「生の使者」・Ⅱ

「しかし、しかしながら今村第8方面軍司令官閣下からも、如何なる場合においても、何をしてもこの命令を実行させるようにと、格別のご注意を頂いております」
「またたとえ1人であろうとも、より多くの兵を生きて帰還させるのが我らの責務ではないでしょうか」
井本は既に大泣きしていた。
考えて見れば井本も第8方面軍に転出する以前は参謀本部作戦課に在籍していた。
こうして無計画なままガダルカナル島へ兵士を送り込んだ責任の一端は井本自身にもあった。
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だからこそ、その自責の念からも、ここは一人でも多くガダルカナルから助けたい、そう思う井本があったに違いない。
だが一方で大日本帝国軍人として、既に引くに引けない戦いをし、また多くの戦友、兵士達を前線で死なせた、そのことに対する気持ち、即ち「貴様達の後に続くぞ」と言う司令部の気持ちも分かる。
生きて人に迷惑をかけるなら、ここは潔く玉砕し、皇国の戦闘に幾ばくかの戦意高揚を発することが出来るなら、我が命そこに見たりの気持ちも分かりすぎるほど分る。
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井本と宮崎参謀長、小沼作戦主任はそれからどうどう巡りの話を続けることになるが、一向に結果が出ず、ここは第17軍司令官「百武晴吉」中将の判断を仰ぐこととしてこの日は散会する。
そして翌日、近くにある百武中将が住居としている洞穴を訪れた井本は、ここでも熱心にガダルカナル島撤退を進言するが、ここで百武中将は、第8方面軍司令官の撤退命令であることから即決を避け、後日決断すると井本に告げる。
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その後百武中将はこの撤退の判断を再度宮崎参謀長、小沼作戦主任に検討させるが、この段階でガダルカナルの日本軍前線はアメリカ軍に釘付けになっていて、ここでの撤退は戦闘継続にしても同じだったが「自滅」でしかない。
そこで参謀達の考えでは「玉砕」しか選択がなく、この結果から百武中将は「第8方面軍の命令、即ち撤退は軍命令であるからこれに従う」としながらも、「これを実行できるか否かは予測できない」と言う歯切れの悪い回答をする。
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つまりは百武中将は指揮官として、これ以上無駄な兵の消耗は避けたいと思いながらも、前線や参謀たちの気持ちを汲み、また現実を見据えるならば、撤退は可能性でしかないと告げたのである。
だがこの2日後、少しだけ奇跡が起こる。
暫くしたらアメリカ軍の攻撃が止まったのだ。
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これまでの戦闘でこうしてアメリカ軍の攻撃が止まった場合は、必ずアメリカ軍が補給をしている時であり、ここから考えられることは10日ほどの時間の余裕だった。
ここで初めて「もしかしたら撤退は可能かも知れない」と考え始めた参謀達に百武中将は訓令する。
「日本人の流血を見たる土地は、いつかは必ず皇国の地となる。ガダルカナル島も一度はこれを失っても、いつかは皇国の地となることを確信する」
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この瞬間ガダルカナル島は「死」の島から「生きる為に闘う」島となった。
第17軍は「撤退」に向けて動き始めたのである。
またこうした経緯から最前線の第2師団、第38師団の説得には17軍作戦主任「小沼治夫」が説得に向かうことになったが、小沼大佐は「もし第一線が情勢切迫して玉砕することになっていたら、自分も自決する、それゆえもしそうなったら重要書類はすべて焼け」
そう別の参謀に言い残していた。
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だがこれと時を同じくして第38師団長「佐野忠義」中将は、第38師団はもはやこれまでの判断を下し、玉砕命令を出していた。
そこへ小沼大佐が現れ、撤退を伝令すると、出てきたものはやはり撤退に対する反対である。
もはや意を決した参謀たちからは小沼がそうであったように、同じ理由の反対意見がでる。
小沼はアメリカ軍の攻撃が止まっていること、そしてこれは補給をしているに違いなく、この機であれば撤退は可能だと説く。
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そして17軍でもそうだったように、小沼と参謀達の論戦が続くが、ここでも最後に撤退を了承したのは師団長「佐野忠義」である。
「大命とあらば、どこで死ぬのも同じこと。軍指令の命令に従おう」
立派である。
既に玉砕を覚悟したにも拘らず、最後まで1人でも多くの兵士たちの可能性を考えることがいかに困難なことか、そのことを知るものであればこその大変な決断だった。
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小沼はこの後第2師団へも説得に向かうが、ここでも同じような経緯を辿って師団長「丸山政男」中将がやはり撤退を承諾する。
小沼が第17軍司令部に戻り、こうした経緯を聞いた井本は何も言わず地面にひれ伏して感謝していた。
百武中将もそうだが、各々の司令官達はただ命が助かりたかっただけではない。
決してそうではない。
死者の隣りに身を横たえ、虚ろに虚空を見つめ、死を待っている兵たちの姿など生涯ただの一度たりとも忘れようもない。
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そしてそうした兵士達が望んだものは「友軍はいつ来る」と言う言葉であり希望だった。
もし十分な補給があったとしてもガダルカナル島は苦しい戦闘が続いたはずであり、その中で傷病兵となり、マラリアや赤痢にかかりながらも戦い続けた。
一歩も引くことなく善戦していたと言うべきものである。
しかもそうして傷ついたがゆえに、自分たちが撤退するとならば、更に味方の者たちをもまた危険に晒す。
ならば異国の地で果てようとした彼らの思いは十分に賞賛に値するものであり、まさに軍人の鑑である。
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だがその一方で全体を指揮する司令官達もまた、撤退ともなればこれは敗北であり、生きて名を汚すなら玉砕した方が恐らく華々しい名声を残すことが出来ただろうことは分っていたし、そう言う状況でもあったが、そこで私情を捨て命令に従うことを貫徹した、そのあり様にやはり軍人として崇高な誇りを感じるのである。
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                             「生の使者」Ⅲに続く

「生の使者」・Ⅰ

立つことの出来る者、その寿命30日間
体を起こして座れる者、あと3週間
寝たきりで起きれない者、あと1週間
寝たまま小便をする者、あと3日間
物を言わなくなった者、あと2日間
まばたきしなくなった者、明日
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これは日本軍歩兵第百二十四連隊旗手、「小尾靖男」少尉が記した日記の一節である。
そしてこれは昭和17年末頃、ガダルカナル島アウステン山で囁かれた、限界に近づいた人間に対する余命判断であり、しかもこの統計に基づいた判断は決して外れる事がなかった・・・。
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ガダルカナル島、太平洋戦争でこの名を語るとき、そこに横たわるものはもっとも過酷な響きを持っている。
昭和17年8月7日、アメリカ海兵隊第一師団の上陸に伴って開始された日本軍のガダルカナル島攻防戦は、「一木清直」大佐指揮一個連隊、「川口清健」少将の一個旅団、「丸山政男」中将の第二師団、「佐野忠義」中将の第三十八師団と、次々アメリカ軍に殲滅させられたが、その背景には制空権、制海権が既にアメリカに奪われ、食料や弾薬補給が出来なかったこと、また本来戦闘では絶対やってはいけない兵力の分散によって、常に多勢に無勢の戦闘になっていたことから、考えられない不利な戦闘となっていた。
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また昭和17年末には既に日本軍はこの地域に対して事実上補給方法を失っていて、そうした経緯からガダルカナル島の日本軍は、実際の戦闘よりむしろマラリア、アメーバー赤痢に感染して死亡していく、または餓死していく人数の方が多かったのである。
そして大本営がガダルカナル島の実情を把握し、ここから撤退することを決めたのは昭和18年1月4日のことであり、今夜はこのガダルカナル島から、もはや引くに引けなくなってしまった日本軍に、撤退を説得しに奔走した男の話である。
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井本熊男(いもと・くまお)、彼の名を聞くとあの悪名高い中国での細菌兵器実験組織「731部隊」のことを連想する方も多いと思うが、井本は確かに中国での細菌兵器実験には重要な役割を果たしている。
この点では幾ら上からの命令とは言え、彼にも責められるところはある。
だが井本は昭和18年ごろから、やはり大本営に対する疑念も持っていたと思われ、その一連の屈折した感情は、ガダルカナル島の惨状を見るに付け、頬をつたう涙をして、また後年、南に向かって敬礼をするそのあり様に、彼の思いのすべてを見る事が出来ようか・・・。
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昭和17年12月24日、ガダルカナル島の第17軍司令部参謀長「宮崎周一」少将はこのように日本へ打電している。
「いまやガダルカナル島の運命を決するものは糧秣となれり、しかもその機は刻々に迫りつつあり。軍の最も必要あると認められるものは糧秣、主食及び塩のみにて可なり、やむを得ざるも1人4合を切望する」
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多分この段階で第17軍の生存者は1万人を大きく割り込んでいただろう、そしてその残った兵士達も大部分が傷病兵となっていたに違いない。
この状況に本来は作戦の失敗であったことを隠蔽する為、大本営は極秘作戦として昭和18年1月4日、ついにガダルカナル島から日本軍を撤退させることを決定したが、通信状態の悪いガダルカナル島へはこの連絡が届かず、それで第8方面軍参謀「井本熊男」中佐が伝令、及び前線軍の説得の為にガダルカナル島に派遣されたのだった。
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そしてそのガダルカナル島で井本たちが見た惨状は、まさに阿鼻叫喚と言う言葉すら軽いものであるかの如くの光景だった。
ひょろひょろにやせ衰え、その目の焦点は完全にあらぬ方向を見いている兵士、木の根元に座りうつむく者、いずれもその軍服はボロボロになり破け、顔は既に髑髏に近い輪郭となり、井本たちが通っていくと、そこから聞こえてくるものは「殺してくれ、頼む殺してくれ」の声でしかない。
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また恐らく、長い間に渡って銃弾の補給もなかったのだろう、彼らが持っている物はみな銃剣と飯盒(はんごう)だけであり、それを脇に措いてみな横たわっていたが、死体が散在し腐りかけ、異臭を放つ中に、またそれは明日のわが身であることを自覚したかの様に、無言で虚空に向かって目を見開く傷病兵の姿は「地獄」すらも超えたものだった。
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ジャングルを分け入り17軍の司令部を目指していた井本は、こうした悲惨な光景を見るに付け、このガダルカナル島撤退と言う作戦が、いかに困難を極めるかを身をもって知ることになる。
即ちこのガダルカナル島の状況は、もはや引き返すほうが困難な状況まで突き進んでいたのであり、人間がここから死へ向かって進んだ方が楽か、引き返すことが出来る位置かと言うと、それはもはや「死」の道の方が遥かに近いところまで、ガダルカナルの日本軍は踏み込んでしまっていたのである。
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それゆえ井本が17軍司令部にたどり着いた時も、出迎えた「宮崎週一」参謀長と作戦主任「小沼治夫」大佐は、これは第8方面軍から激励と、最後の攻撃命令が下ったものと思っていた。
しかし井本がここで「撤退」と言う言葉を口にすると、小沼作戦主任は即座に反対し、宮崎参謀長もそれに頷いた。
「不可能だよ、井本参謀・・・」
「撤退などは考えられない、軍の状況から見て、とても敵(アメリカ軍)の目を盗んでここから離脱できるとは思えない。またよしんば少人数でも離脱できたとしても、大部分の戦死者達の遺骨は戦場に晒さねばならず、撤退できた者も既に残骸に過ぎない」
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「即ち、生きて本国に帰っても皇国の厄介にしかならないとすれば、ここは黙って死なせてくれ・・・」
「戦況は切迫していて第一線の前線も司令部も撤退は即ち死でしかない、みな既に玉砕を覚悟して戦っている」
「この多くの部下や戦友の英霊達を置いて、我々だけが帰れると思うか・・・」
「井本参謀、貴官も軍人ならこれを察して欲しい・・・」
小沼の言葉に宮崎参謀長も頷く、そして井本は天を仰ぎ、その涙を流すまいとしたが、ついには井本の頬を大筋の涙が伝っていった。
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                             「生の使者」Ⅱへ続く

「残念、予選落ち~」

今はもうこうしたことも昔話になるのかも知れないが、テニスの試合におけるジャッジの権限は絶大で、例えジャッジミスがあったとしても、これに異論をはさむことは出来なかった。
それで明らかにジャッジミスがあった場合、そのジャッジで有利になった選手は、次の場面で1度わざとミスをしてプレーの公平さを保ったと言われている。

長女が小学生の頃の話だが、私は学校の大会で優勝し、市の陸上競技大会に出場することになった長女を連れて、その競技場まで足を運んだが、どうせ予選落ちだろうと思い、帰ってからまた出てくるのは面倒なので、競技が終わるまで待つことにした。
どうも人前で自分の子供を応援するのもバカっぽいし、かと言って他の親のように、毎日顔を合わせている子供をビデオ撮影するのもアホらしい、それで昔少しだけやっていた走り高飛びでも見学しようと思ったのだが、たまたま走り高跳びはやっていなくて、仕方なく隣で走り幅跳びを見ていた。

さすが、各学校の優勝者達だけのことはあって、記録はなかなかのものだったが、一人の女の子がスタートを切ったときだった。
小学校低学年くらいの男の子がその選手の走っていく先、つまり砂場を横切ってしまい、それを気にして助走速度を落としたこの女の子は、満足に飛ぶことが出来ずに終わってしまったのだった。
普通こうした競技は2回記録をとって、良いほうを記録にするのだが、どうもこの女の子の場合すでにこの競技が2度目だったらしく、ひどくがっかりした顔で砂場を去っていこうとしていたが、この時審判の50代くらいの男性は、砂場を横切った男の子に「だめじゃないか・・・」と言っただけで、そのままメジャーで距離を計り、競技を終わらせようとした。

これには見ていた私が腹が立って、審判に抗議した。
こうした記録競技は妨害が入ったら記録を取り直すのがルールだ、今のは明らかに妨害であり、記録は取り直さなければならない・・・私は審判の男性にそう言った。
だがこの審判、「強化選手じゃないから記録は1回取れればそれでいいんですよ」と面倒くさそう答え、その場を去っていこうとしたので、私は更に続けた「子供の競技や記録に不公平があれば、その子は次からやる気を失う、スポーツの審判は公平でなければ記録として成り立たない」

だが、相変わらずぶつぶつ言って記録の取り直しをしないこの審判に、私は名前を尋ね、大会本部へ直接抗議することにしようと思ったのだが、意外にもこれを止めたのはこの選手の父親だった。
「いいんですよ、どうせ県大会へ出れるほどではないし、これでもめて学校でいじめられたら困りますしね・・・」
その父親は女の子の手を引いて並んで私に「ありがとうございました」と言ったが、彼女は今にも泣きそうな顔をしていた。

強化選手・・・実に嫌な響きだが、どの学校でも記録を出しそうな優秀な選手は目をかけて育てるが、その他はこうした選手の盛り上げ役くらにしか思っていなくて、そうした意味では学校、審判、スポーツ主催団体と言うのは一つになっていて、こうした強化選手と呼ばれる選手は普通より多くの恩恵を受けることが出来る。
例えばジャッジ、器具や備品などの優遇、記録が悪くても引き上げるなどの優遇があるし、審判とも顔見知りになっている場合が多いのだ。

高校生のバスケットボールだと強化チームになれば、不利な試合でも審判に圧力をかけ、強化チームの対戦相手チームの反則を厳しく取って負けさせる事だってできるのだが、こうしたことは表には出ず、たまに「なんかこのジャッジはおかしい」と言う試合の裏側は、かなり組織的なアンフェアが行われていたりする。

優しそうな父親、そして大人しそうな女の子、いい加減な審判によって彼女がうしなったものは余りにも大きいことが分かるのは、きっと彼女が大人になってからだろうと思う。

もう10年以上前かも知れないが、私はあるマスコミ関係の男に頼まれて、長距離走の試合を代理取材したことがあって、この日は朝から今にも雨が落ちてきそうな天気、一応大会は始まったが途中から雷を伴った激しい雨になった。
次から次へとゴールしてくる選手達、そして恐らく最後の選手と思われる選手が帰ってきて30分くらいは経っていただろうか、
観客や私達取材陣も帰ろうと後片付けをしていたその時だった、ヨロヨロになって倒れそうな、男子高校生の選手がグラウンドへと入って来たのである。
バケツをひっくり返したような激しい雨の中、その高校生はゴール手前で立ち止まったかと思ったら、ガクっと膝を落とし両手を地面につけ、苦しそうな呼吸は体全体を大きく揺らしていた。
始め何が起こったのか分らなかった観客は、この時点でようやくことの次第が理解できた。

慌てて大会関係者が駆け寄った、だがその選手は自分で立ち上がり、また歩き出した、顔やウェアに着いた泥が瞬く間に雨に流され、苦しそうに開けた彼の口にまでそれは流れ込んでいた。
会場からは大きな拍手が巻き起こり、やがてそれは「頑張れー」と言う声援に変わっていった。
そしてゴールラインを超えた瞬間、うつむせに倒れてしまった。
激しい雨の中、多くの人が彼の周りに駆け寄り、彼は一人の男性に背負われて建物の中へと運ばれていった。
翌日の某新聞、片隅に小さくだがこのことが載っていたが、無理やり頼んだのは私だった。

「おとうさーん」・・・。
コンクリートの側壁の低いところで座って、ボーっと昔のことを思い出していた私は、長女の嬉しそうな声で現在に戻された。
「おっ、どうだった」
「ざんねーん、予選おちー」
やっぱりな・・・。

「ラプラスの悪魔」

フランスの数学者「ピエール・シモン・ラプラス」(Pierre-Simon-Laplace 1749-1827)はこの宇宙の森羅万象にある種の「運命」が存在することを説いた。
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即ち特定の数値が分かればその結果は決定しているとしたのであり、この説によれば、例えば私たちが2個のサイコロを振ったとき、どの位置でサイコロを持ったか、どれほどの角度で如何なる速度でそれがテーブルに投げられたかによって、出てくるサイコロの目がいくつになるのかは、正確に予測する事が可能だと言ったのであり、だがしかし現実世界に措いて常に未来が予測できないのは、原因となる数値が正確に出せないからだとした。
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ところが後年、量子力学の分野で素粒子研究が始まってくると、宇宙から降り注ぐニュートリノなどの素粒子の中には、見ただけで弾き飛ばされてしまう素粒子などが発見され、これによって少なくとも物理学の世界では全ての因果律の「因」は不確定であることが分かったのであり、「因」が不確定ならば「果」も間違いなく不確定であり、このことから「未来は分からない」、つまりは森羅万象の不確定性が分かったのである。
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そしてこうした背景から現代社会のデータと言うものを考えてみると、そこには大変奇妙な現象が起こっていることが判る。
いわゆるシュミレーションによる解析だが、ラプラスですら原因となる全ての事象を現時点で捉えることは難しいとし、後年の量子力学分野が不確定性を唱えたにも拘らず、現代日本のデータの汎用化に際しては、シュミレーションを基にした判断が増えてきている点である。
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日本海溝地震(気象庁呼称・東日本大地震)以降、津波対策に措ける防波堤、防潮堤、津波防護堤などの建設計画には必ずと言って良いほど、シュミレーション結果を参考にしてと言う言葉が踊るが、このシュミレーションに使われたデータと言うものが全く発表されず、国民はただシュミレーション画像や専門家と称する者の予想をして、それで判断を余儀なくされている傾向は、大変危惧すべき事態だと思わざるを得ない。
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人間の感覚の中で最大の効力を発揮するのが「視覚」であり、この視覚に訴える情報は例えそれが間違いであっても、他の聴覚や触感などより遥かに強力な影響を及ぼし、それによって決定的な印象を与えてしまうが、冒頭の話にも出てくるように、この世界の未来は常に不確定であり、それ以前にあらゆる意味で未来を予測するに足る、現在と言う時間軸での「因」を知ることすら不可能なことなのである。
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にも拘らず平気でシュミレーション結果から、防潮堤の高さは15mで大丈夫だと判断しましたと言うその感覚が私には理解できず、シュミレーション画像など現代流行の3D映画より遥かに劣悪なもので視覚に訴え、それで確定的な事を言い、納得してしまっている社会に大きな危険性を感じる。
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1993年頃、伊豆東海群発地震が発生したおり、国民的な地震予知に対する期待は大きく膨らみ、為に気象庁の主に地震部門を担当していた「地震火山予知連絡会」には連日伊豆東海群発地震の原因と、その予知に関しての問い合わせが殺到し、こうした傾向はついに国会でも取り上げられる事となった。
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だが事実上地震のことなど何も判らない国会や政府はこうした国民の要望、期待を全て気象庁の地震火山予知連絡会に丸投げし、この回答に窮した地震火山予知連絡会は、ついに「現代の科学では地震の予知は不可能」と言う、自らの組織の存在意義を否定する回答をせざるを得なくなり、ここにその存在意義は完全に失われ、国民は失望した経緯があった。
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その後1955年からは東海地方の観測態勢が強化され、地震予知よりも発生した地震を早く察知する方向へと方針転換が図られ、こうした流れから相対的に力を失った地震火山予知連絡会は片隅に追いやられ、変わって政府の「中央防災会議」や「火山噴火予知連絡会」、「地質調査委員会」などが台頭してくるが、このような一連の流れの中に現代の「緊急地震速報」がある。
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この仕組みは地震発生時に起こる「震動波」の特性を利用したものであり、地震の波は大体4つの波を持っていて、その一番最初には初期微動と言う、人間には感じないほどの微弱な波から地震は始まって行き、この波は科学用語で「P波」と呼ばれる。
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そして本震動、つまり実際地面が大きく揺れる震動は「S波」と呼ばれるが、P波とS波はほぼ同時に発生しながら、その伝達速度に違いが有り、P波はS波よりも約1・7倍早く地面を伝わって行くことから、このP波を捉えて本震動、S波の到達を知らせる仕組みが「緊急地震速報」の仕組みとなっている。
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その為日本全国にこのP波を捉える観測機械が設置されているが、こうした観測機械の精度はともかく、気象庁の地震判定マニュアル、コンピューターの判定アルゴリズムは、常に50%の確率の反対側を捉える傾向にある。

 

「nationalism」

nationalism(ナショナリズム)の語源である「nation(ネーション)はラテン語で「natio(ナティオ)、つまりは「生まれ」にその起源が有り、出生、出自の女神を指すと同時に家族よりも広く、氏族、部族よりは狭い範囲の「同じ生まれに帰属する者」と言う意味を持っていたが、この範囲が「場」に有るのか、それとも血縁に有るのかと言えば、それが重複された形で、どちらかと言えば「場」の方に多くの意義を持っていた。
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従って「natio」は元々血縁が重視されたものでは無く、1380年代パリやボローニャの大学でも「natio」と言う言葉が使われたが、ここではカレッジの構成員と言う共通性、地理的な繋がりを指していて、これが中世後期、近世ヨーロッパに至るに付け国家の案件に同意することができる身分制議会の発生と共に、特権階級の事を指すようにまで拡大されて行った時点から少しずつ矛盾を孕んでくる事になる。
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ラテン語の初期、「natio」と共に、どちらかと言えば血縁、言語同一性、文化的同一性を重視した「同じ生まれに帰属する者」の概念に「gens(ゲンス)と言う言葉が有り、これは本来文書的には区別できないものの、その意識の中では「natio」とは決定的な区分が存在していた言葉で、「地」と「血」の区別が有ったが、「natio」が近世ヨーロッパで特権階級の概念にまで拡大されると同時に、王や国家と国家運営を共有する者たちの中で同じ言語、同じ文化、思想が形成されて行った事から、ここに「地」と「血」が交わる、つまりは「natoi」は「gens」を包括して行ったのである。
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またイングランドを例に取って見れば解るが「薔薇戦争」で没落していった貴族階級に変わり、その下の身分の者たちが貴族社会へ参入するに当たり、言い換えれば国王の政治が民主化する過程で、「natio」では結束が保てず、「gens()を表に出していく事で結束が発生して行ったが、この基本概念はユダヤ教のヘブライ人を思想モデルにしている。
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同じ一つの宗教、言語と共通した歴史認識を持ち、特定の場から発展する事はないが、「他」を特異なものとしてでは有っても、その存在を許容する「自」が存在する。
この概念が現代社会の「natio」、所謂「nationalism(ナショナリズム)の概念であり、ここに「nationalism」の基本は国家運営の参加権付与が基本になる事から、主権が付与されることを条件とする漠然とした暗黙の約束が存在してくる。
従って「nationalism」の概念が有って始めて、主権在民の思想が成立していくのである。
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だが「nationalism」とは本来が「natio」と「gens」と言う差異の有るものから構成されている事、また個人の考え方は決して完全一致するものではないことから、「nationalism」の概念は大まかには「民族主義」「国民主義」「国家主義」の分支から発展したものとなり、国際社会の中でその民族が持つ特異性と多様性を鑑みるなら、各国のそれぞれが同じ歴史を辿ってはいない事をしても、「nationalism」の考え方はあらゆる多様性の中に存在する事を忘れてはならない。
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そして「nationalism」が動きを持つその原動力は、基本的には「ひがみ」である。
民族が他の支配からの開放を求め、政治的決断、運命をその民族が決定する事を望むのは民主主義の至高である。
だがこうした運動が大衆に広がり、それが何らかの交渉能力や権利を獲得するようになると、そこに発生してくる政策内容は「社会主義的なものになっていくが、これは思想が民主化すると劣化、つまりは個人の事情が大義的思想に侵入するからであり、ここに存在するものは比較による自己認識になる。
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また民族が統一と独立を実現する権利は「right of national self-determination(民族自決権)として国連憲章にも謳われているが、絶対君主への忠誠心から始まった国家帰属精神が市民革命を経て国民意識にまで拡大したヨーロッパでは確かに理性、自由、民主主義、社会契約と言った普遍的命題を「nationalism」にまで昇華することができたが、それ以外の国家ではアメリカが「力と金」、後進国では先進国に対する劣等感、屈辱感、不平等感が「nationalism」の核になっている。
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ここに中国や韓国による日本への「nationalism」の高まりは、基本的に欧米絶対主義、欧米崇拝主義の反動とも言えるのであり、その日本の「nationalism」は実は「natio」とも「gens」とも付かぬ中を各々が解釈した「nationalism」で突き進む事から「個人ナショナリズム」となっているのであり、これは基本的に天皇制と言う立憲君主制度の長い歴史の中で、国民が国家や領土の概念の責任を持っていないからである。
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更に中国を見れば解るように、今日国際社会で単一民族が国家を形成している国家など有り得ない状態の中、下手に民族意識を煽ってしまえば国家が分裂する危機を孕んでくる事から、現在の「nationalism」はラテン語原初の「natio」と「gens」を分離する方向へと動いている。
これが「ethnicity(エスニシティ)と言う考え方で、予め国家が多種の文化で構成されている事を認識した上で、問題に対する共同意識を構成しようと言う方向性である。
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しかし「ethnicity」の語源は本来マイノリティー、少数連合を指している。
国家とはあらゆるマイノリティの集積であり、大きなものも基本的にはマイノリティで有り、この中で言葉も含む圧力や暴力によって大きなものが小さなマイノリティを征した「ethniicity」は「ethnicity」とはならず、あちこちで適当な意見が外に向かって出ていくことになる。
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「nationalism」は「他」を攻撃する道具では無い。
「異端では有っても他を認める自」である事から、この原則は多数決もまた然り。
国の外に対しても内に対しても自分をどう調和させるか、それが「nationalism」と言うものではないかと思う。