「ほうこう糊」

輪島塗の下地漆の調合の基本は「八分」であり、これは米糊10に対して漆が8の割合の事を指す。

そしてこの割合を基本に品物に応じて漆の分量を調整するが、一般的にこの割合より少ない漆の分量は漆とは呼ばず、その調合素材を名称として用いる。

例えば椀や茶托などを塗る時、現在のような手回し轆轤(ろくろ)や圧力轆轤が存在しなかった時代、左手で回しながら塗っていた事から、椀のように高台が有るものはそこを持って回せたが、茶托などは持って回転させる事が出来なかった。

それゆえ直径2cm前後の竹を、長さ3cm前後に切って、これを茶托の裏に簡易接着し、この竹の部分を指でつまんで回転させ漆を塗ったのだが、こうした竹のように持つために付ける物を「くだ」と言い、下地で茶托などの裏に付ける「くだ」は「ほうこうくだ」と呼んだ。

そしてこの「ほうこうくだ」を茶托などに簡易接着する為に、糊と漆が調合されたものが用いられたが、この際余りに漆の分量が多すぎると、後に外して裏を仕上げる事が困難になる事から、この場合の漆の調合は米糊10に対して漆が3から4で調合された。

この漆の分量は「タイミング」に弱い。

つまり、一定の接着力を維持しながらも漆と糊の強度バランスがタイミング衝撃に弱い調合方法であり、これが後に「ほうこうくだ」を外すときコンッと叩くと簡単に外れる理由である。

だがこうした調合を漆とは呼ばず、「ほうこう糊」と言う具合に「糊」としているのは、「道具」と「漆」を分けているからで、これが長じて漆でも最後は下に漆を付けずに呼称するようになり、同じ職人同志ならこれで技術的会話は成立した。

今の時代はこうした事をする職人もいなくなったが、厳密に言えば例えばお盆なら板の部分と縁の部分、それに上縁の部分の漆強度は異なる。

一番最初の下地である「一辺地」でも、板の部分の漆の調合は「八分」だが、縁は糊10に対して漆が9の割合、つまり「九分」の漆が使われ、上縁は10対10、これを輪島では「はら」と呼ぶが、このように調合強度が違う。

また布をかける場合でも、お重の漆は「八分」だが、椀は「九分」か「はら」の漆が使われ、一般的に椀の漆の調合はお重などの角が有るものより漆強度が強くなっていて、人によっては布をかける漆の分量を「はら」にしている場合も有るが、次につける一辺地の調合が「八分」で有る以上、上に付ける漆より高い強度を下に持って来た場合、剥離の危険性が高まる。

ちなみに「ほうこうくだ」を使って作業する方式は現在の輪島塗では消滅した。

おそらく1998年前後に最後の古参職人が亡くなられて以降、この方式で椀や茶托を塗る者がいなくなったと思われるが、同様に「ほうこう糊」の調合方法も消滅した。

今朝はこの事を記録しておく。

「古代の時間」

今の時代で時間と言えば、それは数字や一定の事柄が経過することをさすが、では古代の人々の時間の感覚は現代と同じものだったのだろうか。

例えば「日本書紀」、ここに「ニニギノミコト」が日向の地に天から降臨し、それから神武天皇が現れるまでに1792470年かかったとされているが、実はこの天孫降臨から神武天皇までの期間は、天皇在位としては僅か3代でしかない。

この計算で行けば1代の天皇の在位期間は平均60万年と言うことになるが、この感覚はいかがなものだろう。

おそらく古代の人々にとって昔の年代、過去の年代はなどは、さほど重要ではなかったに違いない。

それ故深みや偉大さを増すためにこうした天文学的数字が出てきたのだろうが、こうした傾向は古い天皇ほど顕著に現れていて、そこに何かの法則を見出すとすれば、古くなれば古くなるほど時間の経過が早くなる、つまり100年前の1年は今の一月ぐらいの感覚でしかなかったようである。

「日本書紀」はそれぞれの天皇の代を年、月、日、で記している。

がしかし、これらの日付は全て後世に記述されたもので、創作されたものに過ぎず、現実には伝承された話の正確な日時は全く不明なのである。

またこれに対して「古事記」では過去の天皇の代ごとに、そこで起こった出来事を区分して並べているが、こちらは天皇ごとの年代が記されていない。

従ってこうした区分から見える時間の観念は、暦が存在しないことから「継体天皇の御世」(けいたいてんのう・の・みよ)や「応神天皇の御世」などとして表し、今で言う時代を示すような形だったのではないだろうか。

日本に暦がもたらされるのは、推古天皇の御世、即ち7世紀初めの事であり、百済の僧「観勒」(かんろく)が日本に渡ってきたときに伝えられたもので、これによって日本にも正確な年月日、つまり紀年が普及するようになったのである。

また古代の時間の観念を言葉で表すなら、それは必ずしも数字を重んじてはおらず、どちらかと言えば、その時間の質に重点が置かれていたのではないかと思われる。

日本の場合、中国から入ってきた十二支との関連により、時間の概念が形成されていて、そうした傾向は本家である中国よりも、より強く日本の時間概念に浸透したのではないか、そしてこうした傾向は時間を数字や長さとしてではなく、質や内容に求めて行ったのではないかと思える。

だから例えるなら寅年は、寅年の出来事があらかじめ決まっていて、他の年には他の事が決まっているような感覚があった。

これは今でもそうだが、犬年には変事があるとか、丑年は平穏だとか、そうした現代にも残る、その十二支ごとの特徴に主体が求められ、経年数字には主体が置かれなかった背景が考えられている。

それ故12年ごとにめぐり来る寅年なら、同じ1年であっても他の子年や丑年とは全然違う1年になる、そうした考え方があって、奈良時代にはこうした十二支にちなんだ「寅麻呂」や「牛麻呂」と言った名前が流行するのである。

更に日本の古代の人たちは過去の概念は持っていても、未来の概念を持っていなかった可能性が高い。

中国から「漢語」が入ってくる前の日本の言葉「やまと言葉」では、「むかし」「こしかた」「すぎにかた」「いにしえ」など多くの過去を表現する言葉は出てきても、かろうじて未来を表現しているだろうと思われる言葉は「ゆくさき」しかない。

しかもこの「ゆくさき」は大抵今と同じで「この恋のゆくさきは・・・」ぐらいのことでしか使われておらず、現代で言うところの生活上の未来や、政治、治安、経済などは全く概念していないのである。

そして古代日本人の空間に対する考え方だが、日本人の世界観は平面的概念であり、水平な土地が果てしなく広がって、海は無限の広さを持ち、それはいつかの地点で空に続いていると考えられていたようである。

従って古代日本の人々にとっては、自分達の住んでいる土地が「この世」であり、神や先祖の世界は海の彼方に存在するものと考えていたようで、古事記に出てくる話で、神武天皇の兄の「稲水命」(いなひのみこと)が、波の上を歩いて海の果ての母の国に帰って行った、などの記述を見ても、水平に広がる世界観が垣間見えるのである。

またこうした海の彼方の世界、これを「常世国」(とこよのくに)と呼ぶことがあり、この場合の「世」は「よわい」、つまり年齢をさしていて、少し話は逸れるが日本の国歌である「君が代」、この「代」も同じ意味で、日本の国歌はもともと恋を歌った和歌であり、「あなたの命が、小さい石が大きな石になるまで育ち、苔が生えるまで続きますよう・・・」と言う意味だ。

それ故「よ」は「米」の「よね」に通じるもので、ちなみに「ね」の方は「霊」を表していて、「よね」は命を守る霊とされてきた。

即ち「米」とは人の命を永らえる霊の意味を持っているのであり、そこから「常世」では人は年を取らず、穀物は年中豊かに実っていると言う考え方が生まれ、米の「よ」に絶えず恵まれている世界、「常世国」となっているのだ。

そして古来日本では山の奥にも「神」の世界があると信じられてきた経緯があり、「奥山」は「みやま」と呼ばれ、もとは霊や精霊を「み」とも呼び、「かしこきみ」が縮小されて「かみ」になったと考えられている。

こうした概念はしかし、先の常世国と同じで、どちらかと言うと死後の世界を概念していて、例えば美濃では「喪山」と言う死者の国が存在していたり、東北の恐山などもそうだが、死後の世界と神の世界が異なりながらも、重複している姿として概念されている特長を持っていた。

だが朝鮮から入って来た文化は、こうした日本の古い概念を一掃し、北アジア、チベットを源流とするの神々の概念、つまり神々は天上におわしますの「高天原神話」へと日本の神を変遷させて行ったのである。

ちなみに私は日本の国歌に少なからず得体の知れない恐さを感じる時がある。

小さな石が大きな石に育つ、そんなことが概念として有ったのだろうか、ここから考えられることは、もともと矛盾した無理な状態まであなたの命が続きますように・・・、となるが、どこかで「後ろの正面」や「鶴と亀が滑った」と同じ雰囲気を感じてしまう。

ただ、「かごめ、かごめ」の童謡は比較的歴史の浅い歌である・・・・。

「ひやけ」

上塗り漆は通常「くろめ」と言う作業や精製で水分が飛ばされる為、経年劣化による乾燥速度の後退などは原液である生漆よりも少ないが、生漆(きうるし)は一般的に1年が使用限度期間であり、厳密に言うなら梅雨の時期を一度越えた生漆は、その後急激に乾燥速度の低下を起こす。

漆に取って最も乾燥しやすい時期と言うのは、漆の生気を吸収してしまう面が有り、この場合はその生漆の倍の量の新しい漆を添加しないと、元の乾燥速度は得られず、一時的に乾燥速度を上げる方法として、生漆に水を注入して攪拌する方法が有るが、これだと一定の硬度までの乾燥は得られるものの、完全に乾燥することは無く、こうした状態で下地が為されると、その上から水を付ける、つまりは水研ぎ研磨した時に強制乾燥する為、表面にヒビ割れが生じる。

また同じように乾燥速度が低下した漆に化学成分の乾燥促進剤を入れた場合も、60%ほどの乾燥は得られるものの100%の乾燥硬度は得られず、やはり水を注入した漆と同じ効果しか得られないが、こうした劣化した漆の事を輪島塗の世界では「ひやけ」と言い、もっぱら輪島塗の下地で使われる専門用語であり、上塗りではこれが「なまる」と表現される。

同じ乾燥だが輪島塗の下地と上塗では乾燥の概念が異なる。

正確には「サビ漆」(砥の粉が入った漆)以降から、自然乾燥に人的調整が加わるのであり、輪島塗下地の3分の2までの工程である「一辺地」と言う段階までは基本的に米糊と漆、それに焼珪藻土粉末である事から、塗布作業後の加湿は無意味になるが、これ以後の「二辺地」と言う工程から更に砥の粉が入れられ、砥の粉が入った時点から塗布加工後の加湿増減によって、漆の乾燥は影響を受ける。

基本的に漆の乾燥は自助乾燥だが、砥の粉が入った漆や上塗り漆は塗布した直後が一番乾燥力が強くなり、この時点で湿度や温度を加えると、漆内部と表面の乾燥速度の誤差から表面が縮れてしまう。

為に、塗布してから一定時間経過後に加湿を行うが、漆の乾燥は限界点があり一定の時間内に加湿作業を行わないと、いつまで経っても充分な乾燥が得られないことになる。

漆は自助乾燥だが、その中に含まれる水分量の調整によって、予め乾燥しにくく加工してあり、これが為されていないと塗布した漆がすべて表面に縮みを起こすからである。

しかし下地に使う生漆はこうした加工がしてない事から、単体で塗布すると全て表面が縮み、糊や焼珪藻土、砥の粉などを添加する事で乾燥調整が為される、所謂総量調整なのである。

一方、上塗り漆はこうした乾燥調整が水分コントロールで為されていることから、加湿作業がないと乾燥しないが、それが早すぎると表面の縮みが出る訳であり、時期を遅れると乾燥しなくなる。

そして加湿加減を間違え、乾燥しなくなった上塗りを乾燥させる最後の手段が「酒湿め」(さけじめ)と言うもので、これは清酒を霧状にして乾かなくなった上塗り塗布製品の上に吹きかける方法だが、事実上「神頼み」と言う事である。

下地漆も作って1週間もすれば乾燥速度は相当遅くなるが、この状態を「ひやけ」と言い、「ひやけた奴だ」と言う具合で、つかいものにならないと言う意味である。

 

「ここにも天使がいる」

その記憶は非常に曖昧だが、ある夏の暑い日、恐らく4・5歳だった私は祖母に手を引かれ、ジリジリ照り付ける太陽の熱で逃げ水が走り、ゆらゆら陽炎が立っている道を歩いていた。
当時のこの辺の道路はまだコンクリートだったように思うのだが、そのあちこちにヒビが入っていて、それを補修したのか少し盛り上がったところがあるその道は遠く、祖母の顔を見上げながら、まだ着かないのか、まだ着かないのかと思いながら暑さと疲労で泣きそうになっていた。

やがて祖母はそうした私に気づいたのか、自身も暑さで辛くなったのかは分からないが、一軒のカキ氷屋へと私を連れて入っていったが、どうだろう恐らく何かの祭りの時期だったようで、午後2時くらいと言うのにその店には大勢の男や女、そして私より少し上くらいの子供で賑わっていた。
祖母は確かイチゴの赤いシロップのカキ氷を注文し、その量の多さに私は一挙に暑さが吹き飛んだ気がしたものだった。

祖母は和服に巾着を持っていたが、こうした格好は今なら目立つかもしれないが、当時こうした格好はさほど珍しくもなく、下手をすれば女でも薄いシャツを着ただけで乳房が透けて見えたり、脇から少しそうしたものがはみ出ていても、本人も周囲もさほど気にするような繊細な時代ではなかった。

誰もがみんな若く、生きる為、子供を食べさせる為に必死の時代、貧しいけど力のあるときだったのだろう、少しくらい胸が見えたくらいは、例え男でも目に止まる事すらなかったのかも知れない。

カキ氷屋を出た祖母と私は左側に大きな川が流れ、少しずつ漁師町に近づいたのか魚が干されるにおいがするところを通って、うっそうとした緑に囲まれた、この地域ではかなり大きな神社にたどり着いたが、周囲には何十、いや百くらいはあろうかと思われるほどたくさんの屋台、夜店が並び、陶器を売るもの、鎌などの農具を売るもの、タイヤキや綿飴など、ありとあらゆる物が売られいて、子供が歩くのは困難なくらい大勢の人で賑わっていた。

私はこの時てっきり何か買ってもらえるものだと思っていたのだが、何故か祖母はそうした屋台を素通りすると、神社の端にある怪しげな小屋の前まで私を連れていった。
今にして思うが、この時これは私の為と言うより、祖母が見たかったのだろうと思っているが、その小屋の看板には毒々しい女とヘビが描かれ、「ヘビおんな」と言う見せ物をやっていたのだった。

内容は・・・とても子供の見る代物ではなかった。
どこから素肌でどこからが化粧か分からないほど不自然に色の白い女がキラキラの衣装で出てきて、ヘビを口から入れて鼻から出す、切って細かくしてそれを食べる、たくさんヘビが入ったガラスケースに女が入って・・・云々、やがて火をつけたロウソクをたらしたり、口から火を出してヘビを焼いたりと、滅茶苦茶な光景が広がり、私は子供ながらに唖然・・・と言うより漠然とだがそうした行為に神に対する冒涜のようなものを見ていた。

その見せ物は恐らく40分くらいだったように記憶しているが、終わったあと私は目が開いたままになったが、祖母はさほど気にかけた様子もなく、私の手を引いて小屋を出ると、お目当ての稲刈り鎌を買おうとしたのだと思うが、ここで私は祖母とはぐれてしまう。

小さな背丈では祖母の姿は見えずあちこちさまよったが、最後に私は唯一通った記憶があったあの見せ物小屋まで戻ってしまった。
見せ物小屋は何時間か間隔を置いて上演していたのだろう、私がその入り口に辿り着いたときは誰も客がいなくてシーンとしていて、私はそこで来る保障もない祖母を待っていたが、そこへ一人の若い女がやってきて声をかけた。

「母ちゃんとはぐれたのか」その女は恐らく20歳は超えていなかったように思えたが、喋る言葉が少し変だった。
舌足らずと言うか、発音がはっきりしない、明らかに普通の大人の言葉ではなかった為、私はとても大きな警戒心を持ったことを憶えているが、その次の瞬間もっと怖いことになった。

なんと女が持っていた風呂敷包みの端からさっき見たヘビ女の衣装らしきものの柄が見えたからだが、女はそうした私に気を遣ったのか「オレも母ちゃんに会えないんだ」と言うようなことを言い、恐らくなだめようとしたのだろうが、ここまでが限界だった。
ヘビ女だ・・・食べられる・・・それしか考えていなかった私は、ついに大きな声で泣き出してしまったらしい。

意外にも近くまで来ていた祖母はその泣き声で私に気づいたらしく、慌てて見せ物小屋までやってくると、「家の子に何をする!」とばかり、私の手を引っ張って抱き寄せた。
なぜか分からない・・・が、こうして今になってあの時の女の顔が浮かんでくる。
祖母はまるで誘拐犯人か悪者のように女を見ていて、そうした態度だったが、女は黙って何も言わず小屋へ入っていって、その時の顔が鮮明なのだが表情が思い出せない。

後から知ったことだが、こうした見せ物小屋と言うのは体に障害のある人を使っていて、障害者の人達の収入源だったらしいのだが、その昔はひどいもので、奇形の子供や障害者をこき使って見せ物にし、場合によっては誘拐までして卑猥な見世物につかったり、人身売買で売られた子供がこうしたことに使われた時代まであったのだが、昭和50年に障害者をこうした見せ物に使うことは法律で禁止された。

そしてこうした話でもう1つ私の記憶に残っているものがあるのだが、確かはるか昔に読んだ本で、民間放送でも紹介されたことがある、中村久子と言う人の話だ。

3歳のときに脱疽病にかかり、両手両足を切断、再婚した母は彼女が11歳の頃から厳しく教育し、裁縫、刺繍、編み物と両手が無いにも関わらず、出来なかったのは帯が結べないことだけだった、と言われるほどまでにするが、20歳で見せ物小屋へ売られ、その時の芸名が「だるま娘」、人前で編み物や、刺繍などの芸を披露するのだが、「何だ、それだけか・・」「おい、だるま」など20歳の娘には辛い言葉が浴びせかけられ、彼女には絶望的な日々が続いていく。

そんな彼女は救いを仏の世界に求め、やがて書道家の沖六鳳、同じよう両手両足が無く寝たきりだった座古愛子らとの出会いから、やがて日本の身体障害者の地位向上運動へと活動を広めていく。
その間には結婚と離婚、そして結婚、出産と波乱の人生を展開し、書道でも有名になった久子は、もう見世物小屋で働かなくても良いほどになっていたが、なぜか23年、つまり久子が43歳になるくらいまで、この仕事を続けるのである。

久子が見せ物小屋に出なくなったのは、正確には他のことが忙しくて出られなくなったと言うべきなのだが、この頃の彼女はあんなに辛くて嫌った見せ物小屋の仕事を、なぜか嬉しそうにこなしていたと言われていて、観客もそうした久子をもう誰も笑わないばかりか、大きな拍手を持って迎え入れたと言う。
1937年に来日したヘレンケラーは中村久子に面会し、その両手がないこと、両足がないことを知ってこう言う・・・
「ここにも天使がいる・・・」

あの夏の日・・彼女は母ちゃんに会えたのだろうか・・・。

「漆紙」

平安時代の貴重品として一番に挙げられるものは「絹」であり、これは粗食に耐えても着るものに金をかけた律令国家の伝統が花開いた結果だった。

官僚制度と言う一種「閉じた社会」の中で個性を仕事に求めるなら、それは「乱」になるゆえ、彼等の個性や権勢は着衣や装身具に求められたが、こうした流れからそこで使われる「紙」にも当然拘りが求められ、また良い紙は貴重品でもあった。

現代平安期の遺構などで発掘が行われると、そこから漆が塗られた紙の文書が出土する事が有るが、この解析は当初「文書保存」と言う見解を生んだものの、その現実は屏風や襖の文化を見れば、より正確な解析に繋がるように思える。

つまり漆が塗られた文書の重要性はその文書に在るのではなく、漆に有ると言う事になる。

文書は記録以外のものはその情報が伝われば役割が終わり、ここでは必要の無い文書等が発生するが、これらは襖や屏風などの下張りに再利用された経緯が有り、同じように当時材料として貴重だった漆の、その漆を入れた容器の蓋として必要が無くなった文書が用いられたと言う事である。

漆などの液体を保管する場合、四角い容器だと隅に残る部分が発生する為、その当初から円形かそれに近い筒状の容器が使われ、しかも漆は空気に触れると水分と温度で反応し硬化してしまう。

それゆえ表面に密着する形で紙を当てて、それに帯状の薄く削った割り竹を使って抑える方法が一般的だったが、この原理は今も同じ方法が採られている。

勿論平安期以降、油紙や蝋紙なども開発され、今に至ってはサランラップが一般化しているが、一時期輪島市の人口一人当たりのサランラップの消費量が全国一になった時期が有ったのは、漆の蓋紙(ふたがみ)として、或いは下地漆の保存材料として使われたからで、これが何故サランラップだったかと言うなら、高分子ポリマーの特殊性によって、他の同じようなラップでは漆が硬化する為だった。

サランラップだけが漆の硬化を遮断できた為だったが、平安期には勿論そんなものは無く、従って必要が無くなった文書を、やはり貴重品だった漆の蓋に使って、その上に水を張って漆の硬化、劣化を防いだのである。

これが後世遺構などで見つかると、どうしても文書などの重要性に視点が集まってしまうが、貴重なものは貴重なもので保管するのが原則と言うものだったかも知れず、一見躯体の上から紙を貼り、その上から漆を塗る「一閑張り」とは相対を為すもののように思われるのだが、一閑張りの原初も中国で紙が普及し、そこで文書が紙によって保存されるようになった頃から発生してきた経緯を見るなら、基本的に同じ思想だったのかも知れない。

そして現在紙を使った漆器製品は「一閑張り」(いっかんばり)「紙胎漆器」(したいしっき)「漆紙」(うるしがみ)が残存しているが、この中で紙に主体が求められる思想を持つものは「漆紙」であり、金沢の「竹山紙器」が10年の歳月をかけて開発した「漆紙」(しつし)などは一閑張りと平安期の漆蓋紙の中間概念に有る。

古代メソポタミアの粘度石版には、恋人達がやり取りしたラブレターのような文書が残されている。

古代の社会は今の社会とは概念が違う。

我々が重要に考えるものが彼等に取って重要だったとは言い切れず、意外にも貴重な材料が平易に使われている場合が有る。

何をして豊かと言うかは大変難しい・・・。