「少数決」

「多数決」の原則は「調和」であり、「調整」に準ずるかそれに匹敵する政治的解決方法と言う事が出来るが、これは「公正」と言う権利の「平等性」に拠って担保される一つの形式的手法であり、そこで決定された事が正しいとも誤りとも、これを担保しない。

つまり多数決は問題に対する一つの解決手段であり、これに拠って公正な手法で総意は決せられたが、その内容は多数決で決まったから間違いないとは言えないのであり、この点で言えば多数決の原則はパソコンのプリンターのようなものであり、それに拠って出力された文書内容の正統性は担保されない。

プリンターが担保するのは起草された文書を間違いなく出力したと言う、その事実のみで、この信用性をして文書内容の正統性が担保されない。
そして日本に措ける憲法議論は、こうした多数決の正統性に対する認識に近いものを憲法曲解派、護憲派ともども勘違いしている点に悲劇の黎明を持つ。

多数決で決せられた事も、最後まで少数意見だった事も、その初めはみな発生してきた問題に対する少数意見を起源としていて、政治的社会的な不都合、受けるべき利益、平等、自由、権利と言う社会的仮想合理性に関し、問題が発生した場合のそれぞれの考え方から始まっている。

こうした相互の利害の延長線上に崇高な理想が求められるが、多数決で人々が多数に向かう背景には、崇高な理想だけではなく、人間関係や利害関係、個人の事情も含まれて多数意見に集積が始まる事から、実際に多数決で決せられた事項の運用に関しては曖昧性が付託していて、ここでは事情に応じて決せられた大義の中で解釈の拡大性を持っている。

多数決の中で少数意見を反映させると言う事は、こうした事も加味される事を言うのであり、ここで決せられた大義の解釈の妥当性は多くの人の「容認」によって担保され、結局多数決で決められた事とは最低ラインであり、その端末に行けば多数決以前と何も変わっていないのである。

人間社会が持つ理想とはプリンターのようなものであり、絶対性、完全な平等、完全な自由が求められている事から、それは現実に一致しない。
従ってこうした「容器」の中身、解釈は相変わらず個人の判断の範囲を出ず、ここで一部の権威者が自身等の解釈を強行した途端、多数決の手法そのものが崩壊する。

多数決の中で曖昧性を持って運用されていた事柄の輪郭をくっきり引いてしまうと、多数決そのものが無意味化し、多数決以前、つまりは意見が対立していた混乱の状況に逆戻りしてしまうのである。

日本国憲法を担保しているものはその権威だが、権威を認めているものは日本国民であり、この意味では日本国憲法を担保するものは日本国民しか存在しない。
そこであらゆる考え方が混在した日本国憲法と言う容器の中で、自身の意見のみを強行しようとする内閣が存在した場合、これは専横、準独裁となってしまうので有る。

日本国憲法が持つ権威と、内閣や国会が持つ権威の質は異なる。

この状況で内閣が独自判断を強行した場合、日本国憲法を超えて内閣が権威を発揮している事になるが、そもそも憲法は国家の基準であり、これを超えて権威を主張する事は憲法そのもの、容器そのものを否定し、為に国家が混乱をきたす事になる。

ましてこうした事態に、細かい枝則と言葉に逃げて解釈の拡大を主張するは、多数決で少数意見が乱立し混乱状態になっている、そこを異質の権威、武力で蹂躙したようなもの、力に拠る少数決となる。

国会や内閣は「手法」であり、こうした手法自身が自らの存在理由である「手法」を蔑ろにしてその権威は保てない。
安倍内閣の憲法拡大解釈は既に自身の権威を貶め、唯ひたすらに内閣や政治家が持つ権力の恐怖性に頼っている、或いはそれを実体以上に大きな力と信じているような愚かさが見える。

憲法は一つの思想、理想で有るから、時代の変遷と共に、または発生してくる現実に有っては調和が必要になってくるのは何等不思議な話ではない。
この場合はまた多数決、もう一度国民に意見を求めて、大まかな枠組みを創り直せば良いだけの事だ。

これを恐れて逃げ、多数決の原理やその枠組みを壊せば、枠組み自体が権威を持たなくなる。
「権利の平等性」は失われてしまう。

多数決は意見の調和であり、政治は意見の調整である。
国家の名の下に自身の思想だけを反映させようとするは、既に政治の範囲を超えている。
安倍内閣は世界的な一つの秩序である民主主義を蹂躙し、国家の為、日本の為、国民生活の安定の為と言いながら、これらの基本的な部分を崩壊させている愚かさに気付いていない。

そして国民もまた、どうしても文書に重きを置きがちだが、実は文書など何度でも書く事が出来るし、内容も如何様にする事も出来るが、プリンターがなければ、或いはそれを表示してくれる機物が無ければ、事は成立しない事実を認識する必要が有る。

憲法の内容など何とでも書けるが、これらを決定する為の枠組み、国民も政治家も共通するフレームを失っては、そもそも憲法を形にする事が出来ず、権威も担保されない。

改憲、護憲、様々な意見が有って憲法は成り立ち、この中で自身の意見を発言する事は重要な事だが、政治は調整であり多数決は調和である事に鑑みるなら、政治家はまず調整の努力を行い、国民はこうした調整と自身をどう調和させるのか、そうした努力こそがまず先決であり、対立する事をして、壁を設ける事をして自身の正当性を主張したり正義を実証しようとする事は、少なくとも国家と個人の利益にならない事を思うのである。

唯、調整の本質とは奇数の物の1つを、2つに分けた偶数のどちらかにくっつけて時をしのぐに同じであり、この点では永遠のものではなく、それはどこかで別の調整が必要になる時の種を撒いているに等しい。

調整に対する調和が限度を超えれば、社会は怠惰になるが、長くなるのでその話は次回と言う事にさせて頂こうか・・・。

[本文は2015年6月10日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。