「失格の時代」

1994年6月、この年混迷を深めた細川内閣以来の流れに、決定的な政治的終止符を打ったのは、社会党の村山富市内閣総理大臣だった。

日米安全保障条約、原子力発電計画、日の丸の掲揚、そして君が代、自衛隊に関する解釈など、従来社会党が主張していた全ての基本政策を180度転換して、自民党との連立内閣・・・と聞いたときには、口に入っていた食べ物が思わず吹き出そうになったものだが、こうして従来の主張を180度転換して周囲を驚かせることを当時、この村山総理になぞって「むらやまる」といったものだった。

 

そして大体この年代からだろうか、従来の日本が何かから脱落していったのは・・・。
従来から世界経済の方向性を考える上で、大まかには2つの考え方があった。
その1つはアメリカが持つ資本主義、金さへ有れば何でも出来る、頑張って稼いで豊かな生活を・・・と言うものだったが、こうした考え方でアメリカに追随していた日本は、ついにバブル経済で頂点を極めたものの、そのバブルが崩壊して全ての自信を失った。

その結果どうなったかと言うと、非常に享楽的、諦め社会となり、それまでにヨーロッパ社会がそうなりつつあった、刹那主義社会へと急激な方向転換が始まって行った。
すなわちここでは、「そんなに働いたってどうにもならんさ、だったらせめて生きていることを楽しもうじゃないか」と言ったような考え方が出てくる。
今まで頑張って働いていたお父さんは、会社から早く帰って来て、家で食事をするようになる。
また享楽主義、快楽主義は風俗の面から「肉体資本主義」を生み出し、ここでは少女たちの体が「商品的需要」を生み、性のマーケットでは少女たちの体が市場価格を持つに至った。

その上にこうした村山社会党の在り様だった訳で、世の中は「もう何でもありだな」と言う風潮に陥って行ったのであり、現在の日本に蔓延する、儚くも諦めに似た虚脱感は、こうした時期から始まっていたと考えることも出来るのである。

そして皮肉なことだが、こうした社会的変化をいち早く敏感に感じ取っていたのは、大人たちの享楽主義に翻弄されていく少女達だった。
この時代のヒット商品にはとてもユニークなものが多かったが、何と言っても女子高校生や中学生に人気が有ったのは「死にかけ人形」であり、浮き出たあばら骨に苦痛に歪んだ顔、飛び出た赤く長い舌、ついでに手足を鎖で縛られた、まことにグロテスクな人形が彼女たちの間で大人気を博し、みな通学かばんにこうした不気味な人形をぶら下げていたのである。

またこうした流れかどうかはともかく、同じ時期には「わら人形セット」も発売され、こちらも少女たちには人気があって、小さく可愛らしい「わら人形」をぶら下げた少女たちも確かに存在したのだった。
更にロックの世界では「橘いずみ」が「失格」を歌い、これも少女たちから圧倒的な支持を得たが、その内容は自虐的、自己否定な歌詞をロック調に乗せて早口で歌うもので、どう間違っても10代の少女が聴いたり、歌う代物では無いとんでもないものだった。

更にこれは究極と言えるかもしれないが、この時期に売り出されたものの中でも断とつキワモノは、「イモ虫入りキャンディー」だった。
これは普通のキャンディーに虫が入っているもので、1個380円もしたのだが、それが原宿で15分間に500個、完売したと言うから凄いものである。
ちなみにこのキャンディーの中のイモ虫、メキシコ産の高たんぱく食用イモ虫だったと言うことだが、これらが実際に食べるために買われたのかどうかは疑わしい。

またこれなどはどう考えても衛生上も良くない気がするのだが、同じ時期に実際にあったマスコットで、「毛はえ人形」と言うものが有り、こちらも少女たちに密かな人気を博していたが、髪が伸びるとされる呪いの人形を模したもので、おがくずに芝生の種を植え込み、ストッキングを被せただけの丸顔、丸い鼻に丸眼鏡のシンプルなものだったが、日に日に髪が伸びるその様子に少女たちは一喜一憂していた。
水をやると10日前後で緑の芝生(髪の毛)が生え始め、頭髪部に緑色の髪が生えてくるが、伸びたら好みの髪形にカットして、3ヶ月は楽しめるものだった。
一個1000円ほどで売られたこの「毛はえ人形」、何と1ヶ月で3万個が売れたのである。

そしてこちらはどちらかと言うと「死にかけ人形」の流れだが、画家ムンクの、あの有名な「叫び」に出てくる歪んだ顔の人物を模した「叫び人形」、こちらも大盛況で、メーカーはアメリカだったが日本では1993年以降、1年間でビニール製のこの人形が2万個売れていた。
価格は大きい方が身長130センチで、6000円、そしてこれより小さいものもあったが、こちらは身長50センチで1800円、ちなみにこの小さい方の人形は「叫び人形」に対して「こさけび人形」と呼ばれていたことも付け加えておこうか・・・。

さてこうして見て来ると、いかにこの時代が刹那的で、行き場の無い閉塞感に満ちていたかが分かるが、そんな中でも少女たちが作った流行で今も残っているものがある。
それが現在身分証明書を首からぶら下げたり、携帯を首からぶら下げる、あのストラップである。
バブル以前の日本社会は、首から物をぶら下げたあのスタイルを田舎くさい、またはいかにも物忘れをしそうだと言っているようなものだとして嫌っていたが、電車通学をする女子高生たちの間には、もしかしたら大人たちの価値観を無意識に否定していたのかも知れないが、ヒモの付いた大型の定期入れを首からぶら下げて歩く姿が流行した。

「大学の研究者みたいだ」と言うだけではなく、これまであった「見せかけよりも」、改札口でポケットから出そうとして手間取ることの無い、こうしたスタイルにオシャレ感を持つ「必要の美」を、彼女たちはいち早く時代の中に感じていたのだろう。

私は時折、今の子供たちを見ていて、申し訳ないな・・・と思うことがある。
どんな価値も相対化され、何事も許される、だから価値反転性を持ったものを評価する能力が競われてしまう。
相対化の中で「敵」が消滅し、否定の対象はもはや自分しかなくなり、しかも「真実」「善悪」「美醜」の絶対的基準を喪失してしまった精神を作ったのはこの時代の大人たちだった。
子供たちが不安を感じるのは当然だった。
そして生きるためと称して、我々は子供たちにこうした精神の復活を手助けしてやる機会を持たずに、今に至ってしまった。
社会の中で希望も持てずに、眼前の現実にしか価値を見出せない子供たちが生まれてくるのは自明の理と言うものだった・・・。

最後に、「橘いずみ」の「失格」と言う曲、おそらくyoutubeで聞けると思うので、もし良かったら聴いてみると良いかも知れない。
当時の不安な若者の在り様がストレートに歌われていて、私は好きだった。

 

「価値反転性の競合」

人間が秩序と呼ぶもの、また反対に混沌と呼ぶものも、その本質は大きな漠然たる流れのひとつの瞬間を切り取って、それをどう見たかと言うことに過ぎない。
ゆえに人の言う秩序も混沌も、またいかに大きな思いと言えども、全てが基本的には「幻想」「勘違い」でしかなく、人はあらゆるものを見ながら何も見てもはおらず、多くを聞きながら何も聞いてはいない。
多くのことを為したようで、それは何も為してはいない。
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1990年、事実上この年から日本のバブル経済は崩壊したが、ここで崩壊したものはただ経済だけではない。
人の心や愛が金で買えるか否かと言う話が、古代文明の記録にも残されることを鑑みるなら、人間の文明や秩序、道徳、思想、時には人の命に及んでも、そこに経済が深く浸透している現実は、人間社会に置ける経済の崩壊が、すべての崩壊と同義であると言う側面もまた否定し得ない。
多くの人間の優しさは「金」によって維持され、「金」のない者は優しさを維持することが難しく、これはモラルと言うものに付いても同じである。
そして経済崩壊によってあらゆる秩序やモラルが維持できなくなった日本は、1990年からずっと新しい秩序、価値観を築こうとして来たが、その実混乱は深化し、大きな価値観が全て空洞化、虚無化した結果、より劣悪なるもの、矮小なものをして価値を築こうとするようになっていったが、これは崩壊と同時に、小さな一つからまた価値観を築こうとする人間の有り様として、正しい。
しかしこうした傾向は、大きな価値観から先に信頼が失われ、虚無化していくことから、より小さなもの、惨めなもの、貧相なことをして、そこに価値があると人間を錯誤させ易い社会形態を生み、そこでは大きな正当な価値観が全て否定され、ローカルなもの、小さな情報こそが価値があると錯誤されるようになり、なおかつこうした矮小なこと、惨めなことを競い合う社会が顔を出すことになる。
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このことを「価値反転性の競合」と言い、何も日本のバブル経済崩壊に限ったことではなく、人類のあらゆる歴史の中で常に起こってきた、人類の習性とも言うべきものであり、近いところで言うならフランス革命、中国、ソビエトの共産党革命も広義では「価値反転性の競合」がもたらしたものと言うことができる。
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つまり人間の思考形態は大きな価値観が崩れると、そこではより劣悪なもの、矮小なものへと価値観が向かってしまうと言うことで、その影でそれまでの古い価値観である大きな価値観は、こうした劣悪なもの、矮小な価値観をしてしか担保されないようになり、この状況では経済が価値観を担保する社会より遥かに問題解決に時間や手間を要する社会となり、しかもそれはどんどん加速し、その結果、常に直面する問題解決とは遠く離れたところで小さな事に引っかかり、問題解決が為されない社会を生むことになる。
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これが今の日本の現状であり、本来価値反転性の競合はそう長くは続かないものなのだが、どうも日本人はこうしたことでも極めて見たいのか、昨今の報道、大衆の有り様を鑑みるに、より混乱を煽り、さらに劣化したどうでも良い細事に深く入り込んで行く傾向が見え、大きな原則はすべて無視されているように思える。
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人の命やその死に優劣など有ろうはずも無く、明日死んでいくものなら、それが事故だろうが原子力発電所だろうが如何なる差が有ろうか。
年間自殺者数は軽く3万人を超え、今も経済的に困窮している者は数知れず、風評被害と言う傲慢な管理社会の幻想を増長させているものは、僅かな放射線量を騒ぐ非当事者である。
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放出されてしまった放射能が誰の責任か、誰それがこう言った、ああ言ったなど一体なんの意味があろうか。
大切なのはこうした放射能をどう除去するかであり、その方法が見つからないからこそ、細かなどうでも良いところで議論がなされ、その上で半ばヨーロッパ中世の暗黒時代並み、または中国の文化大革命のような、根拠のない盲目的な反原発運動となっているのではないか。
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一体日本はどうしてしまったのだろうか。
今日も明日も、あさっても安心して暮らせる社会などもはや終わったのであり、これからの日本は増え続ける高齢者を全てケアすることもできなければ、生産は減少し、世界経済からも取り残される最貧国となって行くにも関わらず、この自覚のなさは何だろうか。
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世界が日本を「平和ぼけ」と言うのは至極最もなことだ。
領土問題、経済、福祉、産業、貿易、すべての分野でこれから先日本は解決が困難どころか、どうしたら良いかすら分からないような時代へと向かいつつある。
安全が保証され、豊かな食事が出来て、汗することもなく暮らせる。
そんな時代がいつまでも続いた歴史など人類史上存在したこともなければ、如何なる生物もそうしたことを保証されていない。
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また地震や気象災害に全て備えられると思うのは「傲慢」と言うものであり、これを保証する政府も愚かなら、そうしたことに責任を求める大衆やマスコミもまた愚かである。
こうした愚かさが片方で基本的な大きな価値観を言葉だけのものにし虚無化させ、その一方で価値反転性の競合を深化させ、国民はより劣化したものとなっていく。
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あらゆる存在は全て可能性と破壊を同時に包括している。
この世界に真実などと言うものはなく、そこは現実が連続して並んでいく世界であり、しかもその現実ですらその個人の事情や感情と言ったものに過ぎない。
それゆえこの世界で自分の思うことのみが正しい、多くの人が望むからそれが真実だと思うことは許されても、信じてはならなず、これを信じてしまうと、その信じた者によって大きな災いがもたらされることになる。
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そして多くの人間は、飢えて弱っている猫を見かけると「可哀想に」と頭を撫でても、家に帰ってパンを持ってくることをしないが、ただ頭を撫でられるだけなら、猫はさらに体力を消耗するだけであり、猫にとって救いとなる人間は可哀想にと思ってくれる人間ではなく、黙ってパンを持ってきてくれる人間だけだ・・・。

「羊羹蓮根」

平安の頃、京都で家を建てるときの基準は、「夏の暑きはいと悪し・・・」とあることから、夏の暑さに対応したものだったようだが、金沢の夏もこれはこれで暑い・・・。卯辰山(うたつやま)に通じるこうした坂道はとても急で、その周囲にはかなりの樹齢の木がうっそうと生い茂り、風もないので、梅雨もさなかの7月初旬、少し晴れ間でも出ようものなら、裸になって走ってしまいたいほどの暑さである。

できるだけ影を選んで歩くのだが、地面から陽炎が立ち、あゆみを止めて腰を伸ばすと軽いめまいに襲われるが、その脇をなぜか結構な年齢の女性が、まるで少女のような可愛らしいフリルの付いた白いワンピースを着て、しかも黄色い長靴と言ういでたちで、犬を散歩させながら、追い越していく・・・、これはこれで、車の通行も少なく喧しい蝉の鳴き声と暑さ、また果てしなく続くのではないかと思うこの坂道にあっては、非常にそぐわしいようであり、また何か異常なようでもある。

訪ねた家はその坂道の中ほどにあるのだが、おかしなものだ・・・、その昔駆け出しの頃もよくここへは来ていたのだが、その時はなぜかぎっしり実が詰まったような、独特の重さが感じられたこの町も、今はなぜかスカスカな感じがして、少し儚い雰囲気を感じてしまう。

出迎えてくれたのはこの家の奥さんだったが、既に70歳を超えて、ご亭主と2人暮らし、2人いた男の子はそれぞれ東京と茨木で家庭を持っている。
「あらー、久しぶりやわー」…奥さんのこうした言葉は昔のままで、何かいつでも自分が帰って行けるところであるような・・・、勿論そんなことはないのだが、そんな安ど感があり、その声につられて不自由な左足を引きずるように、ご亭主が奥から顔を出した。

「おー・・・、上らんか」ご亭主は嬉しそうに言うと、先に立って狭い廊下を居間へ向かって歩き始めた。
「お加減はどうですか・・・」
「まあ、こんなものだろう、命があっただけありがたいと思うとるんや・・・」
廊下の窓からは金沢の市街が、少し青みがかった靄につつまれて見えたが、こうした日は特に蒸し暑い日が多く、何でもう少し早く見舞いに来なかったのかと悔やんだが、それは後のまつり…と言うものだった。

この夫婦は私が仕事で独立した当初からのクライアントだったが、ご亭主は厳しい人で、よく怒られたものだ、「お前みたいなものが仕事を受ける資格はない、人の迷惑になるだけや・・・」、この言葉は何度言われたことだろう。
その度に徹夜して仕上げるのだが、そうして持って行っても特に褒められることもなく、当然と言う顔だった。
「馬鹿にしやがって・・・」と思ったものだ、そして私は恨みで、いつかあいつが文句をつけられないようにしてやる・・・、そう思って仕事していた。

よく仕事には自分が出ると言われるが、そうした意味では初期の私の仕事は恨み満載の仕事で、それがどこかで現れていたに違いないが、結果として今日の自分があるのはこうした厳しい人達のおかげだった。

だが過ぎた日の、厳しかった人たちも年老いて第一線から身を引き、自分がその年代になってみると、全く彼らの領域に達していないことに気がつく・・・、そして彼らの中で1人、また1人とこの世を去っていく、またはこうして病魔にむしばまれる者が出るにつけ、そこを訪れるが、泣いてすがりつきたくなるのを抑えるのに必死になる。
もう誰も厳しく怒ってくれる人間がいない・・・、このことの不安は怒られることの比ではない。

もう10年近く一緒に仕事をしたことはなかったが、金沢を訪れるたびに立ち寄っていたこの家でも、こうしてご亭主が脳梗塞になってしまっていた。
烈火の如くに怒られた人だが、今は全くの温厚な老人となってしまい、むかしは暴力を振るわないだけ・・・、のように怒鳴りつけていた奥さんにすっかり頼り切り・・・、と言った感じだった。

「仕事はどうだ・・・、忙しいか」
「はあ、あまり儲かりませんが、忙しくはやらせてもらっています」
「そうか、そうか・・・、大して儲からなくてもいい、忙しければそれでいい・・」
ご亭主は何度も頷くと、私に玉露をすすめた。
「浅田さん、一緒に御飯を食べていってね」
台所から奥さんの声がして、「いや、お構いなく・・」と言おうとしたのだが、それより先に奥さんが「のれん」をまくって顔を出し、その手の上の皿には何やら懐かしいものが乗せられていた。
「これは蓮根ですか・・・」
「今、そうめんでも冷やしますから、一緒に御飯でも食べてってね、主人も誰も来ないから人が来ると嬉しいのよ」そう言うと奥さんは蓮根を薄く切ったものを私と、ご亭主の前に並べた。
「電話をもらってたから、作っておいたのよ、浅田さんはこれが大好きだったわね」
蓮根・・・だがただの蓮根ではない、これは金沢名物の蓮根で、茹でた蓮根を酢漬けにして、蓮根の穴へ小豆羊羹を流し込み、それを冷やして薄く切ったもの・・・、そう昔、ご亭主から怒られた後で、やはり奥さんがこれを出してくれたことがあって、とても感激したものだった。

酢の味と蓮根の風味がとても良くて、そこに小豆羊羹の甘味が加わり、何とも言えない美味しさがあり、とても金沢らしい味がするのである。
昔の、自分がまだほんの駆け出しだったころ、こんな暑い日、険しい顔で仕事をめぐって言い争いをしていた3人の汗だくの顔、そしてやはり蒸し暑かったあの夏の日の味がするのである。
「どう、おいしい・・・」奥さんの問いに、ただ何度も首を振って答えた私だが、もし言葉を発していたら泣いていたかもしれなかった。

結局お昼ご飯まで頂いて、2時間も予定をオーバーしてしまった私は、午後1時過ぎに帰途についたのだが、懐かしさとともに、何か自分が帰ることができないところまで来てしまっているような、そんな気になった。
しかし煮えてしまうようなこの暑さの中、思わず天を仰いだ私は一瞬のめまいとともに、いつもの自分に戻ってしまっていて、それが悲しかった・・・。

「普通」

優れた策略は人にそれが策略で有る事すら気付かせない。

それが策略かも知れないと人に思われる策とはむしろ未熟、小さなものであるとしたら、我々が暮らすこの世界でも我々が気付く事と言うのは程度が浅く、むしろ全く気付かないものの方に偉大さを思わねばならないかも知れない。

人間の目はどうしても光ったもの、尖ったものに関心が向かいやすいが、例えば奇跡などにしてもたった1回起こった偶然など、それが神の降臨だったとしてもたかが知れている。

その1回で終わるなら、さしたる事もないが毎日太陽が当たり前のように昇り、沈み、水が飲めて食べ物を得る事が出来る。

金も出さずに誰もが平等に無尽蔵に空気が吸えて生きながらえる。

毎日当たり前のように起こる奇跡は奇跡ではなくなり、やがてこの事を考えもしなくなるが、この考えもしなくなった事、毎日連続する奇跡こそ最も偉大な奇跡と言えるのではないか・・・・。

この意味で私は先鋭的な目立つ事を意匠とした物つくりには至って抵抗が有り、頼まれれば嫌とは言わないまでも、どちらかと言えば「普通」で有る事、存在しても邪魔にならないが、無いと寂しいと感じる物を思う時が有る。

これは素晴らしい物で・・・は、ある種の奇跡の申告だが、その最も偉大な部分が誰も気づかないところに在るなら、私は「普通」を目指したいものだ・・・。

1回限り、いや数回だったとしてもたかが知れている奇跡より、この世をごっそり頂くような、気付かない「普通」を、当たり前の事が当たり前で有るような物を作りたいと思う。

目立つと言う事は善きに付け悪きに付け、何某かの力の乱れが有るように感じる。

その意味では目立つことはある種の「問題」を抱えている事になり、ここではむしろ毎日の暮らしを言葉にする事もなく、目立つ事もなく暮らしている者こそが本当の力ではないか、そんな事を思う。

時々半月型、内朱の銘々皿に和菓子を置くと、ああ、やはりありきたりだが、これが一番安心して見れるな・・・・、などと思ったりする。

今日も暑くなりそうだ・・・・。

 

 

 

 

 

「罪の入り口と出口」

古代日本に措ける最大の罪とは「天津罪」(あまつつみ)と呼ばれるもので、その罪は8つの具体的な行為を指している。
「串刺」(くしさし)とは他人が開墾した田に串を刺し、そこが自分のものだと主張することであり、言うなれば人の田を横取りしようとする行為であり、「畔放」(あぜはなち)は畔を壊して田の水を流してしまうこと、溝埋(みぞうめ)は用水路を埋めて田に水が入らないようにする事、「樋放」(ひはなち)は田に水を引くための「樋」を壊す行為である。
 
また「頻蒔」(しきまき)とは他人の土地に種を蒔く行為であり、この他に「生剥」(いけはぎ)と言って、まだ使える馬を殺して皮を剥ぐことも大きな罪とされ、更には「逆剥」(さかはぎ)と言う罪では、死んでしまった馬の皮の剥ぎ方を誤りその皮を無駄にすることを指し、「尿戸」(くそへ)とは農耕神を祭る祭祀場を汚す行為を指していた。
 
このことから鑑みるに、日本の古代社会に措ける罪の概念とはすなわち、「農」に関わるものが殺人や暴行よりも重くなっていたことが分かるが、これは何を意味しているかと言えば、その当時の大衆社会に措いて、殺人や暴行が「農」を犯す者より少ないことを示していると言える。
つまり「法」と言うものは、それを犯すものが多くなれば法としての形を取り、尚且つそれでも対象となる行為が減少しないとき、「罰則」が定められるからだが、古代日本に措いては、いかに農耕が重要な位置にあったがこうした「法」によっても認識できる反面、このような「天津罪」を犯す者が如何に多かったかも、その背景からうかがい知ることができる。
 
だがしかしこれほどに重要な地位にあった農耕とその文化だが、貴族社会では全く農耕と無縁な生活が営まれ、例えば紫式部などは地方を旅したおり、「田んぼの中で農民が後ろへ下がるような仕草で、見た事も無い踊りを踊っていた」と記しているが、これは「田植え」だったに違いなく、このことから紫式部は「田植え」を知らなかったと言うことになる。
 
そしてこの「天津罪」の興味深いところは、この罪の結果が「個人」に帰結しないところであり、こうした罪が為されるとどうなるかと言えば、神が怒って災害が発生すると考えられていた点である。
日本神話では「素戔鳴尊」(すさのうのみこと)が高天原(たかまがはら)でこの天津罪を犯したために、天照大神(あまてらすおおみかみ)が怒り、「天岩戸」(あまのいわと)に閉じこもってしまう記述が出てくるが、この神話から見えるものは、「天津罪」を犯せば太陽が昇らなくなる、若しくは天候不順が起こるぞ、と警告する意味を持っていたに違いない。
 
それゆえもし私が「天津罪」を犯した場合、私はそれによって時の朝廷や、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)によって逮捕されることは無いが、そのかわり、その年に起こった地震や気象災害が全て私のせいだとされるのであり、これは牢屋へぶち込まれることが無い反面、ある種の無限責任を想起させるものであり、こうした点を考えるなら、古代日本の「罪」の概念はその原因と結果の2つに対処する方法があるとするなら、「原因」に対処したものだったと言うことができようか。
 
つまり犯罪を犯した者に対する罪の概念ではなく、犯罪を犯させない概念がそこに存在し、しかも罪に対する社会連帯、若しくは全体責任のような形が見られることである。
また罪の概念としてキリスト教文化、イスラム教文化は、基本的に人間の性悪概念から罪と言うものが定義されるが、古代日本で見られる罪の概念は人間と罪の分離である。
 
手が泥で汚れても洗えばまた綺麗になる。
人間もまたこれと同じであり、本来神々のおわします日本にはその決定的な悪は存在し得ず、人々の犯す罪は「穢れ」によってもたらされたものであり、その穢れを祓えば人間は善良なものであるとする考えが古代日本の罪の概念であり、これは薄く弱くなっていても、言葉にならずとも、現代日本社会で連綿として生き続けている「日本の概念」である。
 
「罪を憎んで人を憎まず」とは難しいものだ。
人を殺した者には応分の処罰を、また人殺しを許せばその人間がまた人を殺すだろうし、他の者も同じ事をするに違いない。
であるなら人を殺した者は殺されなければならない。
欧米の宗教は善と悪を区分けしてきた為に「悪」と言う概念を作り出してきたが、古代日本は人間に対して「悪」を作り出さなかった。
 
このことの持つ意味は限りなく大きい。
法や悪と言った概念は相対的なものであり、本来であれば人が人を裁くことはできない。
従って「悪」と言うものは「善」や「普通」であることに対する「異端」でしかなく、例えば殺人にしても、その殺された人間が一生に食するであろう他の生物からすれば、人間が死ねば死ぬほど自身たちの生存のチャンスが広がるのであり、彼らにとってはその事情など関係なく、人間が死ぬことは「善」となる。
 
私たちが「法」と呼んでいるものは人間にとって都合の良い「法」でしかなく、従って不完全なものでしかないが、近代に措いて世界を席巻した欧米の価値観は、法や慣習、文化についても人間の性悪概念を基調に、片方の「善」の概念を積み上げてきたが、その「善」は東西冷戦の終結とともに、悪の概念が消失したことにより、相対的に「善」の概念も軽くし、こうした中で「悪」の概念に傾いた価値観から、更に深い「悪」を求める社会を招いてしまった。
 
つまり国際社会はこれまで、罪と言うものがあって、その入り口と出口があるとするなら、出口を塞ぐことに終始し、入り口を塞ぐことをしなかった。
そのために経済と言うものによって劣化し始めた社会は、絶対的「善」から相対的「善」へと価値観が変遷し、このことはより貧弱な悪、劣悪な悪をして自身の「善性」を確かめるような風潮へと変わっていき、その中で罪を個人へ集積させるようになって行ったのである。
 
そしてこのことは欧米文化が持つ法的概念でも、建前上は「罪を憎んで人を憎まず」だった概念、日本に措いては薄くではあるが、どこかで深く大衆の価値観に根ざしていた同じ概念を全く消し去り、今日に至っては僅かな言動でもすぐに個人が攻撃され、その小さな罪をして、個人に対する全ての人間性までもが剥奪されるかの有様となってきている。
 
だが罪の本質とは、本当にその個人が全ての責任を負うべきものであるかと言えば、例えば家族環境、また仕事の関係、夫婦関係もそうだが、そうした社会的な側面が全く関与しない犯罪と言うものは存在せず、その意味に措いては罪と穢れを分けて考えた古代日本の有り様は、ある種の本質のように私は思えるのだが、これでは甘いだろうか・・・。
 
「罪を憎んで人を憎まず」、今では古い価値観になってしまったが、現代の日本社会にあえて私はこの言葉を進言しておこうか・・・。