「人ゲーム」

青い空に綺麗な緑の良い季節となって来たが、私たちが見ている「緑」、山の緑は近づいて見ると、どれ一つとして同じでは無く、例えば僅か蓬(よもぎ)にしても生えている場によっては色が異なる。

しかし我々はこうした現実を認識しながら、総称として緑と言う言葉、言い換えれば「記号」を使って表現し、脳はそれぞれの緑色に違いがある事を認識しながら、この記号に従う。
会話として話されたものなら、元々多種の色彩を認識した脳が「緑」と言う記号を通って狭められ、それが現実の景色で確認されて、相手の脳でまた多種の色彩が構築されている。

そして山の緑と言う概念は、我々の中では動かし難い事実のように思うかも知れないが、身近なところでは英語なら「green」がこの記号に相当し、記号を同じフレームの中に収めるとき、現実の景色に従って使っている記号をこれに当てはめている。

つまり我々は日常的に無意識の内に映像をケーブルに通し、そこから送られてきた信号(記号)に基づいて画像を再構築しているのであり、この意味に於いては光デジタル通信の形式とは、とても人間らしい、人間社会らしい形式と言える。

しかし一方、「緑」と言う記号は現実を正確に反映しているものではなく、「緑」と言う概念は統一概念ではない。
或る人が描く緑の概念は黄色に近いかも知れず、また別の人は青に近い緑かも知れない。
現実に同じ山を見ているのでなければ、その緑の概念はまったく違ってしまう可能性を持っている、いや共通した認識は初めから得られないのである。

それゆえ統一した場、実際に同じ景色、同じ空間に立たねば同じフレームに入れず、記号(言語)は本質的にかみ合わず、これを自身の経験的概念で補った上で記号の前後を繋げて次の第三者に送った場合、最終的には一番最初にその記号(言語)を遣った人の概念と、一番最後にその記号を受け取った人との概念とはまったく違ったものになる。

ここでは例えば「緑」なら、緑と言う記号は無限に有る色のグラデーションの容器に過ぎず、一番最初に新緑のすがすがしさを表現したかった人の思いは、最後には薄気味悪い藻に覆われた沼になってしまう場合すら現れる。

情報の共有でもっとも正確で効率的な手法は、同じ事実や景色の前に立っている事であり、この点で言えば人の理解の基本、もっとも正確に近い人の理解はその人と現実に会う事なのであり、この労力を怠ると自身も人も理解し得えず、記号(文字)だけを使ってやり取りするインターネットの世界は、初めから誤解と勘違いのるつぼなのである。

自分は青に近い緑だと思っていたものが、実は相手の話は黄緑だったと言う事態は容易に訪れ、ただの入れ物と化した大きな桶の中で自分を自分で都合の良いように泳ぎ、やがてそれが違っていたとなると、相手が裏切ったと思ってしまう状態に陥る。

また我々が使っている「緑」は現実を現している訳ではなく、その現実を記号化しているだけであり、今の現実から離れたところで使われた記号は、その離れた場に存在する新しい現実に従う為、記号は人間社会で絶対的なもので有りながら、極めて不安定なものなのである。

我々は目の前に在るものを全て言語や文字に表現できる。
時には心や情景、或いは幼い頃の思い出すら文字に現すことができるかも知れない。

しかし、それらは全てが記号なのであり、人間社会の取り決め、ルールによって現されているのであり、必ずしも現実の全てが現されている訳ではなく、むしろ記号を通して自分自身しか見ていないかも知れない。

つまり我々はあらゆる現実を記号に変換しながら勘違いした者同士が勘違いで理解したように思い、勘違いした社会や国家、或いは小さな単位で言えば友人、恋人、会社や家族と言うゲームを創り、その中で発生する価値観をポイントにして、一生懸命「人」と言うゲームをやっているのかも知れない・・・。

[本文は2015年6月3日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

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