「合理性の逆転」

人間の忌避行動には概ね三種類が在って、その一つは権力に拠る法の規制、所謂罰則に対する恐れから発生する忌避、それとは別に宗教的規制に拠る禁忌、そしてどちらかと言えば宗教的禁忌に近いが「自然忌避」と言う行動制約が存在している。

過去、律令国家時、平安期まではこれらは統一された概念だったが、時代が近代に近付くに連れ忌避行動は分離し、これは即ち経済の発展と共に大きな概念が少しずつ便宜上分離され、都合良く解釈されて行った、または政治上、統治上の便宜から分離が始まったものと言える。

1年に18回有る「土用」の季、これは土が盛りを迎えるとされる事から、この期間に大地に杭を打ってはならないと言う慣習は今も続くが、これに法的根拠はないものの建設業界では今も多くの事業所がこれに従い、こうした慣習に対して公的な土木事務所なども一定の配慮をする。

この意味では「土用」と言う思想宗教的忌避は「法」を超えた不文律と言え、尚且つ現在も政治や法と一体となった概念を持っている事が解るが、日本国内法の民法の規定でも末尾には「その他はその地域の慣習を尊重する」と書かれていて、法は元々宗教的思想と政治的、統治上の都合の融合形態をして権威を保っていた事が伺える。

が、これも「土用」などの形態を残す忌避は年々歳々少なくなり、経済と言う半ば餓鬼にも等しい侵食は、簡単に忌避を無視する風潮を生じせしめ、この経済を最重点課題とする現代の政治は、古来から続く宗教的忌避を非合理として行くが、宗教的思想の本来は合理性、超現実主義を根底としているものである。

例えば「竹を切るのは冬」とされるなどは、どこかで宗教的慣習のように思うかも知れないが、夏の若竹を切って茄子の添え棒に使っていると、翌年に枯れて簡単に折れ易くなり使えず、更に油成分が抜け無い為、上に何を塗っても剥離する事になる。

また過去日本の各地には「禁地」と言うものが在り、墳墓や過去の遺構など宗教的対象ではなくとも、そこに家を建てる事を嫌った土地と言うものが存在する。

何度家を建てようとしても棟上までに大風が吹いて壊れたり、或いは火事で焼失したりと、合理的理由が無いにも拘らず実際に家を建てられない「場」が存在し、こうした場合は人為的な失敗が加わるとしても同じで、商業地としては一等地の角地に在りながら、何故か倒産や一家離散が相次ぐ土地も多く存在する。

更には過去江戸時代くらいまでは村の集合墓地だった土地、火葬場跡なども不文律非表示忌避地だったが、これも現状が山林だと簡単に開発が為され、ゴルフ場が出来たり土地造成が行われ宅地開発が為されていく。

その一番端的な例が江戸時代まで刑場や晒し首に使われていた「場」などであり、開発が行われてもどこかでうら寂しい雰囲気が残り、地方でこうした開発をしたところは、30年の歳月の内には大きく衰退している現実をどう見るかと言う事がある。

現代社会の「合理性」とはやせ我慢や見栄に近い概念であり、どこかでは宗教やいにしえの慣習に対する闘いの様な部分が存在するが、宗教的思想や慣習と言うものの本質は「超現実」なのであり、その当時の合理的解釈も非合理も含めて、現実に何が起こったかと言う点を出発点としている。

人が死んだ後、その人の事をどう思うかは千差万別である。
生前ひどい目に遭わせていた人は、その自身の行いゆえに死者の姿を恐れるかも知れない。
逆に慕っていた人はその存在が永遠で有って欲しい事を願うだろう。

だから幽霊が見える人と見えない人が現れ、こうした人たちの為に、それが幻想で有れ見えてしまう、或いはいつまでも思いを断ち切れない、そんな人の現実の為に葬儀と言う一線を考え出したのが宗教である。

その儀式そのものは確かに非合理的かも知れない。
しかし直面する人の思いは限りなく現実のものである事から、その現実の前に非合理も合理性も存在せず、これ以上が無いのである。

我々が一般的に考える「合理性」とは、我々が一般的に考える「非合理性」よりも非現実に陥り易く、この世の現実は全てが合理的解釈で成り立っている訳ではない。
いや天候や人間の行動からしても、始めから「非合理」「理不尽」なものと言えるかも知れない。

禁地、禁季には法的規制も客観的合理性も無いが、それが如何なる理由で有っても成立しない現実を見た過去の人々、その地域の人々にとっては、あらゆる合理性の上に存在している事実と考える必要が有るだろう。

宗教や迷信と言ったものを科学的解釈すれば、全てが非合理的、非理論的になるが、そこには何も存在しなかった訳ではなく、何かが存在して発生してきたものであり、それをどう解釈してきたかと言う地域独特の超合理性、超理論が息づいている。

禁地・禁季の概念が年々失われていく背景は、現代社会の持つ合理的、客観的思想に拠るものの影響が大きいが、「法」の究極は「法」が無くてもそれが守られる事に有るとするなら、薄い合理性に追いやられた非合理に沈む現実が意識されない社会と、それを形として維持してきた地方の人口衰退と貧困は、この国の更なる現実乖離、「異常」や「想定外」を頻発させる事になるだろう。

狭い日本だから過去に人が死ななかった土地は一箇所も無いだろう。
だが何故その地域の人は禁地や禁季を概念したのか、これから地方や開発と言うテーマを考える人は是非こうした事も顧みて頂ければと思う・・・。

[本文は2014年8月26日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。