「イスラム」

7世紀、アラビアの予言者ムハンマド(マホメット)が創始したイスラム教はヨーロッパではマホメット教、日本、中国では回回、または回教と称された。
イスラムの持つ意味は「神に自身を服従させること」と言う意味だが、ムハンマドはメッカ郊外の洞窟で瞑想し、創造主であるアッラーから啓示を受けたとされているが、偶像崇拝を否定したため、それまでの支配層から迫害を受け、622年にメジナに逃れた。
この事件をヒジュラ(聖遷)と言い、この年がイスラム暦の元年となっている。
しかし630年にはメッカを奪回、宗教国家を建設し、政治宗教的に全アラビアを統一した。

その後ムハンマドが没すると、ムハンマドの代理者(カリフ)達によって8世紀にはインド西北部、アフリカ北側、ピレネー半島を支配下に置く広大なイスラム宗教圏に発展する。
それから正当派のスンニ派やそれに対する異端派シーア派など、多くの派に分裂が起こり、10世紀以降神秘主義派のスーフィー派が起こってくる。
現在イスラム教信者の9割はスンニ派にその属性があるが、シーア派は主にイランに勢力をもっている。
1979年、ホメイニ師を指導者として革命を成立させたのもこのシーア派である。
また18世紀以降起こった、復古主義的ワッハープ派は聖者や墓の崇拝を禁じるものだったが、アラビア半島の大部分で主流を占めてきている。

スンニ派はイスラム教の中で最も多い信者の数をして正当派を自称しているが、「規範に従う人」の意味がある。
正統的な神学の教義を説き、イジマー(共同体の合意)を優先させ、それを越える一切の個人的権威を認めないため、カリフ(後継者)の権限は政治面に限られ、宗教上の権限はは認められていない。
教団の伝統的慣習から外れるものは異端となり、信者はその数5億人以上と言われている。

シーア派は異端派とも呼ばれるが、「党派」と言う意味がある。
ムハンマドの死後、後継者の1人となったアリーとその子孫をイマーム(指導者)とし、それは絶対的なものとされ、イマームを崇拝するものは全ての罪が許されるなど、ムハンマドを超えて崇拝され、イマームの言葉はコーランに優先するものだとされている。
イラン国教となっている12イマーム派の他にシリアではアラウィー派、レバノン、シリア、イスラエルに散らばっているドルーズ派などはこのシーア派に属している。

スーフィー派のスーフィーはイスラムの神秘主義を意味しているが、「スーフ」は羊毛の粗衣の意味もあり、それを着ている人達の宗教生活に起源がある。
10世紀以降一般化し、特に神秘的忘我を伴う儀式を発展させてきたが、しばしば民衆の宗教運動と連動してきた。
この派にとって宗教真理の道は正当派神学知識によるそれではなく、人格的な宗教経験によって得られるものとなっている。

そしてイスラムの根本教義となっているコーランはアラビア語で「読み唱えられるべきもの」の意味で、ムハンマドがアッラーから受けた啓示、戒律、儀式などの規定、説教を集めた散文形式の114章、6211句が収められている。
その教義は6信、全知全能の神アッラーへの信仰、天使、経典、予言者、来世、天使への信仰と、5行、信仰告白、メッカへの礼拝、ラマダーン(断食)、喜捨、メッカ巡礼となっているが、メッカへの礼拝は1日5回、断食はイスラム暦9月のラマダーン月に行われる。

ムハンマドの姿はよく右手に剣、左手にコーランと言う見方が一般的だったが、異民族への徹底した征服戦争はアラブ民族古来の様式であり、実際のムハンマドは征服した異教徒に政治的服従を条件にして宗教の自由は認めていることから、西欧で抱いているコーランによる世界征服というイメージは全くの偏見である。

凡そ宗教はその住んでいる地域や環境から、全てが同じと言うことは有り得ないが、イスラム教は特にこの傾向が強く、実際は小さな各部族がそれぞれ独立した形で少しずつ異なる教義をもっていて、これらを総称した意味で、イスラム教と言う名前があると思った方が良いだろう。

そしてもともと宗教と言うものを巡って、2000年もイスラエルとアラブ、後にユダヤとイスラムは争いを続け、1948年イスラエルが独立したことから、この対立はさらに深まったが、航空燃料としての石油資源に着目したイギリス、アメリカの干渉により問題は際限なく混乱していった。
そうした中で西欧諸国文明の代表、世界の警察を自負するアメリカは、自分達の価値観を、こうしたイスラム諸国に何度も押し付けようとしてきたが、それらはことごとく失敗してきたのである。

実際前回のイラク戦争も終わって見れば、CIAが実は核兵器の存在を掴んでいなかったり、ブッシュ大統領の過剰演出があったりで、一体何が理由で戦争をしたのか分からなくなっている。

イラクのフセイン大統領が処刑される寸前、独房から汚く陵辱的な言葉を浴びせられながら、殴られながら、彼は引きずり出されたが、「アッラーに栄光あれ」と叫んで消えていった。
この時もしかしたらこの戦争は間違っていたのでは?・・と思ってしまったのは私だけではなかったはずである。

2008年12月15日、突然イラク入りしたアメリカブッシュ大統領に、イラク人記者が靴を投げつける事件が報道された。
ブッシュ大統領はうまくかわしたようだが、そのことを含めて、イラク人でなくてもこの記者の心情は察するに余りあるものだった。

「魚と米」

イギリスに端を発した産業革命は効率、利益、資本と言う具合に、その後の世界経済に一定の法則をもたらしたかに見えたが、今日の株式相場、世界経済を見るに、全ての経済理論は唯「雰囲気」を元にしたものに過ぎなかったようでもある。
つまり「何となく先が明るそうだ、何か買おう」と「何となく先は暗そうだ、買うのはよそう」いろいろな経済学者、評論家が難しい理論を展開したが、経済はこの2つだけだったのではないかと思うようになった。

少し前だが、昔の知り合いで、今もデパートに勤務している男から電話があり、その中で彼はデパートの地位も随分下がってきたとぼやいていたが、何でもあるメーカーが試作して作った企画商品を、デパートでさらに利益を出そうとして、そのメーカーとは別のメーカーで安く作ってもらい、売り出したら、もとのメーカーから訴えると言われたらしい。

道義的にもっともな話で、これで文句を言うデパートもどうかとは思うが、昔だったらこのパターンでは多分メーカーは文句を言えなかった事は間違いない。
下手に文句を言って、取引を打ち切られたらそれこそ大変だったからだが、それはこのデパートがある程度の売上を出していたからだ。現在のように余り売れない割に、人の企画を横取りした場合、それは間違いなくクレームがつけられる。
それだけデパートの力は衰退してきているのだ。

バブルがはじけた直後、それまで商品流通の中でメーカーと小売店のクッション役になっていた「問屋」と言うものが、流通コストになるとして、どんどん排斥されていったが、今度はインターネットと通販事業、宅急便などの普及によって、消費者とメーカーに直接のルートができ、デパートなど小売店事業が販売で侵食を受けてきているのだ。
また家電大型専門店などの進出も大きいだろう。

昔のデパートはひどいものだった。
出入りの業者に毎晩のように酒をたかる外商部員、愛人との旅行代金を仕入れ先から出させている仕入れ担当、旅行の企画をすれば、売れ残ったチケットは全て出入り業者に買わせていたケースもあった。
業者はなけなしの金でも付き合わねばならず、ヨーロッパ10日間150万円なりのツアーを、銀行で融資して貰って何とかしていた人もいた。
また着物の企画では着物をつき合わされ、宝石でも同じ、つまらぬ陶器や漆器などもあったが、絵画、家具など売れ残りは必ず業者に付き合わせるのが、デパートのやり方ではあった。

だがそれでも業者は文句を言わなかったのは、それ以上に自社の商品を買ってくれていて、それに対する決済、支払いが安定していたからだ。

また一般には余り知られていないかも知れないが、物の価格には上代(じょうだい)と下代(げだい)がある。
上代とはデパートで売られている値段、下代とは業者がデパートに売り渡す価格だが、昔「問屋」と言う、メーカーとデパートを繋ぐ流通経路があった時は、その価格は「4つ折」つまりメーカー納入価格の4倍が普通だった。

1万円のものは2500円で納入されていて、しかもメーカーはこの2500円の中で利益を出しているから、多分実際の製造価格は1万円の物で1200円くらいではないだろうか、そしてこれはまだいい方で、大きな問屋と小さい問屋が2つ絡んでいた場合は「いち・ごー」つまり1万円のものは1500円で納入されていたケースもあった。

その上で、デパートは仕入れ業者が他に直接販売する場合でも、デパート価格、上代で販売するよう縛りをかけていた。
これはつまりデパートが価格競争に負けないよう、メーカーに価格統制を強いていたのだが、もっと簡単に言えば、自分が作っている物だとしても、それを独自の客に販売する場合でも「デパートで買え」と言うことで、「これだけ売ってやっているんだ、それくらい協力しろ」と言うことだった。
そしてバブルがはじけて「問屋」がなくなってもデパートはその分の利益をメーカーと折半したかと言えばそうではなく、利益は全てデパート側に落ちていったのである。

また先生稼業、「○○家」と言われる人、例えば画家、陶芸家、染色家などの品は全て作品展をした場合、大手デパートでは25%が製作者、残りはデパートの収益になっているし、これが良い条件でも35%が製作者に支払われる金額で、残り65%はデパートの収益となっている。
つまり私達消費者は殆どデパートの売り場経費、人件費を払って作品を買っているのだ。
これがギャラリーでは、良い条件だと製作者60%、ギャラリー40%、悪くても製作者50%を切る事はないが、その代わり下手をすればデパートの上代価格より高い価格設定がされていて、製作者がにこやかに出迎えてくれる、その笑顔までが価格に含まれていたりする。

昔、仕事で独立した時、よく先輩から「人は物を買うんじゃない、お前を買っているんだ」と言われたが、私はこの言葉が大嫌いだったし、今も嫌いだ。
自分は技術で勝負したい、だから自分などどうでもいいし、何と思われても構わないが、「この技術がいい」と言って貰えたらと思っている。

また私は兼業農家でもある。
だから秋はコンバインで稲刈りなんかもやっているが、当然これは家の仕事なので、会社スタッフには手伝って貰うことは出来ず、忙しければ昼食を自宅まで食べに行けないので、近くで湧き出る水を飲み、おにぎりを食べて少し休む時がある。
これもかなり以前の話だが、こうして昼休みをしていた私は、疲れが出て、秋の良い天気に田んぼの土手で眠ってしまったことがあった。

それを具合が悪くて倒れているのかと思った通りがかりのトラック運転手が「おい、大丈夫か、トンビにやられるぞ」と起してくれたことがあり、この運転手と喋っていたら、彼も漁師で、トラック運転との兼業だと言うことがわかった。
確かに危ないところだった。
トンビは例え人間でも、倒れて動けないと知ったらその肉をついばもうとし、そうした場合真っ先にやられるのは一番柔らかい部分、まぶたと目なのだ。

それから道で何度か出会うたびにお互い手を上げて挨拶したり、クラクションを鳴らしたりして合図するようになったが、この男はとても寡黙で、無愛想なのだが、いつも通る道路沿いにある私の家も知っていて、たまにアジやカレイをくれたりするので、私もナスやキュウリ、芋や米などをお礼に持たせるようになり、今も続いている。

妙なものだが、漁師と農家は何となく同じ匂いがする。
そして経済、流通でもし自分が理想とするところがあるとしたら、この男とのやり取りでありたいと思う。

「転校」

「おお、景気はどうだ」「いやー散々だな」
こうした挨拶が当たり前になってきたが、日曜日、久しぶりに知り合いのところへ遊びに行っていたら、そこの子どもで小学4年生の女の子が、「今日は午後からお別れ会がある」と言って慌てて支度していたので、「こんな時期に何のお別れ会だ」と尋ねたら、仲のいい同級生が明日引っ越すので、お別れ会は今日しかないんだ、との話が返ってきた。

随分急な引越しだなと思っていたら、知り合いが、「仕事が無くて少し都会で仕事を探すらしいんだが、それも40過ぎると厳しくてな」と缶コーヒーを差し出した。
何でも完全に仕事が無くなったので、この町を出て働くことにした両親に付いて行く為、子どもも転校していくことになり、それで今日のお別れ会になったらしい。

この話を聞いた私は、随分前のことになるが、やはり今のように景気が悪くて、辛い時代のことを思い出した。
当時まだ会社に勤めていた私は、上の子が今のこの子よりもう1年上、小学五年生くらいだったと思うが、よく社長から子ども達のお守り役を頼まれ、何かと甘く、お菓子を買って貰えるので、彼らも私になついていたが、ある日この内長女が、学校から泣いて帰ってきたことがあり、どうしたのか尋ねたら、仲の良かった同級生が今日から突然いなくなり、家へ行ったけど誰もいなかった、と言う話を聞いた。
それで社長にそのことを話すと、社長はその家の人が昨夜、夜逃げしたことを教えてくれた。
この時社長の長女は、そう言えば○○さん、昨日「家にはもうお金が無くなったんだ」と話していたことを思い出し、さらに泣き出してしまった。

また当時この会社は、会社と言っても従業員が自分を含めても6人しかいない程度のものだったが、それでも「使ってもらえないか」と訪ねて来る人が、月に2人はいた。
高台にある松の木の枝で首を吊る者も年に3人程いた年もあった。ひどい時代だった。
だが、今はそれより仕事が無い時代になったが幸いなことに自殺者はいない。
してみれば、ひどいひどいと言いながらもまだあの頃よりは日本は豊かなのだろう。

NHKでドラマ化された「海峡」と言う番組だったと思うが、嵐の中で船から船へ一枚の板を渡って乗り移る場面があり、板の下は鉛色の荒れた海、幼い姉妹がそれを渡るのだが、怖がっている妹を前で励ましながら板を渡っていた姉が、ふと振り返ると後ろを歩いていたはずの妹の姿がなかった。
大声で妹の名前を呼ぶ姉、しかしそれを船頭か船主かは忘れたが、長靴を履いた中年の男が黙って抱え、板を渡らせる、そう言う場面があったが、不景気になると私はなぜか、このドラマの1場面と社長の長女の泣き顔を思い出す。

辛くても終わったことを悔やんでいる間に自分が死んでしまうとしたら、助かった者は何も言わずに自分の幸せのために全力を尽す。
それが生き残った者の使命であり、義務だ。

もうあんな暗い時代は見たくないが、もしこのまま不景気が続けばまた、あのような時代が訪れるかも知れない。
今この瞬間にも辛い選択を考えている人もいるかも知れないが、そうした人に言うことは「どうか、人も自分自身も殺さないで欲しい」それだけだ。

「K氏の悲劇」

10年ほども前の話になるが・・・・。

K氏はある地方新聞社の記者だったが、3月にこのS市に配属されて3ヶ月、まだデスクに逆らえる年齢ではないが、それでもこんなニュースの少ない田舎で、何とか毎日記事を書いて総局へ送り、仕事をこなしていた。

ある日、このS市が鳴り物入りで多額の資金を投じて土地を造成し、そこに誘致した企業と市長の共同記者会見が市役所応接間で開かれることになり、K氏も張り切って出かけていったが、既に数社のテレビ局や他新聞社の関係者も集まっていて、それぞれ場所の確保でがやがやとしていた。
やがて応接室正面の机に、書類を持った企業関係者と思しき男性2名と市長、助役、企業誘致担当職員が座り、場内は少しずつ静かになり、そろそろ始まるかなと言う感じになった。

場内は一瞬シーンとなった。
そしてK氏が少しでも前で写真を撮ろうと、右足を出したところだった。
そこにはテレビ局カメラマンがバッグを置いていて、それを避けようとしたK氏の右足は思ったより前方に出てしまい、バランスを崩したK氏は思わず左手を壁についてしまった。
「ぱりっ」と言う渇いた音が静かなこの場内に響き渡った。
何とK氏の左手は壁にかかっていた大きな絵をしっかり破っていたのである。
全員の視線はK氏に集中し、その殆どが「何を馬鹿なことやってるんだ」と言う視線、K氏の顔は一瞬にして青くなって行くのが分かった。

K氏は一瞬我を失ったように呆然となったが、次の瞬間市長の様子を伺おうとしたのか、市長に顔を向けた。
市長は「これは、これは大変なことになった」と言うように、目を大きく見開き、手を口に当てていて、K氏はガクっと肩を落として顔を下に向けた。
それから何とか記者会見は終わり、他の報道機関関係者は皆帰っていったが、1人K氏だけは市長から別室へ呼ばれ、しょんぼりした様子で部屋の中へ消えていった。

この新聞社の前任は市側との癒着が噂され、滅多に市を批判する記事が無かったのだが、K市は若いと言うこともあり、割りと市側に批判的な記事も書いていた。
だが、どう言う訳かこの日を境にK氏の記事は前任者よりもさらに市側を称賛する記事へと変わり、その激変ぶりに記者仲間の中では、多分市長は笑って許してくれて、ついでに「これからよろしく・・・」とでも言ったんじゃないか、あの市長もタヌキだからな・・・と言う話が出回り、それを裏付けるように、あのK氏が破いた絵は修理された形跡もなく、いつの間にか撤去されていたのである。

してみると、もともと大きさはあったが、所詮趣味で絵を書いていた市民から寄贈されたもので、そんなに価値など無かったのだが、記者会見での市長あの驚きようは計算された行動だったのでは・・・などと、まことしやかに囁かれていた。

やがてK氏と一緒に酒を飲みに行ったある記者の口から、「S市は最低だ、早やく転勤したい」とK氏がぼやいていたと言う話が記者仲間へと伝わってきていた。
多分市長はそれまで市側に反抗的だったK氏に、「絵の修理は良いから、これから仲良くしてね」と言った事は間違いないだろう。
市長に借りの出来てしまったK氏がそれまでのように市を批判する記事が書けなくなったのは、恐らくそのためだと思う。

悲惨な話である。
人は怒られる時はやはり怒られた方がいいのだ、笑って許してくれた時は、その先にもっと恐ろしいことが待っているかも知れない・・・。
ちなみにK氏は以後も各支局記者を歴任し、今も元気で活躍しているとの事である。

3・「人は何を見ているか」

死の概念は旧石器時代中期、つまりネアンデルタール人が活躍していた頃からその形跡を見ることができる。
旧石器時代は100万年続く時代区分だが、ネアンデルタール人達が発生した中期は第3間氷期、つまり地球は温暖な気候だったが、その後第4氷河期が訪れる旧石器時代後期には、クロマニョン人を代表とする我々の直接の先祖となるホモ・サピエンスが発生し、このネアンデルタール人達のような旧人は滅んでしまう。
人類の文明の殆どはこのホモ・サピエンスの頃に劇的な発展を遂げる。

どちらかと言うと原人に近く、脳容積こそ大きくなったものの、前かがみの姿勢などは原人の要素を残していたネアンデルタール人、しかし第4氷河期が始まる頃、彼等は洞窟に身を潜め、火を焚いて暖を取り、マンモスなどを狩猟して生計を立てていたが、死者を埋葬することを知っていた。
洞窟の脇に穴を掘って死者を埋葬したと思われる遺跡が発見されたのである。
これはどう言う意味を持つか、つまりネアンデルタール人達は「死」に対して宗教観があったことを示しているのである。
その遺跡の遺体の上には花束も置かれていた。

脳容積では原人が1000cc,ネアンデルタール人1200cc,現代人が凡そ1500ccであることから、とても高度な知能があったとは思われていなかったネアンデルタール人、しかし彼らは「死」を悲しい事だと知っていた、そしてそれを敬うことを知っていたのである。
人類は少なくとも10万年前には「死」の概念を持っていた、それが悲しいことも知っていた、そしてそれ故に死者を恐れ、蘇ってはならない死者の姿を恐れる歴史も始まっていったに違いない。

人は死ぬと、どうなるのだろう。
まず、脳がこれまでだと諦めた瞬間、それまであった苦痛が消え、何とも言えない幸福な感じになり、その瞬間一瞬にしてこれまでの人生の全てを見ることができると言われている。

その後、なぜか横たわる自分の姿や、それを囲んで泣く家族達を、斜め上から見下ろすように自分が眺めていることに気づくらしいが、こうした話は「金縛り」を幾度に渡って連続して経験した人の中で、最後には金縛りをコントロールできるまでに至った人などが、同じように自身の体が宙に浮いていって天井付近でゆっくりひっくり返り、寝ている自分の姿を見ているとする話と良く似ている。(この時、非常に感動的なのだが、なぜか早やく戻らないと危ないと言う危機感もあるらしい)

そしてこれが終わると、突然暗闇を落ちていくとも上っていくとも分からない状態で、移動し始め、その時間は相当長いと言われていて、それが終わるのは遠くに見える光、それはトンネルの出口らしいが、そこに吸い込まれるまで続き、そのトンネルを出ると今まで見たことのないような綺麗な花畑が現れるらしい。(らしいとしか言えないのは自分で確かめた訳ではないからだが、自分の目で確かめようとは思っていない)

そしてこれから先には何がしかの「川」がある事は臨死体験者が共通して言っているのだが、この辺からそれぞれの証言はばらばらになっていく。
また殆どの宗教でも死後の世界はある程度表現されているが、どれが正しいかは判断できない。
だが、どうやら幽霊は死ぬと大方の人がそれにはなるようだ。

自分の亡骸とそれを囲んで泣く家族を見ている自分、その姿は家族や医師には勿論見えていない訳だが、こちらからは見えている、この状態は多分「幽霊」と言う状態なのだと思うが、どうだろう。
そしてこの時の自分が何であるかが問題なのだが、前編で出てきた魂、霊が反物質で出来ているとする仮設を使うなら、死んで体から抜けたこの反物質は意志を持っていることになるが、これが時間と共に別のところへ移動してしまい、その後は不明になってしまっている。
つまりこれは、脳が死んでから以降も何らかの働きをしていて反物質と連携しているか、反物質そのものが脳の記憶の一部を記憶しているかのどちらかになるのだが、いずれにしてもその記憶はそんなに長くは続いていないことが分かる、

人間の生体活動は全て脳の電気信号で動いているし、脳そのものも微弱電気信号で、記憶したり、ものを見たり聞いたりしている。 我々が見ているもの全ては太陽光や照明から発せられた光の反射光を目で集め、それを脳が画像処理して感覚として見せている。 また音も空気振動を捉えてそれを解析して聞かせているのはやはり脳だ。

味覚、嗅覚、触覚もこれは変わらないが、脳の電気信号が異常をきたすと「現実の幻覚」を見るし、聞くことになってしまう。
例えば麻薬などで脳の信号が異常になると、幻覚はその人にとっては現実だし、目を閉じて光が入って来ない状態でも、人は明確かつその場は現実意外の何者でもない「夢」を見ている。
だから目で見たもの全てが現実ではないかも知れないし、本当はどこまでが現実で、どこまでが幻覚か、視覚や聴覚では判断できないものなのである。

また脳は自分が感心のあるものは大きく鮮明に見せているが、関心のないもの、どうでも良いものは小さく、下手をすれば色さえ付けていないかも知れないほど、いい加減に見せている。
これは聴覚でも同じで、感心のある話はそのイントネーションや僅かな呼吸まで鮮明に聞かせているが、これがどうでも良いような話だと、殆ど記録さえしていないばかりか、聞いた直後に消去しているかも知れないのである。