「傘をさす」

ストレスは外的要因、心的要因のどちらでも発生するが、人科生物ではストレスが無い状態の時、自身が理由も無くストレス要因を作る、比較を行いストレスを探すと言う行動を起こす場合が有る。

この事から適度なストレスは必要性が有って発生しているものと考えられ、現代生物学、精神医学の世界では良いストレスと悪いストレスが在るとしているが、これらは本質的に善悪の判断と同じ事であり、どこまでが良いストレスか、どこから悪いストレスかの認識は個人に拠って異なる為、本来分離して考える事の妥当性は無い。

恋愛中の男女が言葉の行き違いで苦悩するのも、金策で苦悩するのも生体の反応は同じだからで、ただこうした現実をストレスとするかしないかと言うところがキーワードになる。
例えば運命の等価性を信じる人では、良い事が有った場合でも次には悪い事が起こるのではないかと心配し、そもそも運命もその等価性も信じない人は素直にこれを喜ぶ。

一方こうしたストレスの必要性に付いてだが、ここからは世界的な学説ではなく、私の推測になるが、「居眠りを防ぐ」為ではないかと考えられる。
平板な道が延々続く道を車で運転していると、天気が良ければだんだん眠くなってしまい、しまいには目的地に向かうと言う気力さえも失われてしまう。

しかしこれが曲がりくねった道で時々障害物などが有れば、まず眠ってしまう事は無くなる。
つまり人類や生物に取ってストレスが必要になる原因は、生きる事に付いて居眠りしない為の防御機能では無いかと考えられるのである。

遠い目標を目指すのはとても困難なものだが、それが階段のように小さく小分けされていれば気力を失いにくい。
この階段の役割を負っているものがストレスではないか、そう思うのである。

またこれはノルウェーの動物学者「Thorleif Schjelderup Ebbe」(トルライフ・シェルデラップ・エッべ)が発表した「Peking order」(ペッキング・オーダー)と言う説だが、ストレス解消の方式に関する劣化転換が動物界にも存在し、この意味では人間社会で悪と見做されている「いじめ行動」は動物の一つの本能かも知れない。

ニワトリのツツキ行動に関して、ニワトリの群れにはグループ順位が有り、Aと言う最高順位グループ、次席のBグループ、最下位のCグループが存在し、これはメスの獲得順位で有ると共にエサの獲得順位でも有り、ツツキ行動の順位にもなっている。

Aグループの鳥はBグループのニワトリをツツき、Bグループのニワトリは最下位のCグループをツツくが、最下位のCグループはツツく相手がいない、それで地面をツツくのであり、エサもないのに地面をツツいているニワトリはこのCグループなのである。

だがこれは生物界に措ける一般的な在り様であり、幼児同士の世界でも、大人の世界でも世界観が狭窄すると同様の傾向が出てくる。
広義ではいじめの連鎖の最下位に在る子供は地面、つまりは社会に訴えを起こさねばならなくなるのも、この範囲かも知れない。

従って怪我や殺人など実損害の発生しない、軽微ないじめの連鎖行動は生物界自然行動の範囲なのかも知れないが、人類はこうした部分の不都合を全て悪とし、撲滅しようとしてきた。

この点では人間社会は自然の中で傘を差して、自身らの文明社会を守ろうとしてきたのだが、人間社会の考え方と実際の自然の厳しさには隔たりが有り、文明の歴史が長く継続されると既存に絶対性が発生し、現実の厳しさは忘れられる。

為に今度は差している傘の中で矛盾が発生してくる事になる。
傘の差し過ぎ現象が現れてくるのである。

ニワトリの群れで言うなら次席順位のニワトリが最上位のニワトリに対して、その最上位ゆえにいじめを発生させ、それが順位決定さえ確定すれば後は問わないと言う許容性を失わせ、報復を恐れて苛烈な攻撃になる。

またこうして発生してくる苛烈ないじめの蓄積は絶望感を発生させ、それによって自殺するか、相手を殺すかと言うところまで追い込まれた状態が発生し、こうした傾向が蔓延すると、目立つ者は全ていじめの対象になり、一方人間を問わず他の生物でも自身が支配権を持つ場合は、そこに生物としての最低限の責任が存在するが、傘の存在はこうした責任の部分を幼児期に戻す役割を果たし、結果として自分が支配した対象者の命の重さが理解できなくなる事になる。

幼児期の子供は残虐性を持っているが、これは生物の幼少期の共通本能であり、成長してそれぞれの社会や世界観が出来上がると、全ての動物はその社会に従った生き方をするが、人間は幼少期から傘の概念、親が独善的な傘の概念を持っていると、幼少期の本能が成長してからの本能に乗りにくくなり、結果として目下の者を残虐に殺す少年少女が発生してくる事になる。

そして一番重要な問題は、学校と言う教育現場が児童生徒には細部にわたって校則を設け、それを厳しく守らせながら、こうした際限のないいじめや幼児性本能を引きずった非行型のいじめ、暴力に対して何ら抑制手段を持っていないと言う点である。

暴力こそが力で有ると学校が認めているようなものであり、では児童生徒らが守っている校則は何かと言う部分との整合性を失っているのであり、その矛盾した学校と言う社会がいじめを増長させている側面を持つ。

人の希望とはその反対側の事実が存在するからこそ発生するもので有り、ここで眼前の事実をしっかり見ていない希望は、おそらく将来の更なる大きな絶望になる。

教育が難しいのは親の代の誤りが、その子供の時代に問題となって現れるからである。

[本文は2015年6月15日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

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