しても、必ず対角線上で歪みが生じる事から、輪島塗の木へラで使用する場合は、割り板〈へぎ板とも言う〉を用いた。

このへぎ板の寸法が長さが1尺、〈30cm3mm〉、幅が凡そ5寸〈15cm〉であり、この幅に満たないものは細い木へラ用に用いられ、長方形の板を対角線で斜めに切って、一枚の板から2枚のヘラを取る。

それゆえ対角線となる方が一番長く見えるのだが、実はこの一番長く見える方の先端は欠け易く、結果として輪島塗の木ヘラはこの一番長く見える側を切り落とし、その反対側を前として使う。

つまりは輪島塗の木ヘラは、屋根に使う「こば板」の寸法を規定にしたものだったと言う事になるが、その一番長い時の寸法は1尺だから、これが入る大きさを「ヘラ箱」としたのであり、この寸法に合わせて輪島塗の塗師小刀の長さが決まっている。

この場合、塗師小刀の長さはヘラ箱を基準にしている、或いは木へラを基準にしている、そのどちらも同じ事と言える。

塗師小刀は京都で木工細工をする時に用いられていた「丹波」を起源とすると言う説もあるが、その特殊性から早い段階に措いて「丹波」とは区別されるものであった事は容易に想像がつく。

輪島塗の塗師小刀の大きな特色の1つとして、柄の部分の長さが有る。

大体と柄と刀身の長さが同じなので在り、それが製作された当初は確実に柄の方が長くなっている。

これでは幅の広いヘラはとても削りにくいのだが、輪島では研いで刀身が短くなると、柄を切り出して長さを確保して行く使い方をする。

こうした形態になったのは、昭和21年から27年〈1952年〉まで続いた太平洋戦争敗戦処理機構、GHQの影響が有ると言われている。

つまりここでは刃渡りの長い小刀は武器と見做される為、柄の方が長く見える事で「仕事の道具」と言う形を取り繕ったと言う事なのだが、確かに太平洋戦争前には長い刃渡りの塗師小刀も存在していたものの、やはり一般的な小刀よりはどの時代も柄が長くなっている。

これは頻繁に使うため、刀身を少なくして手傷や、落として膝を切らない為の知恵だった可能性も捨てきれないが、日本で刀の使用に関する規制ができるのは、明治9年の「廃刀令」、第二世界大戦敗戦後の昭和21年の銃刀法、昭和30年〈1955年〉の改正法、昭和33年〈1958年〉の改正法となるが、明治の廃刀令以外は全て敗戦からなるGHQ,政策、それに忖度した法改正と言える。

こうした時代背景から輪島塗でも、その小刀の長さに業界忖度が働いたのかも知れないが、昭和21年から30年前半には、確実に刀身より柄が長い塗師小刀が多くなってくる。

昭和27年まで日本に駐留したアメリカ統治機構は、板前などの調理師が包丁を使う事はイメージできたが、塗装工の輪島塗職人が長い刀身の小刀を使う事がイメージできず、許可が下りない為、昭和27年までは極端に刀身が短くなったとも言われているが、当時の輪島漆器商工業組合はこの段階でも当局と交渉し、了解を得ていたと言われ、昭和30年の改正法では職業的特例事項として認められた。

しかし、こうした期間が一定時期継続した事から、既成事実して塗師小刀の刀身が短い形態は一種の流行になったと言え、その流れが現在まで継続されてきていると言う背景を持つ。

余り一般的ではない話ではあるが、昨今厳しい規制を持つ銃刀法、狩猟免許に在りながら、毎年どこかで猟銃に拠る事件、事故が発生している事に鑑みるなら、輪島塗300年の歴史に措いて、現在まで塗師小刀に拠る殺生事件が1度も記録されていない、発生していない事は、輪島塗職人として誇りに思うところである。

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。