「プライベート」

フィルム写真時代の話で恐縮だが・・・。

少し遠くに住んでいる友人の所へ遊びに行って帰ってから1週間ほど経ってからだと思うが、その友人からこんな電話がかかってきた。

「この間の写真、フィルムともども売って欲しいと言う人がいるんだけど、いいか」と言われた私は暫く何のことか分からず、友人の説明を聞いてやっと事の次第が理解できた。
そう言えば遊びに行ったとき、鉄道マニアでもあるこの友人と2人で廃線になる駅の撮影に同行し、愛用のニコンで20カットほど撮影したのだが、その内この駅でイベントに参加していた人を撮影したカットがなかなか良いと言うので、現像したポジフィルムを友人のところに置いてきたのだった。

友人はそれをプリントし、自分の写真と一緒に地元で写真展を開いていたのだ。
だがそれがどうしてフィルムともども買いたいと言うことにつながったのか分からなかったが、友人曰く、私の撮った写真の中にカップルがビールで乾杯していたカットがあって、これを展示していたらどうもこの女の子の方が高校生らしく、しかも友人の住んでいる所で議員をしている人の娘さんだったと言うのだ。
だが私はこのカップルから撮影の許可を得ていたし、まさか高校生とは思っていなかった。
この議員の支持者の人が偶然友人の写真展を見に行って写真を発見、すぐこの娘さんの母親が現金入りの封筒を持って友人宅を訪れたと言うのだ。

いやはや何とも・・・の世界ではあった。
「そう言うことなら金はいらないし、すぐフィルムを渡して、写真はすぐ撤去できるのか」と尋ねた私に「どうしても金を受け取ってくれって言うんだ、そうしないと安心できないらしいんだ」友人は困った声で答えた。
仕方なく友人宅にいるこの母親に直接電話で10分も話して納得して貰い、どうにか金を受け取らずに済んだ。
それから友人は慌てて写真を撤去し、どうにか事なきを得たのだった。

しかし、この娘さんの母親は凄い人だった。金を受け取ってくれなければ、どうしても私を信じることが出来ないと言ったのである。
気の毒だが、この人は旦那が議員をしていても、周囲にはそう言う人しかいないと言うことなのだ。
だから友人も私も自分達はそんな人間ではないと言っても、聞き入れて貰えない勢いだった。
それに基本的には高校生にもなった子どもがたまに羽目を外したくらいで、議員が責められると言うのもおかしい話である。
議員は議会で職務をまっとうすれば問題は無いのであって、プライベートで娘が羽目を外したことがそれほど重要な問題だろうか。

これは政府でもそうだが、そもそも国民が豊かで、それが代議士や官僚達の働きでそうなっているものなら、たまに料亭で宴会しようが、天下りしようが特に問題にならないのである。
それが庶民は貧しく政治家や官僚達だけが優雅な感じだから国民に責められ、それをカバーするために私生活まで細心の注意を払って暮らさなければいけなくなるのである。

私達は政治家に何を求めているだろうか。
性格の良さ、人柄、正義感、弁舌の美しさ・・・そんなものだろうか、それよりもっと大切なのは私たちが豊かに暮らせて、子供達にもそれが続くように仕事をしてくれることではないだろうか。
失言がどうこう言うレベルで言い訳している国の代表は、見ていても辛い気がしてしまうし、金で解決しようとしたこの地方議員の妻より、方法はともかく覚悟が足りない感じに思える。

昔のことになるが、フランスのミッテラン大統領に「隠し子」疑惑が浮上した時、空港で待ち構えていたゴシップ大好きなイギリスの放送局BBCの記者が、「ミッテラン大統領どうなんですか」と大統領に詰め寄ったところ、「ああ、いるよ(隠し子)、大きくなってるよ」とあっさり認めて、スタスタ行ってしまったのである。
大統領の隠し子は19歳だったが、取材していたのは全て海外メディアだけで、チャンネル「2」の記者たちはこの海外メディアを逆取材していた。
フランスでは例え大統領と言えどもプライベートは個人の自由で、それに干渉しないと言う不文律が確立していて、フランス国民にとってはミッテラン大統領に隠し子がいたぐらいのことでは、スクープどころか何の問題にもならなかったのである。

この時のミッテラン大統領は実にカッコ良かったし、フランスと言う国がとても大人に見えた。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

6件のコメント

  1. その人は、お金を受け取れば、同じ穴のムジナ、って言うことで担保が欲しかったのでしょう。
    お金を貰っても、条約を結んでも、自分の都合で、勝手に約束を反故にして、要求を上乗せしてくるのを常套にしている大多数の民族(笑い)には、日本人は、長い間騙されて来た、これからも騙され続けるだろうけれど、自分の標準でしか、ものを見られない人々は、多い。
    ミャンマーのノーベル平和賞受賞者は、ロヒンギャを弾圧しても未だに、日本じゃ人気者だが、再出発の時に、日本からの円借款¥5000億を棒引きにしたが、政治家の小さな個人的なことには、小煩いのに、弱い者苛めや借りた金を返さないと言う、本源的な事については、とっても寛大鷹揚~~♪
    自分の税金なのに、見えないのは無反応、見える不倫には嫉妬心丸出し~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      私はこの話の中に出てくる母親のような人が基本的には嫌いではないだろうと思います。金と言う価値観を守るなら、むしろ普通に道徳的な事を言う人間より遥かに信用できる。またそこまで「金」に拘る在り様の覚悟も悪くない。
      一般的な人間は自分がどうにか出来る時は綺麗な事を言えるが、それが自分の処理能力を超えると逃げるし、以前の自分を肯定しながら「仕方なかった」で否定する。しかし、これを信じた者は相変わらず信じ続けてひどい目に遭わなければならなくなる。優しい者、綺麗な事を言う者のやることは、最後は最もむごい仕打ちになる、と私は信じているのかも知れません。
      今の日本人は結果から言うと「ヒマ」なのだろうと思います。だから自分のことは棚に上げて人には厳しい。これも高齢化社会の弊害か、或いは情報通信速度の高速化の弊害か・・・・。

  2. 二十数年前、パキスタンのペシャワール(多分、パシュトン語で国境の町と言う意味)当時はNWFP州(北西辺境州という凄い名前~~♪)と呼ばれていた州の首都)の現場にいたのであるが、或る部屋をパンジャブ州から来た大工が改修の工事をしていて、運悪く、工事で止めていた天然ガスが漏れていて、天井裏に貯まっていた、それが爆発して、1人が重傷を負って、数日後に死亡、実はその爆発の1時間ぐらい前にその部屋で、発注者ではないが、早く工事を進めて貰うように、何回目かの全く通じない言葉でお願いしていたが、こう言うときは、ご存知の方も多いと思うけれど、お互いに違う言語を話していても或る程意味は通じるものだ~~♪
    自分の仕事の進捗の報告書のために写真は適宜撮っていたのであるが、その大工も、壁に指名手配の人相書きのようにして、撮って数枚渡していた、彼らはカメラなどは持っていないので、写真は喜んで貰えることが多かった。余談だが、警備やその他の人も、大変喜んでくれて、お茶の誘いも多く、それなりに楽しい場所だった~~♪
    葬儀に使いたい言うことで、非常に持って回った言い方だったが、現地語は相当に洗練された言葉なのだろう、関係するネガを全部進呈した。暫く後になって、良い写真で葬儀が出来て、大変感謝する、と言う言葉も貰った。
    その大工は30代で、子供が二人と言う事であったが、可哀相なことに成ったが、モスレムは「彼はそう運命付けられていた」「神に召されたのだ」そんな感じで受け止めていた、と言う事だが、迷いの多い仏教徒としては、そのまま受け入れるほど、未だ達観していない~~♪

    1. また今や写真はデジタル化して気軽に撮れるようになりましたが、20年位前だと良い写真はそう簡単ではなく、カメラそのものも決して安くは無かった。
      それゆえ海外でカメラを持ち歩くときは注意が必要でしたし、絞りやシャッター速度、ピントで写真は激変する。そもそもその瞬間に立ち会わねば写真は撮れない。結果として良い写真は「インシャ・アッラー」に辿り着く訳です。
      日本人の死の概念は少し「生」に傾き過ぎているかも知れません。少し前になりますが、ある葬儀に参列した折、読経が終わってから遺族の意向で編集された故人の写真やビデオなどが延々40分間も流され、それは読経の時間を越えていました。これなどは「私はこんなに悲しんでいるし、遺族を大切に思っていた、お前らも共有しろ」と言っているようなもので、死は基本的に本人だけの問題、他者には全く関係のないものである故に、それを悲しんでくれる事を有り難く思う事が忘れられている。「生」に傾いた「死」の概念とは傲慢で不遜なものになります。「神のおぼしめし」で済ませられる人の心は謙虚と言えるだろうと思います。

  3. 日本人は、真面目で環境が論理上は変数に満ちていても、社会制度が整っていて、最も変わる1個ぐらいの変数を分析すれば、全体の動向が分かりやすい、という幸運に恵まれている事もあるが、実は大きな欠点も有って、その事案の本来的目的・意義に付いて、実は周知されずに、乃至は同床異夢で、議論されることもなく、やや目立つ本質以外の、些末な自分にとって理解しやすい事ばかりに意識が移り易く、結果としては、どうでも良いことに延々と時間を費やして、不毛な議論の袋小路から抜け出せなくなり、問題は勿論解決しないで、自分が遣っていることの意味さえ失う事が多い。
    獣医学部新設に於ける「忖度」は好例だろうと、そもそも忖度など言うことは、どうでもいい話で、こんなのは型式が整えば良いだけで、駄目なら不認可~将来廃校だけの問題、それより、学力不足~定員割れ~存続の危機にある全国2~300校に登ると言われる大学の存在意義や、廃校にする計画などが喫緊の案件なのにみんな見て見ぬ振り・・多分投票行動に余り影響が無いことは、問題化もしないと言う普通選挙に依拠する民主主義の陥穽だろうと思われる、「取りあえず大学へ」は忘れた方がよい、自分は大学受験資格試験が悪いとは言わないが、激烈な競争下で普通に勝ち抜いて人間的に生きて来た方を信頼する~~♪

    1. 日本の政治や行政、一般的な傾向として、どうしても議論が枝葉に執着してしまう諸因の一つに、権力の分散と言う流れがあるだろうと言う気がします。権力は一つに固まっていると大きくて強い、そして責任もそれに比例して大きくなる。これを分散してしまうと責任は小さくなり、その小さな責任の中で自分の意見を言うなら議論は枝葉にしかならない。格差是正、差別撤廃、平等、自由などの民衆の概念はおぞましい。大学の問題などは既に始まっていて、各大学は必死の生き残りをかけて補助金を得ようと形振り構わない行動に出ています。その一環が地方の田舎を利用した産官学の提携で、これに拠って既に枯れてしまったバラを再生するプランが、学費を親から出してもらっている責任の無い学生に拠って出され、それらの大たわけが将来は地域協力隊となって自分は生き残り、その地域は破壊する。偽りの救世主とは良く言ったもので、聖書はその意味では最も有用な経済学の書と言えるだろうと思います(笑)

      コメント、有り難うございました。

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