「意匠遠近法」

遠近法の種類はその消失点の数で分類するなら大まかには3種、理論的には無限に存在する事になるが、ここで言う消失点とは例えば車のヘッドライトの光点は2つだが、遠くに有る場合はこの光点が一つに見え、理論的にはいつかの距離には見えなくなる点を持つ、この点の事を消失点と言い、消失点が1つで描かれたものを「一点透視図」消失点が2つのものを「二点透視図」と言い、3点の消失点を持つものを「三点透視図」と言う。

これらは幾何学的な理論遠近法だが、この理論は紀元前のギリシャで既に登場し、ヨーロッパで再び脚光を浴びたのは14世紀の建築設計様式だった。
その後100年と言う単位を置かずにこの幾何学的遠近法は絵画の世界で重用されるようになり、絵画の世界に一つの法則をもたらす事になった。

そしてこうした技法と同じように、色彩の濃度に拠って遠近を現す視覚上の遠近感表現方法が「空気遠近法」であり、この技法は近くのものは鮮明に見え、遠くのものはぼやけて見える人間の視覚特性を利用した遠近法であり、例えば日本の水墨画などの技法にはこうした様式が多用されている。

更にこうした「空気遠近法」の中に色彩に拠って遠近を表現する「色彩遠近法」が存在し、地球で暮らしていると空気の色は透明だが、宇宙空間に浮かぶ地球の大気は「青色」である。
この事から遠くの物体は薄い青の色でも遠近感を出す事が可能で、こうした原理を「色彩遠近法」と呼ぶ。

一方こうした遠近法の基礎的理論の解明を人間の目と、光の関係から考えたものが「円錐図法」であり、人間の目の形状から視点に投影される光の形は「円錐形」になる事が11世紀には発見されていた。

これが簡単な理論に置き換えられたのは15世紀の事であり、投影面の座標を「感覚」ではなく公式に拠って導く事が出来るようになった。
そして18世紀後半から19世紀初頭、日本の「東洲斎写楽」を初めて目にしたヨーロッパの画家達は驚愕する。

ヨーロッパの幾何学的理論遠近法が絵画の画面を0とすると、その奥行きに付いて考えられたもので有ったのに対し、写楽を初めとする日本の浮世絵は0の画面から手前側、つまり見る人の側に出てきていたのである。

人間の手は意外に大きくて、広げれば顔の大半に届いてしまうものだが、写楽の手は少し小さい。

顔と手の位置では若干手が前に出るはずだから、それでなくても顔との比率は幾何学遠近法では手が大きくなる。
しかしこの手を苦しいまでに歪め、そして顔の表情を前面に出した描写は、逆に人物が浮き出るほどの情感を画面から発していたのである。

ヨーロッパの画家達は写楽などの日本の浮世絵から理論ではなく現実にどう見えるかと言う、「人の遠近法」或いは目的を持った遠近法「意匠遠近法」を感じ取っていた。

理論や物理は確かに道理としては大切だが、実際の人間は道理の通りではない。
これは物質的にも行動的にも一致しない。
これを正面から感覚として取り込んだ近世日本の浮世絵の出発点は「商業美術」だったと言う点に尽きる。

大衆と言うある種の「うごめき」が持つ嗜好は理論ではない。
そこで何が売れて行くかと言う事を考えるなら目的が存在し、その目的の為に描かれる絵は欧米絵画の「自然の理の追求」に対する「人の現実の追求」と言える。

浮世絵が発生してくる下地は日本の宗教観に由来する。
過去社寺やその絵師たちに拠って描かれた絵や版画は神社仏閣をお参りした際、帰りの道すがら一般的に売られていた。

大衆はこうした神仏の絵や版画を買って帰り家の家宝とした経緯が有り、この絵や版画にその後発生してきた浮世絵の人物に対する感覚的遠近法を見て取る事が出来る。

またこうした日本の意匠遠近法は漫画の世界にも独特の影響を及ぼし、日本の漫画は太平洋戦争後暫くは欧米の近代遠近法やデフォルメを用いてたが、やがてそのデフォルメは現実を飛び出す程ダイナミックになり、遠近法の観点からもさまざまな画法を確立して行った。

日本のアニメが今日世界を席巻するのは唯の偶然ではなく、こうした古くから続く日本独特の「人遠近法」「意匠遠近法」と言う、意識されない感覚に拠るものを背景に持っているからかも知れない。

ちなみにこの「意匠遠近法」は私の考え方、解釈では有るが、現代の商業美術には実に多く用いられている。
身近なところで言えば、自動車のパンフレットなどで、写真では車が立った人間の高さを超えているが、実際に納車された車は自分の背丈を超えていない・・・。

これなどは自動車の比率を拡大し、モデルなどの人間の比率を小さくして自動車をアピールする意匠を持ち、例えばビールなどのコマーシャルでも、実際の人間の手の比率より缶ビールの大きさが拡大されてアピールされ、現実の色彩にはない鮮やかな色彩に拠って遠近法を出している場合もある。

つまり現代の遠近法は、15世紀ヨーロッパ絵画が画面を0として考えられたのに対し、その0から色彩的も映像的にも手前に飛び出す遠近法となっているのであり、こうした世界的な商業美術の先駆者が日本の浮世絵だったと言う事が出来るのかも知れない。

ヨーロッパで車が生産され始めた頃、高級車の意匠遠近法、アピール点は「エレガント」だった。
しかし昨今日本の自動車の高級意匠遠近法は「威圧感」になっていて、これはトヨタの高級自動車のコマーシャルをはじめ、多くの日本メーカーのコマーシャルが同じ傾向にある。

強さとは優しさであり、その優しさは強さを誇らないところに在る。
「威圧感」とは弱き者、愚か者が描く高級感かと思うが・・・・。

「未来」

かつて夢みたものは、それが叶ったのではない。

それらはみな、辿り着いたら崩れ去った・・・。

夢を一つずつ瓦礫にしながら、今もその崩れ去ったものの上に立つ。

あの山の向こうに何が在るのか見たい・・・。

 

いつもそう思っていた。

蒼天を行く一塊の雲となって山を越えてみたかった。

いつしか語るべき未来より、語ろうとしたがる過去が大きくなっていた。

だが、私は見たい・・・。

この先に何が在るのか、誰が待っているのか・・・。

それが知りたい。

 

だから、求めるのでは無く、私が行く・・・。

「マイナス金利」

利子と言えば貨幣制度と共に成立してきた概念と思われがちだが、実は利子の概念は貨幣制度より遥かに遡った時代から成立していた。

例えば日本の律令制度では天皇は天上の方であり、この意味では租税そのものが神への貢物だった訳で、こうした中で不作などが発生して種籾が調達できなかった場合、朝廷は種籾を貸し付けるが、これは神から借りたものであり、農民は借りた種籾より多くの量を神に返す事で恩恵に感謝する意味が有った。

また儒教的精神の「礼」を形に表すとする時、その「礼」は自身が得られたものより多くを返す事で表される考え方も一種の利子思想へと通じるかも知れない。

それゆえ欧米では12世紀くらいまで基本的には禁止されていた利子の思想は、東洋では一般的な概念だったとする歴史的見解が多いが、日本のそれも「神」を建前としている点では欧米の表面的禁忌と大きな違いは無く、儒教のそれは自主性と言う要素が建前である事に鑑みるなら、利子の思想は建前上は嫌われながらも現実には常に蔓延していた思想と言える。

欧米では12世紀くらいまでは「時間は神のもの」と言う概念が有り、従って時間経過を利用して益を得る事を禁じていて、前出の日本の例でもそうだが、利子は「神の領域」の話である事から、基本的に一般大衆がこれに関与してはならない、或いは民衆の単位がこれを主張する事を差し控える微弱禁忌思想が存在した。

しかし現実にはその神を代弁する存在、欧米では教会や司祭、日本でも寺社仏閣、神職や僧侶、或いは公家達に拠って「手数料」名目で利子の徴収が行われ、この利子の概念を禁忌から表の世界へ引き上げたのが中世の原理主義キリスト教、プロテスタントであり、それまで表向き禁止されていた利子の下で「地代」や神仏に名を借りた利子の請求がまかり通っていた日本でも、上限20%の金利が整備され、それが段階的に下げられて行ったのは江戸時代の事だった。

しかもこうして江戸幕府が金利を制限したにも拘わらず、相変わらず手数料名目の利子は存在し続けていた。

また中世以前の世界的な利子の概念、働かずに益を得る「不労収益」に対する蔑視概念の根底に鑑みるなら、薄い完全計画経済、いわゆる原始共産主義の影を感じるのであり、社会主義や共産主義の概念はもしかしたら資本主義や自由経済主義よりも古い概念、若しくは資本主義は本能の概念、社会主義や共産主義は文明成立直後の宗教的道徳概念だった可能性すら伺える。

宗教を完全否定する共産主義だが、この権威を担保したものの歴史的背景には「神」が存在したかも知れない。

金利、利子の思想は基本的に時間は誰のものなのかと言う、決して結果を出す事のできない命題を担保にしている。

中世以前の世界が利子に対する後ろめたさを神に隠れた在り様は、これはこれで謙虚な姿勢だったと言えるが、現代社会はこの神の領域、或いは儒教的善性を権利としてしまっている事から不幸が始まっている。

生物の運命は今日死ぬか明日死ぬかは解らないのが普通だ。

これを今日も明日も確定させて物事を考え、しかもこうした生物の運命を保険で担保して損益を補填する在り様は、時間を金に変え、その時間の為に命を売っている形態を生じせしめる。
基本的には時間や運命と言う、ある種人間が踏み込めない領域部分を、契約でやり取りする事の危うさが存在する。

そしてこのような、元々は建前上でも「お礼」と言う「自主性」だった利子が権利に発展した結果、現実には有り得ない計算上の概念が現実を歪める現象が発生した。

世界で初めてマイナス金利が発生したのは2003年6月25日、日本での事だった。

金融機関同士の資金のやり取りであるコール市場で世界最初の逆金利状態が発生し、これ以降ヨーロッパでは2012年頃から軒並みマイナス金利政策に転落していったのだが、マイナス金利発祥の地である日本は、2016年になって、このマイナス金利政策をヨーロッパから逆輸入しようとしている。

金利のマイナス状態はインフレーションで物価が高騰する時、利子が追いつかない場合も実質マイナスになり、この概念はどちらかと言えば時代に対する損益に相当するが、銀行預金のマイナス金利は金を借りた者が利子を受け取ると言う、極めて不自然な状態を招く。

金を借りている者が「金を借りてやっている」、或いは「金を保管してやっている」と言う事になり、ここでは金は邪魔者扱いを受けている事になる。
デフレーションを中和する作用をインフレーションに求めるのは間違いではないが、これは最初に消費が存在してそれが抑制されている状態が存在して初めて成立する政策である。

先進国では既に求められる消費はローンに拠って先食いされ、加えて耐久資材などは行き渡ってしまっている。
日本などはこの上に少子高齢化と言う大きな消費減少が発生している。
つまり得られるべき消費が無い。

世界市場を席巻している消費停滞は既存のデフレーションやインフレーションでは無い可能性が高い。

資本主義の限界、消費が少しずつ終わってきている現実を弁えないと、市場にどれだけ金をばら撒いてもその金は消費に回らず金も停滞し、ついには金の保管費用が発生する事態に陥る訳である。

これは言い換えればターゲットインフレーション政策に拠ってばら撒かれた金が行き先を失っている、市場に金が飽和状態になっている事を意味し、結果として金をばら撒いても状況が変化しなかった事を表している。

もっと言えば「マイナス金利」に拠って事態の改善がはかられたとしても、そのマイナス金利直前の悪かった状態に戻すのが精一杯で、以前の悪かった状況をプラスマイナス0とする仕切りなおしぐらいの意味しか無く、過去マイナス金利から経済が立ち上がった実績は一度も無い。

常にこの状況を脱したいと言う思いから出る、他の政策に拠って何とかして行くだけである。

「マイナス金利」とは、その直前の経済政策が失敗だった事を意味している。

[本文は2016年1月31日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

「社会表現型可塑性」

B君に好意を寄せ付き合っているA子さん、しかし付き合い始めて半年、どこかでB君は憂い顔である。
そこでB君の友人C男君にB君はどんなものが好きなのかを聞いた所、「あ~、やつはケバイ系の女が好きなんだよ」と言う事だった。

早速ケバイ系の化粧品とド派手な洋服を調達したA子さん、銀座のクラブママも真っ青の格好でデートに出かけ、それを見たB君はA子さんに惚れ直し、付き合い始めた頃のように会話が弾んだのであり、その当初はケバイ格好に抵抗も有ったA子さんも、いつしかケバイ格好にも抵抗が無くなっていった。

また消費税増税に物価の高騰、その割には給料が上がらない会社員のSさん、大学進学を目指す娘の姿を見ていると、経済的理由でそれを諦めてくれとは到底言い難い。

頭を抱えていたら、この状況では私も頑張らねばと言う事で、それまで専業主婦をしていた妻がパートで働くと言い出した。
そして娘はめでたく大学に合格、Sさんと妻もめでたく教育資金危機を脱した。

何の話かと思った方も多いだろうが、このA子さんとSさんの妻の変化を「社会表現型の可塑性」と言うのである。

元々「表現型」とは遺伝の中に存在する「幅」の事を言い、例えば人間として生まれてきても、寒冷地では平均的に体重は増加傾向になり、過酷な生活環境では性認識は遅くなりながら、生殖可能下限年齢は低年齢化する。

これらは遺伝情報が絶対的なものなら変化の仕様はないが、幾つかの遺伝情報が相互に作用して環境に順応するシステムが出来上がってくる為で、その顕著な例が植物であり、動く事のできない植物は環境の変化に対して自身が変化して環境に適合して行く。

植物の場合は環境に対する即時的適合変化がある。

一方動物のように植物より環境選択能力が大きい生物は、植物ほど大きな環境に拠る変化を起さないが、同じように環境が変化すると、それまで在ったものの中で不要なものは停滞し、必要なものが別のルートから補填されて環境に適合しようとする。

もっと簡単に言えば「無理が通れば道理が引っ込む」に同じなのである。
生物の絶対的命題は生命の維持と子孫を残す事だが、これらの命題に付帯する事項に対しては絶対的変化を起せない。

それゆえ環境変化に拠って絶対的命題が脅かされるとき、その他の命題は無節操な状態で環境に順応し、この環境に対する順応が当初絶対的命題であったものに変化を加え、これが無限に変化して行く。

つまり生物は変化しない為に小さな変化を繰り返し、その小さな変化は生物と言うカテゴリーの中では(もしかしたらこれからはみ出す時がくるかも知れないが・・・)無限に変化し、変化しない為で有ったそのものも動かして行くのである。

ただ、可能性としてこれまでの地球上の生物発生に関して、これが既に終了していて循環している場合も想定され、その場合生物は一定の限界範囲を循環している可能性も有るが、こうした循環でも以前の円周上を正確に辿っているのではなく、同じ円は決して築けないだろうと予想される。

そしてこうした生物学的な、或いは脳神経細胞学的な「表現型可塑性」は社会や経済に措いても全く同じ原理性を持っていて、こちらは生物学的な制約が無い分、植物以上の表現型と可塑性を有し、この表現型の可塑性は「人類」と言う閉じられた範囲の、しかも社会や経済と言う限定を持つなら、既にあらゆる生物が出尽くしている状態に同じと言える。

すなわち社会や経済の「表現型可塑性」は小さな循環を繰り返しながら大きな円周上を周回していると観る事が出来る。
これを視覚的に表現するなら、地球が自転しながら太陽の周りを周回している姿に同じかも知れない。

日本はこれから人口が減少し、この中で以前であれば経済、金で解決できたものが解決できない状況を多く迎える事になる。
こうした中でこれらを政府や行政の政策に拠ってのみ回避する事は困難な状況であり、現在日本に措けるこれまでのシステムは崩壊の危機にある。

既に政策は現実の国民生活と言う環境の変化を干渉に拠ってコントロールする術を失いかけていて、これはバブル経済とい言う比較的大きな「表現型」が成立する環境から、適合しない環境に陥って以降、国民がその生活の質を見直すと言う表現型の可塑性を発揮して、しのいで来たものと言える。

それゆえ、ここから先今まで以上の環境の変化、経済的停滞や財政赤字の増大、少子高齢化、社会福祉の減衰などが深化すると、国民、民衆の変化は小さな循環の持つ波の性質に拠って、大きな「表現型」の前の価値観、環境と同等の環境変化を被り、これに順応する為に直近まで存在した価値観を逆転させる現象が発生する。

高齢化介護社会と年金制度の一部、或いは全破綻は結果としてこれまでの個人享楽主義を現実が反転させ、核家族構成は減少し、経済的効率の面から個人の享楽が制限された世代同居家族構成とへと帰っていく事になり、同じように経済的困窮は医療サービスに対する国民の意識も変化させる。

むやみやたらと医者にかかれない現実を迎える事になる。

更に今日の高齢者介護システムはいずれ矛盾から破綻し、ここではその実態を目の当たりにする若年世代に拠って結婚、出産と言う生物的命題が再評価される可能性が出てくる。

「子供の世話にはならない」として自由で好きな事をして暮らしてきた、それは幸福な事だが、晩年苦しみ喘ぐ親を見て子供はどう思うだろうか、子供が親の扶養と言う法的責任を免れない現実は、子供の立場の者たちの意識を確実に変えつつある。

自己責任の中で生きて来た、だから一人で野晒しになろうが構わない、そうして世の中を終わった場合も、その本人はともかく、遺体を処理しに来た若い警察官や行政の職員達は、遺体となった人の価値感を良いものだったと認める事は少ないだろう。

経済と生物学的命題の関係は、経済が豊かになると生物学的命題の価値観は薄れ、経済が停滞や破綻すると生物学的命題の価値観が上昇し、これらは小さな円の上を循環しながら、人類と言う大きな円周上を更に周回している。

経済の一部、或いは全破綻は決して悪い事だけでは無く、これまでのことが出来なくなったと言う環境の変化にしか過ぎず、生物は「表現型の可塑性」と言う無言の予め備わった大きな天の恩恵の中に在る。

そして表現型の可塑性は何か問題が発生した時には、既に起動している。
日本はもう現実レベルでは変わり始めている・・・。

[本文は2016年1勝ち25日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

「崩壊と言う希望」

「劣性依存症候群」でも述べたように、世の中は少数の成功者と、その反対側の立場の人が存在し、成功者の存在は反対側の状況の人が有るゆえに成立する。

この事から一般社会に措ける願望の質は、既存で満足な者に取っては現状維持、今の秩序を守る事を主とするが、その反対側の者に取っては現状の変化こそが願望であり、この意味に措いてはそれぞれの中間層を含めると、世の中の半分の人は崩壊も含めて現況の変化を望んでいる事になる。

日本政府の金融緩和政策は政府と一部の有力企業だけが恩恵に浴する政策で有り、政府はこれをして豊かなった分が一般市場へ浸透すると考えたようだが、自らを省みれば解るように、自分が出した利益を余剰だからと言って全て他者の為に消費するだろうか、それは有り得ない。

利益は上から順番に滞留し、一番大きな人口動態である一般庶民に辿り着いてはおらず、しかし一般庶民は景気対策の為の増税を被り、インフレーションと言う政府に金が集まる政策に拠っても金を巻き上げられている。

この中で始まった中国経済の衰退と中東情勢の不安定化、慢性的な構造不況のヨーロッパは、加えて難民問題に先の見えない絶望を背負い込んでいる。

信用の不安定化が加速してきた中国経済、絶望的なヨーロッパ経済と、石油消費の減衰に拠るオイルマネーの滞留、アメリカの金融緩和政策の打ち切り等、これら全ては日本へ資金が流れ込む事を意味している。

日本国債は海外から資金を調達しておらず、この意味ではその債務を日本国民が担保している最も安全な債権と言う事が出来る。

そしてこの事が比較的混乱が少ない日本への資金の流れを太くしていて、海外で緊急事態が発生すると瞬時にして日本へ資金が流れ込む道が出来ている。

日本政府が打ち出した「アベノミクス」は、海外情勢が当時の情勢のまま固定された状態を想定したものだが、国際情勢の不安定化は当然発生する。

黒田日銀総裁が打ち出した金融緩和のバズーカ砲など、現在の国際情勢下では1本のマッチの灯火にも及ばない事になって来ている。

当初下限想定だった株価16500円割れ、円相場の115円超がそろそろカーテンの裾から顔を出してきたが、株価の下落はまだ始まったばかりで、乱高下を繰り返しながらもっと下がる。
最低ラインは9000円台も有り得、円相場も流れとして100円台前半までの流れの途中経過と思うべきだろう。
つまり日本の経済政策「アベノミクス」は完全に失敗し、日本経済は混乱を迎えることになる。

だがここで考えて欲しいのは冒頭でも述べたように、こうした現在の政策の崩壊が必ずしも悪い事ばかりではないと言う事である。
元々利害関係が相反する場合、他者の希望は自身の絶望、他者の崩壊は自身の秩序の始まりでもある。

これまでの政策に拠って困窮と絶望を強いられていた国民に取っては、この政府と大企業に取って有利な政策の崩壊は自身の利益となる可能性を秘めている。
日本政府は現在の経済政策が崩壊すると次の政策を持っていない。

ここでは悪戯に更なる増税を行えば政権そのものが安定できず、しかし混乱を何とかしなければならないとするなら、嫌が上でも緊縮財政と財政再建に政策が向かわざるを得ない事になる。

もはや限界を迎えた日本政府は遅ればせながら、自身らの経費や公務員などの経費、福祉予算や年金に手をつけざるを得ない事になっていく可能性が出てくる。
つまり崩壊に拠って、これまで出来なかった事へと嫌が上でも押しやられる事になるかも知れない。

世界経済に鑑みても全体が落ち込んで行く中で、日本だけが拡大政策を採って成功する確率は0%だった。
文字通り荒れた現実を麻薬で逃げているような経済政策だった訳だが、歴史的に見ても拡大政策で失敗した次の政策は「緊縮」である。

拡大政策で失敗した場合、現実的には後が無くなる事から、民衆はもとより政府や企業でも緊縮政策を望む声が高まってくる。

その結果、拡大政策の反対側の王道、金を使わない方向へと動いていく事になり、ここでは確かに一般庶民と言う弱者はそれなりの不利益を被る事になるかも知れないが、日本国民の大部分は1990年以降損失に次ぐ損失で景気の悪い状態、厳しい状態には慣れてきている。

しかしこれまで拡大の幻想に在った者たちに取っては、感じるダメージは格段に大きいものとなる。
元々利益の無かった一般国民はこれ以上失う物は無いが、これまで利益が有って持っていた者たちは現実的に吐き出さねばならなくなる。

つまり経済的混乱はもはや失うものが無い庶民に取っては可能性となり、これまで成功組みとなっていた者たちには絶望になって行くと言う事であり、経済的崩壊を最も恐れなければならないのは現段階での成功組みであり、彼らは民衆の為と称してその実、自身等を守るために崩壊を阻止しようと国民に呼びかけているとも言えるのである。

現実には今の政策が在るから国民の多くが困窮しているかも知れない訳である。

戦争をしていて自軍が劣性だったその時、大きな隕石が飛んできて敵軍が全滅した。この時大きな隕石は味方に取っては天の助けだが、全滅した敵に取っては大いなる災禍となり、全滅や滅亡、崩壊を我々は誤解している。

それは何もかも全て無くなるのではなく、今までが無くなると言う事である。

実際には相対する2つの片方に在りながら、その片方を全てだと思い込んでしまう、相対する者を認めないから崩壊が絶望になるのであり、予め相対する者を理解しようとする努力が有れば、崩壊はまた希望、新たな何かの始まりなのである・・・。

[本文は2016年1月21日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]