「しかし、しかしながら今村第8方面軍司令官閣下からも、如何なる場合においても、何をしてもこの命令を実行させるようにと、格別のご注意を頂いております」
「またたとえ1人であろうとも、より多くの兵を生きて帰還させるのが我らの責務ではないでしょうか」
井本は既に大泣きしていた。
考えて見れば井本も第8方面軍に転出する以前は参謀本部作戦課に在籍していた。
こうして無計画なままガダルカナル島へ兵士を送り込んだ責任の一端は井本自身にもあった。
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だからこそ、その自責の念からも、ここは一人でも多くガダルカナルから助けたい、そう思う井本があったに違いない。
だが一方で大日本帝国軍人として、既に引くに引けない戦いをし、また多くの戦友、兵士達を前線で死なせた、そのことに対する気持ち、即ち「貴様達の後に続くぞ」と言う司令部の気持ちも分かる。
生きて人に迷惑をかけるなら、ここは潔く玉砕し、皇国の戦闘に幾ばくかの戦意高揚を発することが出来るなら、我が命そこに見たりの気持ちも分かりすぎるほど分る。
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井本と宮崎参謀長、小沼作戦主任はそれからどうどう巡りの話を続けることになるが、一向に結果が出ず、ここは第17軍司令官「百武晴吉」中将の判断を仰ぐこととしてこの日は散会する。
そして翌日、近くにある百武中将が住居としている洞穴を訪れた井本は、ここでも熱心にガダルカナル島撤退を進言するが、ここで百武中将は、第8方面軍司令官の撤退命令であることから即決を避け、後日決断すると井本に告げる。
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その後百武中将はこの撤退の判断を再度宮崎参謀長、小沼作戦主任に検討させるが、この段階でガダルカナルの日本軍前線はアメリカ軍に釘付けになっていて、ここでの撤退は戦闘継続にしても同じだったが「自滅」でしかない。
そこで参謀達の考えでは「玉砕」しか選択がなく、この結果から百武中将は「第8方面軍の命令、即ち撤退は軍命令であるからこれに従う」としながらも、「これを実行できるか否かは予測できない」と言う歯切れの悪い回答をする。
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つまりは百武中将は指揮官として、これ以上無駄な兵の消耗は避けたいと思いながらも、前線や参謀たちの気持ちを汲み、また現実を見据えるならば、撤退は可能性でしかないと告げたのである。
だがこの2日後、少しだけ奇跡が起こる。
暫くしたらアメリカ軍の攻撃が止まったのだ。
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これまでの戦闘でこうしてアメリカ軍の攻撃が止まった場合は、必ずアメリカ軍が補給をしている時であり、ここから考えられることは10日ほどの時間の余裕だった。
ここで初めて「もしかしたら撤退は可能かも知れない」と考え始めた参謀達に百武中将は訓令する。
「日本人の流血を見たる土地は、いつかは必ず皇国の地となる。ガダルカナル島も一度はこれを失っても、いつかは皇国の地となることを確信する」
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この瞬間ガダルカナル島は「死」の島から「生きる為に闘う」島となった。
第17軍は「撤退」に向けて動き始めたのである。
またこうした経緯から最前線の第2師団、第38師団の説得には17軍作戦主任「小沼治夫」が説得に向かうことになったが、小沼大佐は「もし第一線が情勢切迫して玉砕することになっていたら、自分も自決する、それゆえもしそうなったら重要書類はすべて焼け」
そう別の参謀に言い残していた。
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だがこれと時を同じくして第38師団長「佐野忠義」中将は、第38師団はもはやこれまでの判断を下し、玉砕命令を出していた。
そこへ小沼大佐が現れ、撤退を伝令すると、出てきたものはやはり撤退に対する反対である。
もはや意を決した参謀たちからは小沼がそうであったように、同じ理由の反対意見がでる。
小沼はアメリカ軍の攻撃が止まっていること、そしてこれは補給をしているに違いなく、この機であれば撤退は可能だと説く。
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そして17軍でもそうだったように、小沼と参謀達の論戦が続くが、ここでも最後に撤退を了承したのは師団長「佐野忠義」である。
「大命とあらば、どこで死ぬのも同じこと。軍指令の命令に従おう」
立派である。
既に玉砕を覚悟したにも拘らず、最後まで1人でも多くの兵士たちの可能性を考えることがいかに困難なことか、そのことを知るものであればこその大変な決断だった。
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小沼はこの後第2師団へも説得に向かうが、ここでも同じような経緯を辿って師団長「丸山政男」中将がやはり撤退を承諾する。
小沼が第17軍司令部に戻り、こうした経緯を聞いた井本は何も言わず地面にひれ伏して感謝していた。
百武中将もそうだが、各々の司令官達はただ命が助かりたかっただけではない。
決してそうではない。
死者の隣りに身を横たえ、虚ろに虚空を見つめ、死を待っている兵たちの姿など生涯ただの一度たりとも忘れようもない。
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そしてそうした兵士達が望んだものは「友軍はいつ来る」と言う言葉であり希望だった。
もし十分な補給があったとしてもガダルカナル島は苦しい戦闘が続いたはずであり、その中で傷病兵となり、マラリアや赤痢にかかりながらも戦い続けた。
一歩も引くことなく善戦していたと言うべきものである。
しかもそうして傷ついたがゆえに、自分たちが撤退するとならば、更に味方の者たちをもまた危険に晒す。
ならば異国の地で果てようとした彼らの思いは十分に賞賛に値するものであり、まさに軍人の鑑である。
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だがその一方で全体を指揮する司令官達もまた、撤退ともなればこれは敗北であり、生きて名を汚すなら玉砕した方が恐らく華々しい名声を残すことが出来ただろうことは分っていたし、そう言う状況でもあったが、そこで私情を捨て命令に従うことを貫徹した、そのあり様にやはり軍人として崇高な誇りを感じるのである。
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「生の使者」Ⅲに続く
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「生の使者」・Ⅰ
「残念、予選落ち~」
今はもうこうしたことも昔話になるのかも知れないが、テニスの試合におけるジャッジの権限は絶大で、例えジャッジミスがあったとしても、これに異論をはさむことは出来なかった。
それで明らかにジャッジミスがあった場合、そのジャッジで有利になった選手は、次の場面で1度わざとミスをしてプレーの公平さを保ったと言われている。
長女が小学生の頃の話だが、私は学校の大会で優勝し、市の陸上競技大会に出場することになった長女を連れて、その競技場まで足を運んだが、どうせ予選落ちだろうと思い、帰ってからまた出てくるのは面倒なので、競技が終わるまで待つことにした。
どうも人前で自分の子供を応援するのもバカっぽいし、かと言って他の親のように、毎日顔を合わせている子供をビデオ撮影するのもアホらしい、それで昔少しだけやっていた走り高飛びでも見学しようと思ったのだが、たまたま走り高跳びはやっていなくて、仕方なく隣で走り幅跳びを見ていた。
さすが、各学校の優勝者達だけのことはあって、記録はなかなかのものだったが、一人の女の子がスタートを切ったときだった。
小学校低学年くらいの男の子がその選手の走っていく先、つまり砂場を横切ってしまい、それを気にして助走速度を落としたこの女の子は、満足に飛ぶことが出来ずに終わってしまったのだった。
普通こうした競技は2回記録をとって、良いほうを記録にするのだが、どうもこの女の子の場合すでにこの競技が2度目だったらしく、ひどくがっかりした顔で砂場を去っていこうとしていたが、この時審判の50代くらいの男性は、砂場を横切った男の子に「だめじゃないか・・・」と言っただけで、そのままメジャーで距離を計り、競技を終わらせようとした。
これには見ていた私が腹が立って、審判に抗議した。
こうした記録競技は妨害が入ったら記録を取り直すのがルールだ、今のは明らかに妨害であり、記録は取り直さなければならない・・・私は審判の男性にそう言った。
だがこの審判、「強化選手じゃないから記録は1回取れればそれでいいんですよ」と面倒くさそう答え、その場を去っていこうとしたので、私は更に続けた「子供の競技や記録に不公平があれば、その子は次からやる気を失う、スポーツの審判は公平でなければ記録として成り立たない」
だが、相変わらずぶつぶつ言って記録の取り直しをしないこの審判に、私は名前を尋ね、大会本部へ直接抗議することにしようと思ったのだが、意外にもこれを止めたのはこの選手の父親だった。
「いいんですよ、どうせ県大会へ出れるほどではないし、これでもめて学校でいじめられたら困りますしね・・・」
その父親は女の子の手を引いて並んで私に「ありがとうございました」と言ったが、彼女は今にも泣きそうな顔をしていた。
強化選手・・・実に嫌な響きだが、どの学校でも記録を出しそうな優秀な選手は目をかけて育てるが、その他はこうした選手の盛り上げ役くらにしか思っていなくて、そうした意味では学校、審判、スポーツ主催団体と言うのは一つになっていて、こうした強化選手と呼ばれる選手は普通より多くの恩恵を受けることが出来る。
例えばジャッジ、器具や備品などの優遇、記録が悪くても引き上げるなどの優遇があるし、審判とも顔見知りになっている場合が多いのだ。
高校生のバスケットボールだと強化チームになれば、不利な試合でも審判に圧力をかけ、強化チームの対戦相手チームの反則を厳しく取って負けさせる事だってできるのだが、こうしたことは表には出ず、たまに「なんかこのジャッジはおかしい」と言う試合の裏側は、かなり組織的なアンフェアが行われていたりする。
優しそうな父親、そして大人しそうな女の子、いい加減な審判によって彼女がうしなったものは余りにも大きいことが分かるのは、きっと彼女が大人になってからだろうと思う。
もう10年以上前かも知れないが、私はあるマスコミ関係の男に頼まれて、長距離走の試合を代理取材したことがあって、この日は朝から今にも雨が落ちてきそうな天気、一応大会は始まったが途中から雷を伴った激しい雨になった。
次から次へとゴールしてくる選手達、そして恐らく最後の選手と思われる選手が帰ってきて30分くらいは経っていただろうか、
観客や私達取材陣も帰ろうと後片付けをしていたその時だった、ヨロヨロになって倒れそうな、男子高校生の選手がグラウンドへと入って来たのである。
バケツをひっくり返したような激しい雨の中、その高校生はゴール手前で立ち止まったかと思ったら、ガクっと膝を落とし両手を地面につけ、苦しそうな呼吸は体全体を大きく揺らしていた。
始め何が起こったのか分らなかった観客は、この時点でようやくことの次第が理解できた。
慌てて大会関係者が駆け寄った、だがその選手は自分で立ち上がり、また歩き出した、顔やウェアに着いた泥が瞬く間に雨に流され、苦しそうに開けた彼の口にまでそれは流れ込んでいた。
会場からは大きな拍手が巻き起こり、やがてそれは「頑張れー」と言う声援に変わっていった。
そしてゴールラインを超えた瞬間、うつむせに倒れてしまった。
激しい雨の中、多くの人が彼の周りに駆け寄り、彼は一人の男性に背負われて建物の中へと運ばれていった。
翌日の某新聞、片隅に小さくだがこのことが載っていたが、無理やり頼んだのは私だった。
「おとうさーん」・・・。
コンクリートの側壁の低いところで座って、ボーっと昔のことを思い出していた私は、長女の嬉しそうな声で現在に戻された。
「おっ、どうだった」
「ざんねーん、予選おちー」
やっぱりな・・・。
「ラプラスの悪魔」
その為日本全国にこのP波を捉える観測機械が設置されているが、こうした観測機械の精度はともかく、気象庁の地震判定マニュアル、コンピューターの判定アルゴリズムは、常に50%の確率の反対側を捉える傾向にある。