「分裂統合症候群」

Aと言う人と話している時、Bと言う人と話している時、更にはAとBに自分を加えた3人で話している時の自分は必ずしも一致したものではない。
Aには話せてもBには話せない事も有り、AとBが同時に目の前にいる場合、自身の態度は3者の集合重複部分で成立している。

解り易い状況を例に取るならAが男でBが女、自身が男女どちらかだとすると、自身の態度や思考傾向は全ての状況に対して統一性を有しない。

人間の状況に対する判断や対応は即時性のものであり、この点では状況に応じて分裂したものなのだが、問題はこの分裂に時間経過区分や整合性を持たせる為に自身がどのように整理しているか、記憶しているかと言う部分である。

精神障害の分裂症状は、現在では統合失調症と表現される事が多くなったが、この症状は脳の機能障害や遺伝によってそれぞれの時系列に措ける行動の整理統合、時間経過区分を記憶分類できない状況を言う。

だが、元々人間の状況に対する判断は初めから分裂であり、障害となるかそうではないかの分岐点はひとえに「自己認識」による。

それゆえ状況に対する結果は同じでも、自身の行動を認識しているか否かと言う事によって社会生活に適合できるか、或いは適合できないかの判断が為されるが、障害の有る者が発生させる問題は、せいぜいが「結果として嘘になる」行動による迷惑に留まるが、逆に認識される分裂、その分裂に麻痺を起こした社会的健常者の引き起こすものは、悲惨な事件を発生せしむる事になる。

「非認識」がもたらすものは自身の言動に対する「非整合性」であり、この場合は社会的整合性を欠く事から、以前の言葉が現在に措いて担保出来ない、つまりは結果として嘘となってしまう事が多くなるが、逆に状況に応じて分裂した判断をし乍、自身の内に整合性を付ける程度を大きくしてしまうと、現実から乖離したまま社会的整合性を保った状態が発生する。

冒頭のAとBの例を挙げるなら、AとBが恋人同士で自身をAの親友Cとするなら、最近女のBはCとも付き合っていて、この事に対してその当初はCも罪悪感を持つが、その状況が長くなると罪悪感が麻痺し、やがてはそこに自己正統性の感覚が発生してくる事になる。

その上でBとCの関係が益々深くなった場合、Bに取ってAの愛は、その感覚が深くなればなるほど恐怖、若しくはCと共通した邪魔な感覚となり、最後はBとCによってAが排除される道を辿るが、これは家族親子でも同じである。

人間が社会的モラルや道義を失う原因の最大の要因は、第一次欲求、食欲や性欲によるものであり、これは基本的に「生きる」事に端を発している。

意識しようとしまいと、人間は言葉でどう言おうとも自己存在を否定できず、この中では自身で犯す自身のモラルや道義に対し、自己解決や整合性が付けられない場合、その責任を対象者や状況に転嫁し、こうした状態を続けていると「転嫁」そのものを省略して何も感じなくなる。

状況や自身の非整合性に対して整合性を持たせる思考回路は、自己存続と言う生物の脳が持つ基本条件に始まっている。

従ってこうした「麻痺」する感覚は生物学上必要な機能でもある。

忘れる事、慣れる事はある種のバイオプログラムでも有るが、問題はこれが第一次欲求や自己存続に連結している事であり、この点を鑑みるなら人間のやる事には実は「際限がない」
つまり「何でもやってしまう」のである。

2014年5月30日、神奈川県厚木市のアパートで「斉藤理玖」君(5歳)が衰弱死した遺体で発見され、これは父親の扶養義務放棄によるものだった。
母親は父親の度重なる暴力から逃げるように家を出てしまい、父親も新しい女性と交際が始まった影で起こった悲惨な事件である。

人間がやっていることは基本的には未来計画も含めて現状対処である。

重大性は「頻度」によって左右され、第一次欲求、今の時代で表現するなら生活と言う経済、そして男女交際と言うもので別枠が出来てくると、前の枠は少しずつ遠ざけられ、それでも前の枠に生きている子供に取ってはそれが全てである。

どれだけ忘れられても放棄されても親にすがるしか生きることが出来ない。
これをして究極の愛と言うものなのだが、その愛は逃げる者にとっては最大の恐怖になって行く。
やがて衰弱した子供をもし病院に連れて行けば自分が扶養を怠った事が発覚する。

父親は今と言う自己保身の中で子供の扶養を分離して考えるようになり、はそこから逃げ、ここに至って問題の解決は自身の命によってしか償われない事となった時、生きようとするメカニズムは前に持っていた枠を夢のようにしてしまい、現実解決を怠ったまま今の暮らしがそれを分離、麻痺させてその日その日を送らせる事になる。

そしてこの父親は世間からどのように責められようとも言い訳など出来まい。
だがそれを責めている世間一般大衆にしても、程度の差は有ってもどこかでは分裂を抱えながら、その事は今は考えるのは止そうとしている現実を抱えながら暮らしている。

この父親の非道は我々の内にもまた存在し、責めている本人がいつかそのような事態に陥る可能性を常に内包しているものである事を認識して措いて欲しいと思うのである。

私がこの30年ほどで最も嫌な言葉だと思ったもののひとつに「自分へのご褒美」と言う言葉がある。

それまでの自己が持つ道徳やモラルの崩壊はある種の解放、拡大でも有るが、その拡大した自己の中に薄くても以前の枠を持っていないと、それを思い出すことが無いと唯の欲望の正当化にしかならない。

ふやけた、脳天気な「自分へのご褒美」と言う言葉は、どこかで今回の厚木市の幼児の育児放棄事件に繋がっていたような気がするのである。
自分へのご褒美とは、「怠惰」「甘え」「分裂」の正当化と言うものにしか見えない・・・・。

そして自分の持つ道義を守って生きようとすれば、愛を大切に思うなら、いつか自分の命を自分で絶たねばならない時が訪れるかも知れない。
それゆえ生物は常に生きるか死ぬかなのであり、この事をして生きていると言う事なのだろうと思うのである。

幼き魂の無念を思い、心から天の祝福の有らん事を希望する。

[本文は2014年6月15日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。