「みんじゃ・おつぎ」

過去、台所や台所の周辺を意味する地方言語は、少なくとも14くらいは存在したものと考えられているが、昭和末期まで残っていた言葉に「みんじゃ」と「おつぎ」と言う言葉があり、このうち「みんじゃ」は現在でも東北地方の一部で残っているものの、「おつぎ」は既に言語としては平成に入って消滅したものと考えられる。

「みんじゃ」の語源は「水屋」に求め易いが、「水屋」とは食器や食品関係の家具を入れる棚、或いはおしいれ状の小型施設を差し、地方言語の用語解説でも「みんじゃ」の語源は「水屋」と推測されている。

しかし台所を差す「台」と言う表現は古くから成立していた言葉であり、水屋は同じ言語で別の意味をも複数現している為、「みんじゃ」と言う言語は古くから存在していた発音上の表現が「水屋」に当てはめらた可能性も存在する。

「みんじゃ」は東北地方から北陸付近で使われていた言語だが、「じゃ」と言う発音は不特定でありながら対象が指定される発音で、例えば「○○さん」とか「○○達」、「○○である」と言うような使い方をされる。
勿論「○○屋」と言うような使い方をされる場合も有るが、「屋」が変換された場合の意味は主にその家族や生業、出身などを差し、これは対象者自身が使う言語となる。

「○○である」や「○○者」と同義なのである。

この事から「みんじゃ」のもう一つの語源として、「水の複数形」の可能性も記録して置きたいと思う。
水道が出来る以前は自然水や地下水によって台所の水が賄われていた。
そして縄文時代には存在した円形の竪穴式住居では暖を取る場と煮炊きをする場が同じで、家の中心に存在していたが、やがて大陸から渡ってきた文明は四角い住居をもたらし、ここから暖を取る「囲炉裏」と「台所」は分離して行く。

それまで外に在った台所の水が家の中に入ってくるのであり、この事から「水の場」或いは「水の者」と言う単純形容が発生し、後に水の施設、水を売る商売や「水屋」と呼ばれる棚が出てくる以前から存在していた可能性が否定できない。
「水屋」と言う言語はかなり上品な言語なのである。

「屋」は中途半端な形容である。
例えば江戸時代を例に取るなら、大名や殿様なら立派な台所施設を持ったり、天皇家なら別棟の施設を持つだろうが、一般庶民は家の片隅にその設備が在り、この場合どちらも「屋」の概念はかなり補足的な感じになる。

茶道などの世界、または士農工商の制度の中で士農工以外の規模が出てくるのであり、この場合やはり「屋」はどうしても商家の印象が強い。
安土桃山時代の会合衆が「○○屋」を名乗り、茶道がこれに深く関係し、ここから「屋」は「家」や「城」「殿」の中間に位置する建物と概念されるようになった。

これよりは実際に水が家の中に入ってくる歴史の方が古いのである。

また「おつぎ」に関してはその語源は全く不明なのだが、「おつぎ」の概念は基本的には「みんじゃ」と区別された台所施設だった。
水の在る場所を「みんじゃ」とするなら、これを調理する場や、食事を頂く場を「おつぎ」と発音したケースが多いのであり、ここではどこかで水とは遮断された概念が有る。

その発音上から「次ぎ」のイメージが有り、武家や商家では水を扱う場と、それを盛り付けたり使用人が食事を取る場を区別したその名残とも考えられるが、一方味噌汁などの汁物を「おつけ」と発音する地域が存在し、またこの他にも「おつぎ」には女性や下働きの女性を指す場合も存在していた。

「おつぎ」の発音は強弱が均等だが、少しだけ「ぎ」の発音に強さが有り、この事から主題は「ぎ」に有るものと考えられる。
「みんじゃ」と「おつぎ」と言う隣接した同じ空間を、常時そこに何が有るか、何がいるかによって仕切った表現の片方が「おつぎ」だったのかも知れない。

もう一つ、食事中の方にはお詫びするしかないが、トイレの古い表現で「厠」(かわや)と言う言葉が有るが、日本各地でこれを「どおけ」と発音していた地域が点在していた。

これなどは昔、肥料に使うために大きな桶を埋め、そこに二本の板を渡してトイレにしていた、その桶を差していると考えても良いが、片方には「役に立たないもの」「愚かなもの」、少しニュアンスは違うが「たわけ」「ばか者」と言う意味も含んでいて、関西地方では「ばか者」の事を「だら」と発音する場合が有る。

そして北陸や甲信越の一部では糞尿を「だら」と発音していた地域が存在していた。

糞尿を溜める「どうけ」の表現が「たわけ」「だら」などと何となく繋がっている感じなので有り、この「だら」は全くのばか者ながら溜められ、場合によっては漁師町の人が肥料とする為に、金を出してまで買いに来る事すら有ったのである。
ちなみに同じ「だら」だが、愚か者を指す場合は「だ」「ら」それぞれどちらかの発音が強くなり、糞尿を指す場合は「だ」も「ら」もほぼ均等な強弱の発音と言う、発音上の区別が存在していた。

空間は物理的なことのみで仕切られるのでは無く、そこに存在するものによっても仕切りを作る事が出来、それは相互に約束が認知され守られる事で成立する。
我々人間は物理的な壁以外に色んな壁を作って生活しているが、言葉や約束が平気で反故にされる現代に在っては、自分を守る壁は容易に作れても、皆が共通して約束を守る事で出来る空間の維持は難しい。

「おつぎ」などと言う言語が消滅するのは当然の事だったかも知れない。

更に単体なら全く役に立たないもの、どちらかと言えば忌み嫌われるもので有っても、集めれば貴重な資源になったり、利益を生むものが有る。
全てに合理性を求めると、基準以下は全て無駄な事になってしまうが、この基準そのものが非合理的なもので有る事を我々は省みない・・・。

さて、「だら」な話しやったかも知れん。
そろそろ田んぼの水を見にでかけようか・・・。

[本文は2015年6月24日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。