政治とは「対立を調整する技術」である。
従ってそこに公明正大、人間的な道徳観は必要が無く、個人の人格も必ずしも高邁なものである条件は付加されていない。
例えば市場で毎年生産量が少ないサクランボは市場で優遇され、その市場出荷手数料が免責されていたとしよう。
でも年によって大きなばらつきがある「みかん生産農家」に対しては、市場がその不安定さから、市場出荷手数料を徴収していたらどうなるか・・・。
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やがてサクランボ生産農家が優遇されていることを知ったみかん生産農家は、その市場での不均衡を是正すべきだと騒ぎ出すことになる。
そしてこうした場面、市場と言う農家を包括する組織と、生産農家との対立は両者共にこの問題に対して、それぞれの利害を背負うことから、相互に公正な調整機能が無い。
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この場面で両者の対立を調整するのが「政治」であり、これは例えばロシアとの領土問題でも、そうした問題を調整することが政治と言う事になる。
従って政治には高邁な理想などは必要が無く、如何に問題を調整できるか、その能力こそが「政治能力」と言うものであり、ここに金権政治で汚職にまみれようが、あちこちで女を作ろうが、調整機能のある者こそが有能な政治家と言える。
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ただし、調整と言うものには相互が納得できる形の無いものが必要になる。
これが政治に措ける「権威」と言うものであり、この「権威は」調整を望む双方が自主的にその権威の所有者である権力者を支持することで担保されるが、ここで権力者の権威の正当性を計る基準となるのが、その思想よりむしろ、現実的公正さと言う事になる。
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そえゆえ調整機能で必要とされるのは、本質的にはその権力者の人間性や、品格ではなく公正さと言う事になるが、ここで発生してくるのが「平等」と言う思想である。
多くの人間はこの「平等」と言うものを何か確かなもののように錯誤しているが、実は人間社会に「平等」は存在せず、平等の本質は「制約」である。
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それは本来空間的広がりで言えば、机の上に置かれた画用紙の上に一本の線を引いたようなもので、この線によって元々は画用紙の総面積が自由に使えたものが、その線が描かれたがゆえに分断、若しくは次に何かを描こうとする場合の邪魔になっていくケースが現れる。
これが平等と言うものである。
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また人間は任意に引かれたこうした線に制約を受けると同時に、そこに依存し、その線を主体に物事を考えるようになるが、これが平等がもたらす時代ごとの価値観とも言え、更にこの線に多くの人間がぶら下がっていくと、一本の線は人間の劣化とスパイラルになって奈落の底へと落ちていく。
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また権力志向の強い者、貧しさを知らない者、愚かな者は基本的に平等などと言う高邁な思想は口にしたとしても、その体躯には馴染んでおらず、従ってこうした愚かな者ほど、平等によってスパイラス落下を起こさない側面を持つ。
これが民主制によって政治が衆愚政治へと劣化しない原理、即ち王制や専制政治の民主制に対する優位性である。
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しかし思想的に高邁な者、また貧しい者は一度そこに「平等」の線を描いてしまうと、民衆の要請に応じてどんどんその線の位置を低くして行ってしまう。
つまり画用紙を線だらけにしてしまい、次に何かを描くことが困難な状態としてしまうのである。
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冒頭の話に戻すなら、その当初は確かにみかん農家とサクランボ農家には不平等があった。
そしてこれは政治で解決すべき問題だろう。
だがこれが行き過ぎて、例えば市場価格でどうしてこんなにもサクランボとみかんの価格に差があるのかと言うことになり、みかん農家に補助が与えられば、サクランボ農家とみかん農家の格差は減少すると言うことを考え始めるようになり、平等を巡ってその僅かな差すらも政治が解決しようとしたときには、平等の連鎖が始まっていく。
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その結果どうなるかと言えば、本来は農家が努力することで解決しなければならない問題にまで、つまりはその調整が自由意志に任される部分まで調整課題となり、こうなれば民衆の暮らしの細部に渡って調整、言い換えれば政治が介入し、為に民衆はその努力を全て政治に押し付けるようになるのである。
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またこうして細部に渡るまで政治が介入する状態は、本来であれば少人数であるべき政治、行政組織を肥大化させ、ここに調整役の政治は完全にその制度自体を独立させた形を発生させ、ついに本来の調整機能が民衆と対立を起こしていくようになる。
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日本は1991年に発生したバブル経済の崩壊と共に、それまで存在したあらゆる価値観が守れなくなってしまったが、その中で調整機能として求められた政治家の資質もまた根拠を失い、そこから本来政治には必要の無い人間性や、思想に民衆が根拠を求めて行った。
為に政治家は本来ならば調整能力が問われるにも拘らず、そこが蔑ろにされ、ただ人間性や思想の爽やかさだけで政治家が選択されるようになってしまった。
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しかし格差社会の是正、平等の精神を突き詰めた社会は、基本的に画用紙に数え切れないほどの線を引いてしまい、そこには何も描けなくなってしまったのである。
政治は対立の調整機能であり、調整はできれば少なければ少ないほど、社会の自由裁量が増し、そこでは健全な競争原理のなかでの自然調整がはかられる。
更に平等の精神は基本的には人間の劣化を容認していく。
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このことを考えるなら、日本国民は政治に頼ってはいけない。
自分の出来ること、できる最大限の努力は自分でしなければならず、また根源的な話だが、自分の両親の面倒を見るのは政治の責任ではない。
それは生物学的にも、また道徳的にも子孫である子供の責任であり、こうした部分まで政治の責任にするのは甚だ怠惰な平等の暴走であり、また声高に規制緩和を唱えるなら、政治が国民の責任を少し以前の段階まで戻すことが、それを達成する近道となるのではないだろうか・・・。
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「庚申待ち」
時は徳川将軍様の時代、江戸の町では時々みなで集まり、酒も加減しながらチビチビ飲み、それでいてそろそろ家へ帰るのかと思えばそうでもなく、つまらない話と古女房で朝まで大騒ぎ、方やバクチに興ずる者と、なぜかみんな一晩寝ない夜があった。 これが世に言う「庚申待ち」の夜だ・・・。 「庚申待ち」とは人間の体内にいるとされる三尸(さんし・尸は屍または何かを司るの意味)と言う虫に話が始まるが、三尸と言う虫は庚申(こうしん・千支で表される日の一つ)の夜、寝ている人の体内を抜け出て、その人の犯した罪や悪行を天帝に告げ口すると言われていた。 それで庚申の夜、この三尸が体を抜け出し天帝に告げ口できないように、夜は寝ないで過ごす・・・と言うのが「庚申待ち」だ。 「庚申待ち」の発想からすると、人間はただでさえこうした三尸によって、いろんなものを吸い取られているのに、その上天帝に告げ口までされて、寿命が縮められた日には生きる時間がなくなってしまう・・・と言うことなのだろうか。 庚申の三尸の発想は恐らく中国の道教にその端を発しているだろうが、この尸は日本の陰陽師達には天文の神とされていて、これ自体は全く根拠のないものなのだが、なぜか天文をつかさどるもの・・・になっている、そして一般大衆の間では疫神の一人と言われている「青面金剛」信仰となっていたり、道教で言う天帝が帝釈天だったり、閻魔大王だったり・・・更には三猿にかけて、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三匹の猿などと混同されていたりで、訳が分からないことになってしまっている。 三尸の正体は、実は老化、不摂生、と言うものに対する恐れ・・・そしてこれは人間の煩悩、「業」と言うものを指しているように思う・・・が、「庚申待ち」を知らなかった私は、今まで何回の庚申で眠ってしまったのだろう・・・三尸がしっかり仕事していれば、今頃天帝が大激怒しているに違いない・・・。 |
「奇跡の液体」
Go West – Pet Shop Boys – World卒s Armys・・・・・・ .
水を容器に入れた場合、その液体内部の分子は全ての方向から引力作用を受けるが、液体の表面近くの引力作用は液体の内部に限られる。
このことから液体には表面積を小さくしようとする力、即ち「表面張力」が生じるが、水の表面張力は他の液体のそれと比較すると格段に大きい。
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それゆえ細い管などでは地球の重力より表面張力の方が大きくなり、重力に逆らって上昇運動を発生させるが、これを「毛細管現象」と言い、実はこうした水の作用が存在して始めて、地表より遥かに高さのある植物の先端まで水分が送られたり、或いは血圧が低い状態の動物の毛細血管まで、しっかり血液が送られたりしているのである。
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液体の中では地球上で最も大量に存在する水、実に人体の60%、新生児ではその80%が水であり、これをして人体を表現するなら「水ユニット」とも言うべきものかも知れない。
従ってこれほどに重要かつ特殊な液体にも関わらず、その量の多さ、または余りに深い生物との関連性によって「有って当たり前」のように思われているが、一方でこれほど特殊な液体は地球上に存在してないほど、特殊な液体であり、言うならば水は「奇跡の液体」なのである。
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水を構成する原子は水素原子と酸素原子だが、水素原子は陽性の強い原子であり、酸素原子は陰性の強い原子で、これが共有結合した両原子の電気陰性度の差が大きな分子であり、このことから水は強い「極性分子」となっている。
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電気的に陽性な水素原子は、一方の水分子である酸素原子の非共有電子対の方向に近づき静電的な結合を作るが、このような水素原子を媒介とした分子間結合を「水素結合」と言い、従って水が同属の水素化合物に比して非常に高い融点、沸点であるのは、水分子同士を分離するためには「ファンデルワールス力」より強い水素結合を断ち切らねばならないからだ。
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ちなみに「ファンデルワールス力」とは原子や分子の間に働く「凝縮する力」の事だが、そのエネルギーは距離の6乗に反比例する弱いものとは言え、何も無いところからすると、この力は絶大な力を持っている。
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また水以外の物質では固体が液体の密度を上回り、その密度は温度が上昇するに従って減少していくが、水は固体の状態である「氷」の時の方が、液体の状態の時より密度が小さく、水の密度が最も大きくなるのは4°Cの時であり、これは極めて特殊なことである。
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このことが何を意味しているかと言うと、氷は水に浮くと言うことであり、冬季間に温度が下降すると、水はまず表面から氷になっていき、密度の高い4°C付近の水が底部へと沈んでいく。
この時上層部と下層部で水が攪拌され、下層部の栄養素が上層部に供給される事で、水中生物の生存が保持されている。
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さらに氷の構造は隙間が多く、そのため氷には中に多くの空気が閉じ込められ、これによって氷の熱伝導率は低く抑えられることから、氷の下に有る水の温度を急激に低下させることがない。
ゆえ、一定の深さが有る池や湖であれば、かなり低温状態でもそこに生物の生息を許容する環境が存在するのである。
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そして水の水素結合は、先に述べたように「ファンデルワールス力」を凌駕する強力なものであり、融解によって氷が溶けてしまっても85%前後の水素結合が残存し、氷から液体となってしまった水の中でも、部分的な氷の構造「クラスター」が残っていて、こうした構造は水分子の熱運動により、絶えず構成されたり破壊されたりしている。
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液体の状態の水はその温度上昇にともない、クラスター構造を壊しながらやがて沸点を迎えるが、水の水素結合が完全破断するのは、水が気体である「水蒸気」になった時であり、従って沸騰していても液体の状態にあるものは水素結合の75%を保持している。
簡単に言えば、水は他の液体と違って水素結合を切断しながら温度上昇をしなければならないことから、他の液体よりは格段に大きな「比熱」を持っていると言うことであり、この意味するところは生物の基本構造に繋がっている。
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人類は実にその成分の60%が水で構成されていて、しかも「比熱」が大きいと言う事は、如何なる意味か。
多量の水分で構成されている生物に取って、比熱が大きいと言う事は、外界の急激な温度変化による影響を受けにくいと言うことであり、温度が上昇した時、水は融解熱、蒸発熱を吸収して温度を下げ、反対に温度が低下したときには凝固熱、凝縮熱を放出して周囲の温度を上昇させる働きをしている。
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つまり水はただ生物の基本構成因子であるだけでは無く、そのままで有れば荒ぶる惑星である「地球」の急激な温度変化を抑制し、平均値付近から状況を大きく変動させない「安定」をもたらしているのである。
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人類が地球を構成している因子かどうかは分からない。
しかし水は間違いなくこの地球を構成している「因子」であり、従って生物に都合良く水が存在しているのではない。
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生物は実は水の一つの「形」なのである。
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