「楚王のリスク管理」

中国古典「説苑」の「楚、壮王」のくだりに、少し面白いエピソードが乗っている。

ここでは位の高い女給に対し、セクハラをはたらいた男と、それを処する壮王の話が出てくる。

宴会の席で蝋燭が切れてしまい、室内は一瞬にして暗闇となった。
これ幸いと、給仕をしていた美しい女性の着物のを裾を引っ張った壮王の家臣、しかしこの女給は王の親族で位が高く、家臣の無礼に激怒し、そのセクハラをはたらいた家臣の冠の緒を引きちぎる。

そして壮王にこう言うのである。
「壮王、今しがたこの暗闇に乗じて、私に狼藉をはたらいた者がおります」
「私はその者の冠の緒をちぎりました」
「どうぞ、今すぐ灯りをともし、その者にきつくお叱りを与えてください」

これに対して壮王は女給に「そもそも宴会を開いたのは私であり、また蝋燭の不備も私の責任である、謹んで私がお詫びする」と言い、女給に詫びた上で、宴席に出席していた者全員に冠の緒を引きちぎるよう申し渡し、その上で蝋燭に火を灯させるのである。

それから数年後、なぜか戦の度に命も省みず戦う、勇敢な家臣がいる事を知った荘王は彼に尋ねる。
「どうしてそこまでして、私と楚の為に戦ってくれるのか」
その家臣はこう、語る。
「いつぞやの宴席では、私が給仕に狼藉をはたらき、それを荘王に救われました」
「くだんのおりの御恩は生涯忘れません」

後年、この家臣は壮王の為に命がけで戦う、楚で最も勇敢な家臣となった。

楚の壮王は名君として誉れ高い人物だった。
そしてこうした話が残っているところを見ると、2000年以上も前からセクハラは存在し、その対処は非常に重要だったと言う事である。

そしてここからが重要なのだが、正義と言えば振りかざして糾す、と言う 使い方が一般的だが、正義の使い方は実はこれだけではない。己の利の為に使う用法も習得しておかねば、正義の半分を捨てているに等しい。

正義と言うのは振りかざして糾すと、その糾された者は何かを失う事から、団体やグループ全体を1つと考えるなら、総量的にはマイナスになる。
出来れば総量的マイナスを減らして、荘王の場合なら女給と家臣の内、どちらが自分の利になるかに鑑みるなら、家臣である。

それゆえ家臣を擁護し、団結心を与え、ついでに恩も売り、また女給も王が直々お詫びするのだから、これはこれで納得せざるを得ない。
つまり正義を使って誰も傷つかずに、荘王は自身を最大限売り込んだ結果になる。

正義と言うものは振りかざし、糾しても相手は傷つき、場合によっては恨みを買う事もある。
それを糾したからと言って、結果は必ずしも正義と言う、 大袈裟な名前程の効果を生まないのである。

糾すべき対象者が正義を最も理解する瞬間は、実はその糾されるべき正義から守られた時であり、正義の名の下に人を糾し、その人の道を壊し、或いは稀有な友となったかも知れない、若しくは自分の為に働いてくれるかも知れない者を封殺するなら、正義はマイナス面に使われた事になる。

正義と言う立派な言葉を、このように使うは如何ともし難く惜しい。
誰も傷つかず、人の道を塞がず、正義を理解し、そして己に利するなら、これ以上正義と言う名に相応しい用法は存在しない。

この考え方は、両側投資の概念と思想を同じくするものであり、現代社会が漠然としか理解していないだろう「民主主義」の出発点でもあるのだが、それはまた後の記事で解説しよう。

毎日、ネットの世界で誰かが正義、道義の名の下に叩かれている現代社会に鑑みるなら、それはまるで1万円札を破り捨て、足でさんざん踏みつけているのと同じにしか、私には見えない・・・。

[本文は2014年6月20日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。