「チェスター・ニミッツ・1」

1941年(昭和16年)12月8日、この日、日本軍の「真珠湾奇襲作戦」の報を聞いたイギリス首相「ウィンストン・チャーチル」は、周囲に「これで我々はこの戦争に勝利した」と語った。
また当時のアメリカ合衆国大統領「フランクリン・ルーズベルト」も、側近の談によれば、このとき後姿ではあったが、その横顔には微かな笑みがこぼれていたとも言われている。
アメリカと言う国家は「自由」「個人」の国家であり、そうした中で確かにこの時期、ヨーロッパでは戦禍が広がっていたが、アメリカ国内は至って平和であり、こうした状況下ではその意義は理解できたとしても、アメリカがこの第二次世界大戦に参加する事に関して、国民の意識は必ずしも積極的なものでは無く、どちらかと言えば日々の自分達の暮らしの充実を求めても、戦争への参加は躊躇された感が強かった。
しかし1941年12月8日、ハワイの真珠湾が日本軍によって攻撃されたことを知ったアメリカ国民は、一挙に日本憎しの風潮へと傾き、日本と同盟を結んでいたドイツのヒトラーはアメリカに対しても宣戦を布告し、ここにアメリカが戦争に参加する大義は全て整ったのである。
後年こうした事実を鑑みるに、日本軍がこうも易々と真珠湾攻撃を成功できたのは、アメリカ政府が国民向けに戦争の大義を作るための、「罠」だったのではないかと囁かれるのはこうした背景があるからだ。
しかし元々アメリカの社会と言うのは、国民の意識が反映されやすいと言う有益性の影に、その対応は遅くなる傾向があった。
すなわち眼前に現実が広がらない限り、動かない特徴があり、このために政府は何らかの事実を作らないと、それが国民によって支持されない恐れがあることから、こうした真珠湾攻撃のような「誘導」か「事実」か境界が明確ではないケースは、戦争以外でも比較的多かったと言う傾向があった。
「フランク、太平洋艦隊はあのテキサス男に任せることにしよう」
真珠湾奇襲攻撃を受け、混乱したまま解任された太平洋艦隊司令長官「ハズバンド・キンメル大将」の後任に付いて、ルーズベルト大統領に相談しに行った「フランク・ノック」海軍長官、しかし彼が口を開く前にルーズベルトは、キンメル大将の後任は「チェスター・ニミッツ」にしようと口にしたのである。
だがこの大統領の言葉は、フランク長官が進言しようとしていた人物そのものであった。
遠からず日本との戦争は避けられない、そしてこの戦争はひとえに海軍と航空戦にかかっている、だとしたらこの戦争を遂行できるものは誰か、そう考えたとき、くしくもルーズベルト大統領もフランク長官も、同じ人物を心に秘めていたのだった。
「チェスター・ニミッツ」、彼はこうした経緯から1941年(昭和16年)12月31日、海軍大将に昇進し、ハワイの太平洋艦隊司令部に着任した。
だがハワイの惨状は確かに物質的な損耗も激しいが、それ以上にひどかったのは「士気」の低下だった。
日本軍がまたいつ襲ってくるか分からないと言う疑心暗鬼と、劣等感、それにキンメル大将が解任された後、次級指揮官だった「ウィリアム・パイ中将」は既に決断能力を喪失しており、発令する命令は撤回に次ぐ撤回で、日本軍を目前にして引き上げを命じるなど、太平洋艦隊は完全にパニック状態となっていた。
ニミッツがハワイへ着任した時そこで感じたものは「敗北感」、この一言に尽きる。
そしてこうした場合、彼等の自信を回復させるには、小さなものであっても構わないが「勝利」の感覚であり、そのためには艦隊を建て直し日本軍に一撃を加えることが最善の策となるだろう。
しかし、万事が万事、後方支援や戦争態勢に措いて不完全なアメリカの状況は、こうした事態に時間の猶予を必要とした。
                       「チェスター・ニミッツ」Ⅱに続く

「おたく文化」

社会の構造が壊れていくとき、またはそれがはなはだ混乱した時、個々の人間、取り分け既存概念が形成されていない若者は、従来の価値観から放り出され、そこで行き場を失い後ろを見てしまう。
つまり多様な価値観が混沌として現れる中で、より劣悪なもの矮小なものを求めてしまう価値反転性が競われていくことになる。
だがこうした傾向は何も社会が混乱したときだけに起こるとは限らない。
 すなわち個々に措いて何がしかの破綻が訪れたとき、そこにも同じ状態が発生して来るのであり、両親の離婚、事業倒産、失業、または軽度うつ病による社会的乖離、こうしたことでもやはり同じ傾向が現れてくる。
 この傾向の決定的なところ、それは自身の力ではどうにもならない所からもたされるものであり、例えばそれが親の事業の倒産だった場合、そこに付きしたがって暮らしてきた子供は、事業倒産と共にそれまであった親の庇護から一瞬にして外の現実世界に放り出され、およそ解決困難な色んな事態に晒されるが、ここで発生してくるものも価値反転性の競合になる。
 それ故、俗に言う「おたく文化」は、いかにも現代的な傾向のように考えられがちだが、実は構造的背景を持った傾向だったことが分かるのである。
価値反転性の競合と言う点で見ると、「おたく文化」は、同じ傾向に近い○○マニアとは決定的な差があるが、その一つは社会性であり、例えば近年問題も多い鉄道マニアなどは、趣味を大切にしながらも社会生活を営み、その枠組みを自身の内に継続させているが、「おたく」の場合は社会性が欠落して来ているように見えることである。
 私がむかし知っていた人で、男性だが彼はハイヒールの収集をしていて、陳列棚を作って、そこには基本的には赤と黒のあらゆるハイヒールが片方ずつ並べられていたものだった。
それは見るからに危険な雰囲気で、これだけ見ればもしかしたら「変態」なのではと思えるものだが、彼には妻子もいて、家族公認の趣味となっていて、集めたハイヒールは全て妻を同伴し、彼女を通して買ったもので、彼には勿論社会的地位もあった。
 当時私はこうした趣味と言うものが全く理解できなかったが、それから後テレビで作曲家の三枝成彰氏が、やはりこのハイヒールフェチの話に及んだ際、「この感覚は自分にもある」と公言していたのを聞いて、なるほどと思ったものだ。
 このようにマニアと言うものはその対象がいかにあざとい物であれ、そこに一極集中された物質的対象が存在し、それが自身の内に価値を高めていく傾向にあるが、「おたく」は、実はこの逆の方向性を持っていて、アニメ、ゲーム、漫画などと言ったより虚構性の高いものを求めていく傾向と、更にはマニアが一極集中なのに対して、興味が複数に及び、そこにマニアのような決定的情念が見られないことだ。
 こうしたことから見えてくるのは、「おたく」と言う社会現象の根底に沈むものが、反社会や思想ではなく、世の中や社会が劣悪だと看做しているもの、価値がないと看做しているもの、または幼稚、稚拙としているものにより高い指向性を持っている、いやこうした指向性そのものが「おたく」と言うものかも知れないが、そうしたもののように思える。
 従って「おたく」としたものは、世の中や社会ではどちらかと言えば欠落したもの、幼稚なものを指向していくことから、おのずとそこに社会性などは無いように見えてしまうのであり、一般的に人間は実体を持つものに評価を与えやすいが、実態の無い虚構にはなかなか価値を見つけにくく、それ故「形あるもの」は常に形の無いものより上位にあるように考えがちだが、より虚構性の高いマイナーへと移動していく「おたく」は、これに相反してよりバーチャルな方向へと動いていく。
 更にマニアのように一極に集約された物質に対する情念を持たない「おたく」は、何か特定のものに執着することが無く、基本的には社会的により価値の無いもの、マイナーなものへと移行していく傾向そのものであるとすれば、そこにある対象は有って無きようなもので、凡そ全ての分野へとその対象が存在していく可能性を秘めていることから、社会的な部分がそれを予測する、つまり評論家や学識経験者では全く予測も付かない新しい価値観を発生させていくのである。
 1980年代後半からその言葉が聞かれるようになって行った「おたく」、その背景には金、金のバブル期の親達が、バブル崩壊の時に見せたあらゆる価値観の崩壊に対して、子供達がその代わりになる価値観を探そうとして行き着いた、価値反転の競合が根底にあり、しかもこうした傾向は自信を失った人間には比較的起こりやすい傾向だった。
 そして長びく不景気と国際社会の急激な変化、そうした中で生きる我々日本人は、今やこの価値反転の競合を不自然なものとは思わなくなりつつある、つまりより劣悪なものを探していく傾向は、「おたく」と言う存在が社会的認知度を高めるに従って日本文化として成立したことを意味し、なおかつ今の段階では日本の新しい価値観でもある事を示しているのである。
 日本文化は古くから海外より輸入された文化を正当な流れとする文化的傾向を持っている。
それ故こうした海外の文化は日本で多様な、そして独特の展開を果たし、日本国内では亜流、低俗なものと看做されてきた文化が海外、ことに欧米で価値を見出され、それがまた日本に逆輸入される傾向が繰り返されてきた。
 古くは黄金の国ジパング伝説がそうだろう、またポスターのようなものが評価された「写楽」や「歌麿」がそうだろう、明治の日本ブームもそうだ、そして今は「おたく」がそうしたものとなっているのである。
 映画や音楽、伝統芸能は文化と認められても漫画、アニメ、ゲームなどは到底文化とは認められなかった日本社会、「おたく」と言うものが社会性から離れていくことが特性だったことから、常に劣悪なものとの評価しかなかったが、この日本で劣悪だとされてきたマイナー文化が、現在日本が誇る日本発の文化として海外に認められている現実は、それまで否定的だったあらゆる大人たちの価値観を反転させ、動きの遅い政府までも、動かざるを得ない状況に追い込む力があったことを認識しなければならない。
 そして日本が誇る「おたく文化」だが、海外で圧倒的人気のある漫画、アニメキャラクター、ゲームキャラクターブームは、基本的に価値反転の競合と言う流れを示しているものであり、これは社会的にも個人的にも「破綻」か、それに近い状態、もしくは行き場を失ったときに現れやすい傾向であること、その発信が日本であり、そして世界的流行を見せていると言うことは何を意味しているか、今、「おたく文化」が流行している国々では何が起こっているか、それはもう私が説明するまでも無いだろう・・・。
 ちなみに私はエヴァンゲリオンでは、全く心が感じられない「綾波レイ」のファンだった・・・。

「劣化と習熟の関係」

若い頃、女にモテたいが為にギターを練習した者も多い事とは思うが、多分に漏れず私もそのような不純な動機でギターを練習したものの、結局モテる事も無かったゆえギター練習も途中で投げ出してしまった。

しかしこの中途半端なギターが意外な事に役立った。

輪島塗の木ヘラや刷毛を使うとき、例えばヘラなら両側の左右によって「しなり」が異なり、これに素地の木目に対するヘラの角度調整が有り、更に器物に対して鋭角になるか鈍角に近付くかの角度が必要で、これを動かしながら調整していく為、利き手には微妙な指の力の入れ具合が必要になる。

またこうした利き手の動きに連動して、利き手ではない方の手が自由に後追いの動きをしなければ綺麗な仕上がりにはならない事から、左右の手はそれぞれが違う動きで連動する必要が出てくるが、人間の脳の伝達形式はパソコンの伝達システムと同じで、「0」か「1」のどちらかの選択が基本となる。

この事から通常特に目的の無い筋肉の動きは、動くか動かないか、それで無ければ左右の手は片方の手の動きに力学的な連動性、つまりは歩行運動や何かを掴もうとする動き、または寝ている状態から起きる動きを基本にした動きになり、これだと輪島塗のヘラや刷毛を扱うときに必要な三次元的角度調整や、これに連動した非利き手の動きは難しくなる。

それゆえ輪島塗の修行には、ともかく数をこなして体がリズムとして左右の手の動きを憶える、しいてはこれが自然な動きになるまでの練習が必要になり、これは実はギターやピアノ演奏の左右の手の動きや思想に近い。

3年から4年も毎日同じ事を繰り返し、そこから一人前になるまでには10年の歳月を要するとするなら、これだけも練習するなら、ピアノやギターの演奏でもある程度にはなっているはずである。

そして意外に思うかも知れないが、人間のこうした鍛錬による技術習得は、「脳」としてのある種の「劣化」を利用したものと言える。

繰り返し同じ動きをする事によって、それまでは特殊な動きだったものが普通の動きになるシステムで、これは精神の上でも社会学的にも同じことが言える。

ネジが有って、これを毎日しめたり戻したりしていると、やがてそのネジは甘くなって締まらなくなる、そのシステムに同じであり、こうして人間の運動は小さな輪から大きな輪へと広がって許容性を広げていくが、一方で人間の心もまた同じようにして広がって行く。

一回少しだけ悪い事をして、それが通ればまた同じことが繰り返され、やがてその初期には大きな抵抗感が有ったものが薄れ、次に更にマズイ事をやってしまい、それすらも麻痺していく。

まさに私たちの社会や、自分自身の心の甘えの仕組みに同じなので有り、ここで大切な事は基本に忠実である事と言え、その意味では社会や私たち自身の心も、技術もまた同じように危うい事なのである。

「青い天上人」

時は文化13年(1812年頃)の江戸、9月とは言っても残暑きびしい毎日、寝苦しい夜が続いていたが、この年こうした暑さにはぴったりな、何とも不可思議な話が江戸の町をかけめぐり、両国橋に並ぶ茶屋はどこも夕涼みの客でいっぱいになった。
そしてこうした客たちは夜がふけてもいっこうに帰ろうとしない、そればかりか川端をぶらつく人は逆に増えてくる勢いで、皆おしなべてしきりと本所界隈の夜空を眺め、何かが起こるのを心待ちにしていた・・・。

さてその話の真相とはいかに・・・。
幕府の侍医、山本宗英法眼が夜の10時頃両国橋を渡っていると、吾妻橋から大橋の方へ青い光の炎が動いていくのが見えた・・・元柳橋の方へそれは漂っていく・・・。
何事だろうと闇を透かして目を凝らした法眼、腰を抜かしそうになった・・・なんと空中を、青い衣の衣冠束帯の行列が、騎馬をやはり青い火炎で守護しながら、ゆっくり進んでいくのが見えたのである。
みんな黙ったまま、静々とその行列は橋から数メートル上空を歩いていく、そしてやがてのこと、その行列は少しづつ角度を上に向け、空に上るような格好になって消えていったのだった。

この話は当時の江戸でもっぱらの噂になり、講釈師がまたそれに尾ひれを付けて語り、話に油を注ぎ、かくして噂を聞きつけた人達が、一目青衣の行列を見ようと、両国橋にわんさと押し寄せる事とあいなったのである。

またこれが記録に残っている話としては、8月18日の夜、儒学者・多紀貞吉が家の者4,5人を引き連れ、両国橋あたりを夕涼みにぶらついて、そろそろ九つ(午前0時)すぎのこと・・・・良い月夜だが人通りもまばらな広小路にさしかかったときのことだ、お付のものが突然「あれ、あそこに何やら・・・」と言う言葉に皆がそちらに目をやった・・・。
何と、かなたの家並の上空にパーっと花火のような火の玉が、ふわふわと飛んでいく・・・。「人魂ではないか・・・」

一同は恐る恐るその光を目で追ったが、その直後皆であっと叫ぶことになる・・・、火の玉に少し送れて、奇怪なものがその姿を現したのだ。
狩衣姿の人が青い馬にまたがり、空中を静かに進んでいく、地面から3メートル以上も上の空間を、しかも膝から上は見えているのに蹄(ひづめ)のあたりからボーっと消え、それが月明かりの中に、はっきりと浮かび上がっていたのである。

女たちは歯がガチガチ鳴って止まらなくなり、男たちにしがみつき、家に帰っても恐ろしさの余り一睡もできなくなってしまった。
多紀貞吉は、この不思議な目撃談をすぐに兄で医師の山崎宗固に話し、宗固は江戸城に出仕したおりこれを同僚に話したが、その弟子が「我衣」と言う随筆集を出し、この話をその中に集録した。

1812年・・・この年の9月4日、関東一帯は恐らく台風だと思うが、激しい暴風雨に襲われ、それはこれまでに無い激しさで、大きな被害を出した・・・、そこで人々はこの幻の騎馬の目撃談を、この大暴風雨の前兆と考える向きもあったようだが、こうした奇怪な話は欧米でも数こそ少ないが記録されている。
単なる幻想や、言い伝えだけでは片付けられないものもあるように思う。

月夜の夜は気をつけようか・・・。

「静かに走る馬」

見渡す限り雲一つない晴天、見事な松林を颯爽と駆け抜ける白馬、その馬上にはこれまた凛々しい将軍様・・・ご存知テレビドラマ「暴れん坊将軍」のオープニングだが、徳川吉宗をモデルにしたこの時代劇、実はこの時代ではあり得なかったものが登場している・・・。

いや殆どの時代劇、NHKの大河ドラマでさえ、よく考えてみれば不自然なことになっているのだが、それは何だと思うだろうか・・・。
ちょっとクビを傾げるかも知れないが、それは馬の「パッカ、パッカ・・・」と言うあの音だ。
今夜は馬が走るときの音「パッカ、パッカ・・・」の歴史について考えてみようか・・・。

時は浦賀にペリー率いるアメリカ艦隊が押し寄せ、江戸幕府がその終焉を迎えようとしていた1856年、ここに老中堀田正睦(ほった・まさよし)に日米通商条約の締結を迫った、アメリカ総領事ハリス(T,Harris)が記した、同年11月23日の日記が残っている。

「運動養生のために乗馬をしたいと思い、馬を注文していたのが届いた。それは元気の良い競争馬ではないが、私の目的はかなうものだった。値段は小判19枚、つまり26ドルである・・・この馬を牽く馬丁は1ヶ月一分銀7枚、つまり7ドル75セントである。馬は草鞋(わらじ)をはいている。この草鞋は約1時間の道のりしか耐えることはできない」・・・・とある。

またイギリス人のロバート・フォーチュンの「江戸と北京」の文久三年(1863)の項目にはこう記されている。
「ハリス氏は日本における馬の蹄鉄(ていてつ)に関して面白いことを述べた・・・・ハリス氏が始めて江戸へ居住する為に赴いた時、彼の馬は普通よく見られるように鉄沓を付けていたが、この時まで日本人の馬は藁沓を付けているか、また沓はまったくついていなかった。ある日1人の役人がハリス氏のところに来て、彼の馬を貸してくれと頼み、その目的に付いてはどうか聞かないで欲しいと乞うた。この奇妙な頼みは機嫌よく承諾された」

「そしてその馬は暫くの間連れ去られた後に、きちんと返された。それから2,3日後に馬を貸してもらった役人がアメリカの公使館へ来て、宰相が馬の沓を調べる為に馬を借りによこしたことをハリス氏に告げ、もう宰相の馬には同じような沓をつけさせたこと、そして他の役人の馬にも全部同じように沓をつけさせていることを語った」・・・と言うことだ。(ハリス日本滞在記より・坂田精一訳)

ハリスの日記によれば、1856年当時、馬は草鞋をはいていて、それは約1時間も走れるか走れないかの代物だったと記してあるが、ロバート・フォーチュンの書籍の中には草鞋から馬蹄に変っていく様が詳細に記録されている・・・つまり少なくとも明治時代以前は、馬が走る時の音はパッカパッカではなく、パタパタ・・・かドスドス・・・と言う音だったのである。

今日どのようなドラマ、映画を観ても時代劇の馬はパッカパッカと威勢の良い音を鳴らして走って行くが、本当はどうだったかと言うと、遠出をするときは馬用の草鞋を沢山持って出かけ、それを45分から1時間の間で交換しながら走っていたのであり、間違えても疾走するような真似をすれば、30分もせずに草鞋交換が待っていたのである。

またその沓も今日見るような鉄製の立派な物ではなく、藁の沓だったし、それでもまだついていれば良いほうで、沓がない馬まであったのだ・・・・そしてそれは1860年頃、明治時代直前まで続いていた・・・日本における蹄鉄や鉄沓の歴史は比較的浅い・・・せいぜいが150年くらいだろう。つまり徳川吉宗がパッカパッカはあり得ないことだし、ましてや武田信玄や上杉謙信の時代なら言うに及ばずだ。

時代考証専門のスタッフをロールで流しながら、こうした在りようは少しどうかと思うが、誰かエキセントリックな監督が現れ、道を草鞋が切れないように静かに馬を走らせ、どしゃ降りの雨の中、その草鞋を交換するシーンなどを撮ったら・・・それはそれでシブイものになるのではないだろうか・・・。