「夢で神が・・・・」

円はどれだけ大きさが違っても形は同じとなる。
これを「相似」(そうじ)形と言うが、円に措けるその周囲の長さと、直径の比率には常に一定の法則がある。
この一定の比率法則を「円周率」と言い、通常は「π」で表されるが、円に関してその面積や周囲の長さ、または直径を知ろうとした人類は、初期の頃、円周率を実際の計測から求めていた為、その数値には幅があった。
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「3」や「3・16」と言った古代の円周率は計測数値による不確定さがあったのだが、歴史上初めて円周率を計算式から求めたのは「アルキメデス」であり、彼は円の内側に内接する正96角形の辺の長さの合計はπより小さく、同じ円の外側に接する正96角形の辺の長さの合計はπより大きくなることから、πの数値をほぼ3・14と計算した。
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以来世界各国のあらゆる時代の数学者達はこの円周率が有理数なのか、つまりいつかは割り切れる数字なのかどうかを巡って、またより細密な近似値を求める方法を探って行ったが、日本では1722年、正1024角形から、収束していく数列の性質を用いた「加速計算法」を使って、小数点以下42桁までの円周率近似値を求めた者がいた。
「関孝和」「建部賢弘」の2人はそろばんで、小数点以下42桁までの正確な円周率をはじき出していたのである。
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そして1882年、「フォン・リンデマン」は「π」が「超越数」であることを証明し、ここから円周率の計算は、人間の手の及ぶものではないことが分かったのであり、以後も現代に至るまで円周率は機械、コンピューターによって計算され続け、現代では1兆桁を遥かに超えるところまでその近似値は求められているが、ちなみにこうした円周率上の数列で、1から9の、どの数字が一番出て来るかと言えば、これが面白いことに均等な比率で出てくるのである。
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更に例えば1円を年利100%で借りたとして、毎月複利なら1年後には返済額が(1+1/12)12 円となるが、これが半月複利なら(1+1/24)24 円となり、1日複利なら(1+1/365)365 円の返済額になって行く。
こうして複利の回数が増えていくとどうなるか、勿論返済額が膨大なものになる事は勿論だが、ここに元利の合計が一定の数値に近付いて行く現象が起こってくる。
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これが「e」、すなわち「自然対数の底」と言われる数値であり、近似値は(2・718281・・・」となる。
数学者のジョン・ネイピア(1550-1617)は、こうした自然対数を全く無意識に使っていたと言われ、それゆえ「e」の数値は別名「ネイピア数」とも呼ばれるが、更に凄いのは、何の数学的教育も受けていないインドの天才数学者、「シュリニヴァーサ・ラマヌジャン」(1887-1920)であり、彼は「ネイピア数」「e」に関して驚愕すべき公式を多数残していた。
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数学とは一般的にややこしい計算がでてきて、大変面倒だと思われるかも知れないが、実はその根底に潜むものはインスピレーション、または美的感覚と言うものかも知れない。
「シュリニヴァーサ・ラマヌジャン」は当時こうした素晴らしい数学理論が、どうして無学な彼から発生してきたのかに付いて、自身でこう語っている。
「夢で神が教えてくれた・・・」
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 岡潔は、情緒が重要で、「野に咲く一輪のスミレを美しいと思う心」と言い、藤原正彦は、それに足して「数学を遣る上で美的感覚は最も重要で、偏差値よりも知能指数よりも、はるかに重要な資質」と言っている。今は成文法で違法じゃないと、どんな汚い事を遣っても良いらしいが・・
    今電車の中で、色んなパズルを解いている人が居るように、江戸時代には和算の問題集が多数出版されて、勉強・遊んでいる人が沢山居た、って聞いて、もしかしたら日本人は賢いのかも(笑い)。
    そのインドの天才数学者は、ナマギーリ女神に教えられた「定理」を次々に発表していたが、夭折した。現代の怪しい政治家は常人には理解不能なとんでも定理を捲し立てて、コクミンを愚弄して居るが、身体だけは丈夫(笑い)。
    平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、自分の平和と生存を保持しようとすれば、語源と成っている、9世紀のイランの数学者の亡霊が出て来て、それは、アルゴリズムが違う、と言いそう。

    未だ存在に疑問がなかった頃は平気だったのですが、πが「超越数」で有ることが理解された時は、そんなはずはなく、自分は間違った次元に生まれてしまった、多分、何処かにπが、3.14じゃなくても何でも良いのだけれど、ちょっきりした価の世界が有るに違いないと思おうとしていた。そっちはそっちで、別の問題が有りそうですが。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      πやなどの超越数は、例えば円を視覚的に見る場合、その面積は視覚的な理解が為されていて、でもこれを数式にすると最後まで表現できないと言う事なのかも知れません。同じように200桁×200桁のランダム数字の掛け算を視覚的に理解する人間も存在する訳で、この場合答えは勝手に頭の中で浮かんでくる事になります。人間の理解は多くのフレームを持っていますから数学もその一つですが、これが絶対的なものと言う訳ではなく、人間のフレームは互換性が有り、その意味では我々の脳は数学も怪しげな占いや宗教観も入り組ませて物事を見ている。数学のフレームに第六感のフレームが入って来る事も容易に有り得るだろうと思います。πは外形寸法が見えていながら中は暗闇の箱、この暗闇を見れば超越数ですが、外形寸法はπと言う確定で、ハシビロコウ様が思われるπの概念も間違っていると言う訳ではないように私は思います。
      それにしても「美しさ」と言う意味では、今の社会はこの言葉を多用しながら、中身は汚物状態と言えるかも知れません。金箔張りの邪鬼像のような参議院候補・・・(笑)

      コメント、有り難うございました。

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