「周回社会主義」

「働かざる者、食うべからず」と言う言葉は、カール・マルクスの「資本論」中の言葉だと思っている者も多いかも知れないが、この言葉はウラジーミル・レーニンの言葉で有り、彼が意図したものは基本的に「楽をして稼ぐな」と言う意味だった。

即ち台頭してくる資本主義による「非労働生産」、簡単に言えば額に汗することなく、金が金を生むような楽な金の稼ぎ方をするな、資本に支配されないよう、しっかり体を動かして働いて金を得る道を目指そうと言ったものだったが、後世日本に伝わった時、働けない者や失業者までも含めて理解されるに至り、どちらかと言えば失業者や社会的弱者を責める言葉になってしまった。

元々資本主義と共産主義や社会主義は同じ円周上を回る2つの対極する点であり、本質的には経済と言うものを個人から見るか、社会から見るかと言う視点の差に過ぎない。従って社会主義の極論に在ったレーニンのこうした言葉は資本主義の極論に同じで、資本主義の根底を為すものが「生産」で有る事を忘れると、資本主義そのものが成立しない。

現代の用語で言うならインターネットで商品を注文したからと言って、その商品がネット回線から出てくるわけではなく、配送業者と言う人間が自宅まで配送してくれる、このハード分野のサービスが無ければネット注文が成立しない事のようなものである。

その上で資本主義や自由主義が進んでくると、元々個人事情の集積でしかない民意と言うものが暴走し始め、やがてこうした傾向に政治が同調し始めた時、そこに発生してくるものは社会サービスが最初に存在する「非責任社会主義」と言う事になる。

つまりレーニンが言うところの額に汗して働いている者が圧倒的に少ない状態であり、為に少し前にも記事にしたような「需要不足」や「消費の低迷」と言う表現が出てくる訳で、これは基本的に働いて収入を得ている者が少ないと言う事だ。

消費や需要には本質的過不足が存在していない。

経済は資本主義であれば膨張と収縮を繰り返すのが普通であり、社会主義では個人と言うミクロが満たされない事から、必ずミクロに対する容認が必要になってくる為、ミクロ経済では資本主義でも社会主義でも景気が悪くなったら消費を抑制させ、景気が良くなったら消費が増えると言う循環が存在して初めて好景気と言う状態が存在する。

景気が落ち込む部分が無ければ好景気もまた存在しようが無い。

この点で言えば社会情勢を踏まえた民衆の消費動向はいつの時点でも「妥当」なものなので有り、更に質素倹約は有史以来ずっと人類が美徳している思想にも拘らず、昨今の日本の在り様はまるで消費しないことが悪い事のように考えられている。

景気が悪い時の経済対策で一番効果が大きなものは「金を使わない事」に尽きる。

従って金を使わない事は悪いことではなく、無駄な消費が抑制されている事は大変素晴らしい事なのだが、これが忘れられてしまう背景に「非労働収益」が有り、何もせずとも金が入ってくる人口が増えると国家の人口がみんなこれを目指すようになり、元々働いて得た利益ではない事から消費抑制効果は薄く、ここを目標にマクロ経済が動いて行く事になる。

ちなみに「非労働収益」とは年金制度、生産ではない調整が業務の公務員、代議士等の国家予算によって収益が保障されている者を指すが、こうした収益を得ている人口が多い国家はレーニンが危惧した資本主義の侵食よりも更に深刻な資本主義の行き着いた先の社会主義、資本主義が周回して社会主義化した周回社会主義の侵食を受けている状態と言える。

またこうした周回社会主義の「非労働制」が一般化した民衆も、出来るだけ楽をして利益を得る方法を考えるようになり、ここに前出のネット通販を例に取るならネット通販会社が乱立し、でも実際に荷物を運ぶ人がとても少ない状態が発生し、いつしか注文した品物が人によって運ばれている事を眼前に見ていながら、認識できない社会が現れてくる。

消費は美徳でも何でもなく、どちらかと言えば忌避されるべきものである。

それゆえ消費が落ち込んだと言う事はむしろ民衆の意識として喜ばしい事であり、皆して自分が外食産業のオーナーの立場になったり、或いは観光産業関係者になったり、家電量販店の店主になる必要は無いのである。

だがこうした部分で評論家的に物事を考えると言う事は、既にどこかで労働の責任が無い、言い換えれば働いていないと言う事なのであり、このような事に気が付かない社会とは、もはや労働収益人口よりも「非労働収益人口」が多くなっていると言う事なのである。

繰り返し言うが「質素倹約」は美徳であり、無駄遣いをしてはいけないと子供に言い乍自分はそれを忘れていないか、経済と言うマクロを意識して自身が本来持っているはずの道徳観念が飛んでしまっていないか、額に汗して得た金の有り難さを忘れてはいないか・・・。

色んな物を買ったら次は消費が控えられるのは事の理であり、従って景気は良い悪いが繰り返されるのが正常な状態で、通貨もこれに同じである。

民衆の暮らしが景気の良し悪しで左右される振れ幅は小さい。
しかし為政者や行政はこれによって税収が落ち込む事を恐れ、レーニンの言う働かずに食っている資本家、周回社会主義に在る者は大きな不安を抱く。

そして景気浮揚の政策が為される事になるが、この時為される政策は間違いなく国民負担で有り、景気は一時的に浮揚してもまた確実に低迷し、だが一度決まった政策はそれによって変化しない。

ここに国民負担がのみが蓄積される。

景気浮揚策、経済対策、政策の本質は、それによって今存在する傷を将来更に深くするものだと言う事であり、民衆もまた一時の景気浮揚期に措ける欲望を蓄積させ、今と言う時の不満を探しながら暮らしている・・・。

[本文は2014年5月19日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。