「私、殺し屋ですのよ」

1960年から70年代は一つの見方として「SF小説の時代」だったと思う。
勿論こうした時代、リアルタイムにそれを体験できたわけではないが、私はこうしたSF時代の後半を、かろうじて体験できた世代だったと思っている。

始めてSF小説に出会ったのは小学校の図書室だったが、ここに置かれていた「さまよえる都市宇宙船」と言うローバートAハイライン作、福島正実訳の本は、故郷の星が滅亡して新しい惑星を探す為に旅をする人達の話だったが、読んだ後青空が本当に美しく見えたものだった。
ロバートAハイラインはこの他にもたくさんのSF小説を書いているが、その中で「夏への扉」と言う本がある。
この表題はレイ・ブラッドベリの「何かが道をやってくる」に匹敵するほど表題としての美しさがある。

この頃日本ではSF小説全盛期を迎えていたが、小松左京、筒井康隆、豊田有恒、星新一、平井和正などそうそうたる作家が輩出され、奇想天外、SFアドベンチャーなどの雑誌でも次から次投稿を募集し、新たな作家が誕生していた。
私がSF漬けになっていた頃は、こうしたSFブームが既に下火になっていた頃だと思うが、高校へ入った直後に出会った1人の同級生の出現でこれは破格に加速されていった。

その同級生との出会いはデッサンを通してだったが、私は小さい時から何か物を見たとき、それが頭の中では黒い板の上にガラス板があって、そこに白い線で画像が投影されるように見えることがある、と話したところ、彼も全く同じものが見えていたことを知って仲良くなった。
そして彼のデッサンは天才的だった、だから遠く私の及ぶ所ではなかったが、一方的に私が彼をライバルだと思い、競い合い、その中で彼もまたSFファンであること知った。

当初私達は張り合うように「あれは買った、あれは読んだ」とバラバラだったのだが、いつしかお互いに「あれはお前が買え、これは俺が買う」と言う具合に共同戦線を張っていくようになり、小遣いやバイト代は殆どこうして本と映画、そして絵の具で消えて行ったが、本も単行本が買えた訳ではなく、文庫本しか買えなかった。
でも私達は少なくともこの時代までに書かれたSF小説は殆ど読破していると思う。
そしてその中から、今にして得られたと思うものは、「すべてのものを平等に扱おう」「物ごとの展開は必ずしも決まっていない」「いつまでも夢を忘れずに、闘い続ける男でいよう」と言うことだった。

アイザック・アジモフが唱えた「ロボット三原則」はその後の映画AIや、マトリックスでもその中で引っかかってきていたし、
こうした普遍性のある問題は何も変わらず、人と言うのは周期的に希望と絶望の時期を持つものだと言うことも、おぼろげだが見えて来たように思う。
1970年代は破滅、終末思想が蔓延し、映画でも核戦争で人類が滅んだり、食糧危機で人肉を加工して食べるシステムが・・・と言う話が出てきたりで、「ソイレントグリーン」「ローズマリーの赤ちゃん」「赤ちゃんよ永遠に」「猿の惑星」など見終わった後生きているのが儚くなってしまうものが殆どだった。

だがこうした中でひときわ異彩を放ったのが「星新一」だと思う。
ショート・ショート言う、長くても2,3ページで話の展開が完結するこの超短編集は小松左京、筒井康隆、平井和正も書いているが、こうした巨匠の中でも星新一は別格のものがあった。
地球最後の1人となった男が宇宙に向けて花嫁を募集、そして綺麗な女性からコンタクトがあり、彼女もその星で最後の人だと言う、お互い会うことになるのだが、彼女は50メートル。
宇宙で救助活動している男、遭難信号をキャッチして現場に向かいながら、遭難者と話をして彼を励ますのだが、話しているうちにその遭難者が妻の浮気相手だと分かってしまう・・・さあこの男はどうするだろうか、読んだことの無い人は今すぐ書店へ走って結果を知って欲しい。

少し哀愁を帯びた美男子、当選した景品を届けに来た宅急便のドライバーは、倉庫がそうした景品で満載されているのに驚くが、彼の妻らしき女は見た目も綺麗でなければ、性格も横柄、さあ、この美男子が彼女といる訳は・・・。
「わたし、殺し屋ですのよ」と言う女の本当の職業は・・・・。
星新一の回し者と呼ばれても構わない、これで気になった人は一刻も早く書店で星新一を探して欲しいと思う。

私は中学生の頃、この星新一にはまり、新刊が買えると食事も忘れ、寝るのも忘れて読みふけった。
大体金が入るとまとめ買いをするので、何冊も朝までかかって読んでいたが、それでも楽しかった。
星新一のショートショートは具体的な個人名が出て来ない、SとかN氏とかで、殺人描写がなく、性的描写もないし、短くて飽きないどころか、その奇想天外な展開は笑うか頷くかのどちらかである。

星製薬取締役代表、星新一は製薬会社の御曹司だったがこの製薬会社は倒産、彼は机に座り、毎日こうして非日常的な世界の空想に逃げるしか自分の居場所が無かった。
だが、こうした星の空想は文章として世に出た時、多くの人を感動させ、多くの人に希望を与えたと思う。私もその1人だ。
日本文学の最高傑作は「竹取物語」だと思っている私は、この作者を紀貫之(きのつらゆき)だと疑っていて、そうあの十六歌仙、八歌仙の1人の名歌人だが、彼でなければあんなとんでもない、月星人と地球人が女を巡ってあわや宇宙戦争、という話を終わらせた後のあの静けさ、あの余韻の無さを表現できないと思っていて、同じように読み終えた後のあの静寂感から、星新一のショートショートもまたこれに匹敵するものだと考えている。

残念ながら既に亡くなられたが、今日私がこうしてものごとを考える時の基盤となっているものの大半は、もしかしたら星新一と言う人のものかも知れない。
それほど星新一の影響は大きかったし、私と同じように、この本を読んで育った人もとても多いと思う。
既に過去の時点で読まれた人はもう一度、若い人にも是非お勧めしたい一冊である。

ちなみに本文とは全く関係ないが、少し前に「世界の中心で愛を叫ぶ」と言う映画があったが、30年ほど前「世界の中心で愛を叫んだ獣」と言う表題のSF小説があったことを知っている人はいるだろうか。
まあ若い作家が書けばこうしたこともあるとは思うが、それにしても誰も気づかないと言うのも、30年前の著者にしてみれば淋しい話だと思う。

「正法眼蔵を見よ」

空海は生と死、生と滅の実際をこのように現した。
三界の狂人は狂なることを知らず。
四生の盲者は盲なることを識らず。
生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く 死に死に死に死んで死の終わりに冥し・・・・と詠んで、「生をあきらめ死をあきらむるは、佛家一大事の因縁なり」と「道元」は続けた。

道元の母は、もと左大臣の藤原基房の娘で旭将軍、木曽義仲の縁者でもあり、父は権力の中枢にいた関白、久我通親(こが・みちちか)であったが、道元3歳にしてこの父を失い、8歳にして母も失った。
「我れ始めてまさに無常によりて聊(いささ)か道心を発し」と言う言葉には権力闘争をまじかに体現し、氏族の興亡を目の当たりにしてきた道元自身の無常観がそこに現されている。

時は栄華を誇った平家一門が源頼朝軍に壇ノ浦で破れ、西海に安徳帝を抱いて滅亡してから18年、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・」の平家物語、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず・・・」の方丈記、鴨長明(かもの・ちょうめい)の時代で、この鴨長明が没した頃、道元は比叡山で修学中であったが、西行の無常観は高い山から海を臨むような大局的な無常観、鴨長明は河の岸辺から無常と言う流れを望見しているのに対し、道元のそれはまさに「無常と言う河の流れの中、海のなか」にいる無常観であったように思う。

そして道元の仏法(教え)は始めから終わりまで無常が根底にあり、「無我」をして貫徹されていて、例えば仏教の歴史や経緯と言ったものは一切排除され、釈迦の教えを「いま」「ここで」が説かれている。
だから、その表現に置いても、言葉としての清らかさと、そこに絶対こうだという力が満ち溢れている。
「そも、仏法の・・・」と始まるその口調は決定していると言う意味であり、そこに道元の心と祈りがあるのだ。

また道元の根底には「人は理で仏法を信じるのではない」と言う思いがあったのではないだろうか、飢餓の苦しみにある者が求めるものは「教え」ではなく、一杯の水であり、一握りの米であろう、死に臨んだ病の者に「教え」や「理」では間に合わない。
そこに求められるのは仏の優しく温かい御手ではなかっただろうか、そしてそれらは基本的には「神」としての概念を持ち、永遠の存在として信じられてきたが、観世音菩薩しかり、地蔵菩薩しかり・・・・しかし、こうしたものは例え心の安らぎにはなり得ても「生きる力」にはなり得ない。
即ちここに道元があるのである。
「いま、ここで救われない者は、どこで救われると言うのか、自分以外に誰が救うと言うのか・・・」彼はそう問いかけている。

観世音菩薩や地蔵菩薩、その他現世に置いて御利益があると信じられてきた対象は、所詮ただの幻想に過ぎない事は仏法の原則である「諸行無常」「諸法無我」によって明白になっているが、この二つの大原則には問題があって、その問題を問題たらしめるものが仏法にあるのではなく「人間」にあるとしたのである。
人は、特に世俗はこうして「神」の如く永遠かつ万能な仏を信じると共に、内なるもの、つまり自身の最も深い所においての自身に善なる存在、神や宇宙に通じる大いなる生命を持つことを信じ、こうした古いインドで主流となった考えから、苦行をしてあるいは禅で煩悩に満ち溢れた「肉体」から、欲望から解放されようと考えるのだが、
その実体が冒頭の空海の言葉である。

つまり何も無いのだ。
永遠の存在であるもの、現世で見ているような仏も神も無く、自己存在の根拠、自己が存在する理由としての内なる自分、大宇宙と繋がる自分もまた存在しないのだ。
だから人は生きること、存在することに根拠など無いのであって、ただ生まれて死んでいくだけなのだ。
これは言葉で書けば何となく分かったようになるかも知れない、しかし人は滅び行くことを知っていて尚、その根底に「永遠にかかわる何か」を求め、信じようとする。

人は、感情や情緒の中で「無常」に付いて知る事ができるし、理性や言葉として「無常」のなんたるかも心得ている。
けれど「生の事実」は「生について」の感覚や情緒でもなく、理性やことば、観念ではない。
それは私たち自身、直接の私たち以前の事実なのであり、「死ぬことを忘れていても、みんな死に」になっていくのである。
かかる「生の事実は」また「死の事実」でもあり、「生と死」「生と滅」は理性や知識以前における自己存在の真相なのである。

私は以前に書いたかも知れないが、無神論者の仏罰男なので、一切の宗教は信じていないし、死んだら角膜、臓器の殆どは病院へ寄付されることにもなっている。
だから死んだら、その後の事は私自身「知ったことではない」事になっているが、このブログのどこかで書いた「葬式」では「死は何も考えずに素通りできる人間ほど良く知ることができる」と書き、ホテルカリフォルニアでは「人は何故・・・・」と書いてしまった。

道元が指摘した大衆の誤りを、絵に描いたようにやってしまった訳だが、前から思っていたが、これで私の凡夫(愚かな普通の男)ぶりは充分自覚できた。   そして、これで満足だ・・・。

「バミューダ・トライアングル」

今日偶然だが、懐かしい記録を見つけた。
2008年12月17日付けニューヨーク発、共同通信によると、アメリカ東岸イギリス領バミューダ諸島の南1200キロ付近で、12人が乗った旅客機が15日から行方不明になり、アメリカでは「魔のトライアングル」に遭遇したのではないかと話題になっている・・・と言うものだ。

アメリカ、ノーフォーク沖の大西洋上にバミューダ諸島と言う島が有り、この付近を中心とした三角形の海域では船や飛行機が忽然と姿を消したり、突然正体不明の船が現れたりして、昔から「謎の海域」とされていた。
四次元に通じている、磁場の異常で次元転移を起すなど、想像逞しくいろんな説が流れたが、確かにこの地域での遭難は多く、その殆どが全く何の連絡も無く突然姿を消していることから、長年世界の七不思議に数えられていた。

そうした不思議な事件の中でも、スティブン・スピルバーグとジョージ・ルーカスが世界に衝撃を与えた映画「未知との遭遇」で、最後宇宙人の船から解放される第2次世界大戦当時の兵士達の場面、何故彼等が宇宙人によって現代に開放されることになったか、その元になった事件を少し紹介しておこう。

1945年12月5日、フォート・ローダーダール海軍航空基地を出発した6機の軍用機、(乗員27名)はフロリダ上空での飛行訓練へと向っていた。
2時01分、訓練は順調で、管制塔にも「飛行状態良好、これより訓練に移るため暫く連絡を中止する」と無電があった。
この訓練にはかなり腕のいいパイロット達が搭乗していた。

3時45分、訓練終了間際のことだった。
突然管制塔にメーデーの無電が入る。
「管制塔、管制塔、こちら指令機。現在位置不明、進路不明」
「陸地が見えない。我々がどこにいるのか見当が付かない」
「こちら管制塔、雲に突っ込んだのか?他の機はどうした」
管制官は必死で呼びかけた、しかしそれに対する返事は「ガーガーガー」と言う雑音で、応答が無い。
それから暫く無電は途切れたが、5分後に今度は飛んでいる訓練機同志の連絡がキャッチされた。
「司令機から5番機へ、こちら指揮不能に付き、5番機より指揮を頼む・・・」
管制塔は明らかに異常が起こったことを察知し、何とか連絡を付けようと試みる。

「司令塔より司令機へ、応答せよ、応答せよ」だが、どうしても連絡は取れなかった。
4時45分、帰着時間はとうに過ぎていた。
不意に連絡が入る「どこにいるのかはっきりしない・・・・基地の北東360キロ?・・・」
そして「見ろ、我々がいるところは・・・・」
という驚愕の声がして、後すべての会話は途絶え、空電だけになった。

ただちに大型マーチン飛行艇が13人の搭乗員と救命用具を積んで救助に向った。
しかしこの飛行機も5分後に連絡が取れなくなってしまう。
こうした事態に大型空母「ソロモンズ」をはじめ、21隻の艦艇が遭難海域を捜索、300を越える航空機が空から、12の捜索隊が陸から付近一帯を探索したが、破片1つ、油の痕跡1つ見つからなかったのである。

後に海軍査問委員会は次のように報告している。
「この件に付いて、原因、事態が何であったのかすら誰も理解できなかった」
この地域ではこれまで30機に及ぶ航空機が跡形も無く消失しているが、いずれも事故究明委員会がその説明すら出来ないままになっている。

スピルバーグとジョージ・ルーカスはこの事件を映画の中で解決し、現代の兵士達に彼等を丁重に扱わせていたのである。

2008年12月15日からこの付近で行方不明になっている旅客機もどこか未知の次元に迷い込んでしまったのだろうか・・・。

「空から恐怖の大王が・・・」

今日の夕方、6時を少し過ぎた頃、長女を迎えに行った帰り、道路は東側へ向っていたのだが、目の前を緑色の大きな星が上から下へ落ちていった。

一番最初に考えたのが、北朝鮮からのミサイルだったが、それにしては形や色が緑色と言うのはおかしい、それで次に考えたのが流星だったが、大きさが半端ではない、この間まで綺麗に大きく見えていた、金星の10倍はあろうかと言う明るさで、流星にしては落下スピードが遅すぎる。
それに曇り空だった。
飛行機のライトかとも思ったが、飛行機のライトでこの距離なら音がしているはずで、しかもああ言う角度で落ちていたら間違いなく墜落だ、ついでに飛行機の点滅灯で緑はないし、第一点滅していなかった。

同じものを車の中から見ていた長女は「UFO」だと騒ぎ、家へ帰りつくと家族みんなにUFOだ、UFOだと言って歩いたが、醒めた顔で長男が「火球」では・・・と言い始め、、それも考えられるな、とも思ったが、それにしては球形ではなかったこと、始めから終わりまで光の強さが同じで、突然消えてしまったことなどから、やはり正体不明ということは変わらなかった。
火球とは流れ星と基本的には同じだが、大きくて燃え尽きなかった宇宙の塵が、地球の大気で燃えて、それが球形に見えることを言い、その塵の成分によって緑色のものと赤いものがあるが、私と長女が見た光は形状が5角形で、火球よりはるかに明るかった。

相当大きい流星ということも考えたが、もしあの大きさで流星なら、大気圏突入時に大きな「どーん」と言う音がしているはずである。それに大きな流星なら尾を引いているが、とても大きな星がパラっと落ちていくような感じだった。
では長女の言うように、UFOかと言うと、これはこれで疑問だった。
動きが、貼ってあった星の飾りがぽろっと落ちたような動きで、それはUFOのような物理的に理不尽な動きとも言い難いのだ。

早速気象庁へ電話して他に同じ目撃例がなかったか確認したが、同じ目撃例はなく、家族には「どーん」と言う突入音が無かったか聞いたが、誰もこうした音を聞いたものはいなかった。
近くの天文台にも確認したが、こちらは閉館時間後で、留守電になっていた。

「んー・・・気になる」
そう言えば昔私がまだ小学生の頃、中学生のお兄さんやお姉さんが「あんた達私達より若くして死ぬんだよ、かわいそうにね」などと言って、五島勉の「ノストラダムスの大予言」の話をしてくれたが、それによると「1999年、空から恐怖の大王が降ってきて・・・」人類は滅亡するとか言う話だったが、せいぜい4、5年しか違わない割には随分同情されたもの言いで、今に至っても死んでいないところ見ると、こうした予言は外れたらしいが、ああ言う本を書いた著者は今ごろどうしているのだろう。

しこたま稼いで、タヒチとかの白い砂浜、褐色の肌のお姉さんからトロピカルドリンクなど渡されているのだろうか。
だとしたら随分な話だが、この正体不明の光を見て、もしかしたら天変地異の兆しか、少し遅れて大予言が来るのか・・・などと一瞬考えてしまった。
それにしても子どもの頃は自分も素直だったのだなと思う。

こうした話を信じて、子どもながらに何歳で結婚して、何歳で社長になって・・・とかそれなりの人生設計を考えていたことを思い出したが、この頃の設計図通りにはならなかったものの、30代で滅亡の憂き目にも会わずに済んだようだ。
勿論明日はわからないが・・・・。

「共存」

2008年9月25日、1度絶滅した朱鷺(とき)がついに日本の大空を舞った。
関係者は長年の苦労に涙を流して感激し、多くの見物人もこれを喜んで眺めた。
ニッポニア・ニッポン、学名でも日本を代表するこの鳥は、昭和30年の時点で数羽しか残っておらず、それも昭和50年代には絶滅したとされていたが、日本の空にもう一度朱鷺を・・・と願う多くの人達、中国政府の協力もあって、ようやく中国の朱鷺を親にした孵化に成功、地道な飼育と自然環境で餌を取れるよう訓練までして、選ばれた10羽がこの日新潟県の大空に放たれた。

しかし現地で朱鷺が放たれた時点で1羽が既に行方不明、同じ年の12月16日には山でメスの1羽がタヌキなどに襲われて捕食された残骸で見つかった。

思うに、人間と言うのは何と残酷で傲慢な生き物なのだろう。
1度自然の状態で滅んでしまった生物を、もう一度空に舞う姿を見たいと言う1部の人間の意志によって無理やり復活させ、それを飛ばして喜ぶ、このありようは何なのか。
自分が見たいと言うだけで、自然と言う摂理がなくしてしまったものを蘇らせる、このことがいかに危険なことなのかを関係者や、のんきに空を眺めた人達は考えたことがあるのだろうか。
朱鷺は昔から農家にとってはサギと同じように害鳥だった。
苗を植えた田に入って餌を取るため、苗が踏まれ、そこだけ米が取れなくなるのだが、こうしたことを言う人間が日本には1人もいないのが不思議である。

日本野鳥の会と農家は天敵同士のようなもので、片方はサギの巣を保護しようと監視までして、片方は何としても巣を落として、サギの数を減らさなければと必死の攻防である。
またカモなども、実った米をあぜ道に沿って食い荒らすため、農家はその巣を見つけたらすぐに卵は持ち帰り、ゆで卵にする有様で、家の父親などは野鳥の会と聞いただけで、「帰れ」の一言だったものだ・・・。

自然と言うのは2つの面がある。
一つは住んでいる者の自然、そうしてもう一つは見る者の自然だが、住んでいる者の自然とは生活に密着していて、そこには大局的な生物体系や、景観、あるものを守ろうとする概念が無い。
片方、見る側の自然は、大局的な生物体系や保護の概念があっても、そこに暮らす人達のことは考えられていない。
近年こうした実体が無視されて、地域住民の暮らしに不都合な問題が発生することから「世界遺産」の指定を受けることを躊躇する地域があるのはそのためだ。

日本と言う国は不思議な国である。
全ての地方自治体が、当地の産業は「観光」がメインになっていて、「観光」をスローガンにみんな協力させられているが、その実そこの地域で観光産業などほんの1部なのであり、では観光産業が他の産業のために何かすることが有るかと言えば、何も無いのである。
日本の全地域がうちは観光で・・・と言っていてどうしてこれが成立すると思うのかそれが分からない。
コイン博打で、みんなが表に賭けているのと同じなのだ。

朱鷺を巡っては北陸の各県がこの次の放鳥場所となることを環境庁に陳情しているが、観光業者はそれで良いだろう、また多くの関係ない者も賛成だろう、だが直接被害が出る可能性のある者が存在する事、恐らく日本でたった1人かも知れないが、朱鷺の繁殖に反対する者がいた事をここに記しておく。

数年前から家の田んぼの用水付近に2匹のサンショウウオがいて、多分オスとメスだとおもうのだが、年々大きくなってきているが、これは特別天然記念物のオオサンショウウオではないかと思う。
だが、私はこの話を家の両親には話したが、一切口外しないように口止めしている。
もしこれが発覚すれば、その付近は保護地域になり、人間が手をだせなくなり、毎日のように見物客が来てくれる事になると、その結果それまであった綺麗な環境は荒れて、最後はサンショウウオが住めなくなるか、死んでしまうかどちらかになるのは、目に見えて分かっているからである。

このサンショウウオは私が田んぼを作っている環境で、少なくとも5年以上は暮らし、この環境に適合している。
即ち私とサンショウウオは現在の自然を既に「共存」しているのだ。