「魚と地震の迷信」

1896年3月末、三陸海岸のあちこちでウナギの死骸が大量に打ち上げられ、この現象はその後間隔を置きながら3カ月続く。

そして1896年6月15日、三陸地震が発生、津波の波高は最大36mにまで及んだ。

〈吉村昭著、「海の壁」より抜粋〉

1923年8月29日、横浜大岡川とその周辺の川では、大量のイワシが我先に川上を目指して上がって来る。

この4日後の9月1日、横浜港から磯子へ抜ける運河になっている中村川付近では、大勢の人がそれぞれ竹かごや虫取り網を持って中村川の岸に降り、水面がイワシで埋め尽くされ銀色になっている中から、イワシをすくっていた。

まさにその時、関東大震災が発生する。

〈文部省震災予防評議会・大日本地震資料より抜粋〉

1923年8月30日、横浜に住んでいた坂下頼子さん〈仮名・当時8歳〉は親戚の家から帰る折、近くを流れる小川でウナギが沢山弱っているのを見つけ、早速家からバケツを取って来ると、そこに入れられるだけウナギを詰め込み、家に持って帰って母親からこう叱られる。

「気持ち悪いから早く捨ててきなさい」

〈末広恭雄著「魚と地震」元原稿より抜粋〉

1983年5月26日早朝、十三湖付近ではカワハギの大群が発生し、こちらも手づかみで捕獲できる状態だった。

大量に捕獲されたカワハギで処分に困窮した町役場は、午前中に無料で好きなだけ持って行って良いから、「皆さんおいでください」と言う有線放送を流している。

この日の正午、日本海中部地震が発生した。

〈弘原海清著・「前兆証言1519」より抜粋〉

1993年6月初旬、北海道奥尻島、例年ならこの季節のヒラメ漁では、100kgも獲れればまあまあなのに、たった1日で300kgも水揚げされた時があった。

「あれは異常でした」と語るのは青苗地区の主婦。

この1か月後の1993年7月12日、北海道南西沖地震〈奥尻地震〉が発生、死者202人、行方不明者28人、ロシア人3名も死亡、津波の最大波高31・7mだった。

〈亀井義次氏・編纂資料から抜粋〉

1994年12月20日、明石海峡では音を立てて何万匹と集まるボラの大群が目撃され、1995年1月15日には明石川の大観橋下を、体長30cm前後のボラが数百匹と言う単位で上流に向かって泳いでいるのが目撃された。

〈明石市在住の主婦の証言・弘原海清著・「前兆証言1519」より抜粋〉

1995年1月17日早朝、震度7の阪神淡路大地震が発生した。

2007年3月5日輪島市光浦の海岸に大量のハリセンボン〈フグの一種〉が打ち上げられる。

同年3月17日、輪島市門前町の海岸にハリセンボンの死骸が大量に打ち上げられる。

2007年3月25日、能登半島地震が発生した。

〈保勘平宏観地震予知資料編纂室・資料丙より抜粋〉

掲載した事例はほんの1部だが、大きな地震の前には必ずと言って良いほど魚たちの異常も報告、記録されているものの、これが科学的に因果関係が実証できるかと言えば、全く実証できない。

科学的に地震と魚の因果関係は無いに等しく、ある意味では存在する日常の変化を地震に寄せ集めたのではないか、と言われても反証する事も出来ない。

しかし、では何故古くからこうした魚の異常と大地震の関係が、謳われ続けてきたのだろうか・・・・。

科学の発展目覚ましい今日に至っても、科学が地震の予知に及んでいない現実に鑑みるなら、科学的だから絶対に正しいとも言えない、謂わば科学も迷信も全くのスタートラインだと言える。

この中で少なくとも、怪しいが、古来よりの実績を持つ魚類と地震の因果関係を、完全否定する事もまた非科学的と言える。

ただし、その因果関係は多くの自然要因、地震以外の発生要因の中にちりばめられたものである事から、我々がこうした魚類の異常だけをして大地震を騒ぐ事は適切ではない。

せいぜいが日常の心得として、災害の遠くに感じる僅かな緊張感として、自然の変化に注意を向けられるだけの心理的平常環境を持つ事は、重要なのではないかと考える。

地震と魚類の因果関係の記述で最も古いものはナマズだが、ナマズと大地震の関係が一般化して行ったのは比較的新しく、安政年間ではないかと亀井義次氏は記述している。

「武者金吉」東京大学地震研究所助手著作の「地震なまず」に拠れば、1190年~1198年に出された「伊勢こよみ」に「地震虫」と言う怪物が日本を取り巻いている図が紹介されているが、これはナマズの形状ではなく、地震を陰陽道的に周期的予測した暦ではなかったかと推測される。

また「鹿島神宮」と「香取神宮」の要石〈かなめいし〉は古来より地震を鎮める為の物とされてきたが、この地震の形而上の形は変遷して行った経緯があり、古くは正体のない「大虫」、江戸中期までは「龍」で在った可能性が高く、「要石」が刺している対象がナマズで表現されるようになったのは、やはり亀井氏の記述に見るように、安政年間からと思われる。

では安政のいつ頃から地震とナマズの関係が始まったかと言うと、安政元年に発生した「東海地震」には出て来ない。

しかし、翌年安政2年に発生した「安政関東地震」には版画にまで出てくるのであり、この事から始まりは関東地方、大流行したのは安政2年からと言う事になる。

地震とナマズの一番古い残存記録は、「安政見聞誌」であり、この中で江戸本所永倉町に住む篠崎何某と言う釣り好きが、10月2日、釣りに行ったが目当てのウナギは釣れず、ナマズ3匹しか釣れなかった。

篠崎何某はナマズが騒ぐと地震が来ると聞いていたので、慌てて家から家具を出し、外に積み上げていた。

これを冷たく笑う女房殿、しかしその夜安政江戸地震〈1855年太陽暦では11月11日〉が発生するのである。

〈亀井義次氏・編纂資料より抜粋〉

この話は恐らく「後付け」だろうが、地震に拠って材木商や大工、などの建築関係が大きな好機となって行く事から、ナマズを接待する商人などの版画が爆発的に流行し、こうした流行から「要石」の形而上の対称も「ナマズ」となって行ったのではないだろうか・・・。

ナマズを足で踏みつける鹿島、香取大明神のお姿は、ある意味地震鎮護の表と、裏はそれで大儲けする商人達に対する、民衆のささやかな噴飯だったかも知れない。

2023年に入って、大阪淀川では河口にクジラが迷い込み、北海道では大量のイワシが浜に打ち上げられ、愛知県各地でも大量のボラが川を遡上している。

単なる偶然かも知れないし、或いは海水温の関係でそうなっているのかも知れない。

だが、例え偶然でも10回の内1回でも重なれば、科学的どうこう以前に、それを完全無視する事が出来なくなるのが、人の世と言うものだ・・・。

遠くの感覚的な心得、「ふん、迷信に過ぎない」と苦笑いしながらも、僅かでも良いからたまには自然の驚異を思い出して頂けると嬉しい。

そうでなくても、時々緊迫感を持つ事は、悪い事ではない・・・。

東海地震、東南海地震と南海地震、関東地震は一連のものだ。

東海地震、東南海地震が始まれば、日本の半分が直後から、数年以内に連続して大きな地震に見舞われる事になる。

何もない事を祈ろうか・・・。

 

 

 

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。