「アマデウスのレクイエム」前編

レクイエム・・・、と言うと良く「鎮魂歌」と訳する人も多いかも知れないが、レクイエムには鎮魂の意味はなく、埋葬曲、もしくは「死を悼む」と訳するのが正しい。
そして1791年12月3日、まさにこのレクイエムにふさわしい状況の男がいた。
彼の名をヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト・・・・と言った。

一見豪勢だが、決して一流の重さが無い家具に大きなベッド、二方の壁に設けられた縦長の窓からはこの光景に合わせたように鉛色の空から沈鬱な光が差し、そのベッドに横たわった小柄な男からは、誰の目からも明らかに生きていく力がすでに失われていることが見て取れた。
水差しとガラスの器を運んできた女は彼の妻だが、その唇はこの部屋には不釣合いなほど瑞々しく、しかも赤かったが、この時まだ29歳、女ざかりの妻コンスタンツェとベッドに横たわる男の落差は、その運命がすでにかなり以前から隔たっていたことを物語っているようだった。

コンスタンツェは内心この日を・・・、いやこの日ではなくても良いのだが、いつかこんな日が来ることを待ち望んでいたが、それは今は許されない、少なくと主人であるアマデウス・モーツァルトの瞳が永遠ににその光を失わない限り、その瞬間までは貞淑な妻を、しかもすでに意識もあるか無いか分からない夫の前であっても演じ続けなければならなかった・・・、そしてあと暫くの辛抱だった。

コンスタンツェは窓辺の椅子に腰を降ろし、右手で髪をすくい上げると窓から外の景色を眺めていたが、そこへ誰か分からないがアルメニア風の、かなり良い身なりの紳士がこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。
「誰かしら・・・」彼女はその見慣れない格好の紳士が家のドアを叩くのを黙って待っていたが、やがてその紳士はドアの前に立ったものの、一向にノックしようとはしない・・・、それでも暫くノックする音を待っていたコンスタンツェは、ついに我慢しきれなくなって自分からドアを開けた。

そこに立っていたのは年齢40歳くらいだろうか、異国の貴族と言ったいでたちで、穏やかな中にもどこか漠然とした印象の男で、彼はコンスタンツェに丁寧にお辞儀すると、「これはお約束の代金です」と言ってかなりの量の金貨が入った袋を手渡した。
「失礼ですが、主人にどのような曲を依頼されていたのでしょうか・・・」
コンスタンツェはその男に楽譜を渡そうとして聞いたのだが、なんとその男は「レクイエム」ですと答えたのだった。

レクイエムは確かにモーツァルトがこの前まで手がけていたものだった・・・、しかし依頼人がこの男だとは知らなかった・・・。
コンスタンツェは先月11月20にそのレクイエムを作曲していてモーツァルトの病状が悪化し、今では意識も無いことをその男に説明したが、男はそれに驚く様子もなく、「その代金です、お受け取りください」と言い、それに対してコンスタンツェがまだ楽曲が仕上がっていないことを説明すると、「分かっています・・・」と少し笑い、それからまたお辞儀をすると、コンスタンツェに背を向け、去っていったのである。

モーツァルトは確かに天才だったが、一般的なイメージとして、華やかな宮廷で貴族に囲まれながら暮らしていたような印象を持つかもしれない・・・、が、しかし現実はまったく厳しいもので、神童と呼ばれた幼少期から演奏や作曲活動のために、つまり仕事を求めてあちこちを移動し、その生計は作曲した楽譜を売ったり、演奏してその代金を貰うと言う、非常に不安定なものだった。

また生来の派手で傲慢な性格、その類まれな才能は宮廷楽長アントニオ・サリエリらイタリアの音楽貴族たちから疎まれ、晩年は彼らの妨害に遭って、殆ど仕事が無かったとも言われているが、それだけならまだしも、やはりモーツァルトの才能に嫉妬する2流、3流の若手楽士たちからも目の敵にされていたのである。

モーツァルトの傲慢さはつとに有名で、知人に捧げるとしたカノンで「お前は顔も悪いし、金も無ければ才能も無い、せめて俺の尻でも舐めろ・・・・」などと言う曲を書いていたり、目上の者にも頭など下げるどころか、「あの馬鹿が・・・」 ぐらいの態度で、煌びやかな衣装を好み、部屋が気に食わないと言っては引越しを繰り返し、おまけにギャンブル好き、それゆえ晩年は借金生活になり、こんなモーツァルトにすっかり愛想をつかした妻、コンスタンツェはモーツァルトの弟子のジュースマイヤーと道ならぬ恋に落ち、モーツァルトの子どもの内、成人にまで達したのは4男2女の中で男子2名だけだったが、その片方は正確にモーツァルト子どもだったかも分かっていない。

さらにモーツァルトの容姿だが、幼い頃から馬車での移動が続き、当時のきわめてよくない道路事情もあり、小さい頃からリュウマチを患っていて、それゆえ身長も低く小太りな上に、団子のような丸い鼻だったとも言われ、視力も弱かったとされているが、こうしたことを考えると先の知人に送った「お前は顔も悪ければ、金も無い・・・」と言うカノンは、ある種自身を自虐したものとも考えられなくもない。

また21歳のときに患った天然痘によって、顔の皮膚は夏みかんのようだったとも言われるが、26歳の時、コンスタンツェとの結婚も父親からは激しく反対され、結局それを押し通したものの、その実かつて思いを寄せながら片思いにしかならなかったアロイジア・ウェーバーの妹が、コンスタンツェ・ウエーバーであり、彼女は作曲家カール・マリア・フォン・ウェーバーの従姉である。
(後編に続く)

「君は誰だ」・3

リンカーン暗殺の実行犯ブースはこうして死亡したが、納屋から遺体が運び出される光景を、その近くの木に縛り付けられたまま見ていた南部同盟の共犯者ハロルドは、そのときこう叫んでいた。
「おい!、それはブースじゃない、ブースをどこへやったんだ」・・・、このハロルドの言葉から、それ以後もブースの生存説が残っていくのだが、そんなことはお構いなしにブースの遺体は4月27日、艦船モントーク号の甲板に毛布で包まれて置かれ、厳重な警備がつけられた。

しかしその夜、アメリカ秘密警察本部長ベイカー大佐と、その甥で先のブース射殺現場でも活動していたベイカー中尉の二人は、スタントン陸軍長官の指令だと言って、このブースの遺体を勝手に運び出してしまった。
またそのときの着衣や他の証拠もなぜか紛失したとして、ブースの遺体はスタントン司令官とベイカー大佐、同じくベイカー中尉しか知らないところに埋葬した・・・と後にブースの遺体搬送に関して追求されたスタントンは発表した。

これにはさすがにアメリカ国民も納得が行かず、リンカーン暗殺はスタントンではないのか・・・と言う話があちこちで起こってきたが、こうした批判に対しても、すでに南部の英雄とされているブースの遺体埋葬場所が知れると、南部住民たちの聖地にならないとも限らないので、そうした配慮から秘密埋葬にした・・・、と答え、これを聞いた民衆や、政府関係者でさえも唖然となったが、以後激しい国民の糾弾の声や非難に、ついにスタントンは陸軍司令官を辞任するしかなくなり、その後は病気になったとされている。
家から全く出ることもなくなり、やがて死亡したが、その死因は自殺とも言われている。

またラズボーン少佐、リンカーン夫人もその後気が狂って死亡、この暗殺事件では9人の共犯者がいたと言われているが、この中にはアメリカ初の女性処刑者となったメアリー・ラサットが含まれている。
ちなみにブースの死体埋葬場所だが、後に見つかったものの、すでにそれがブース本人かどうかが確認できる状況ではなく、ブースの日記についても、当初その存在すら否定していたスタントンだが、2年後に見つかったときには、リンカーンが暗殺された近辺の日付、24ページは破り取られていた。

そしてニューヨークでは不思議だが、大統領が暗殺される日の朝、つまり4月14日の朝刊に「大統領暗殺される」の見出しが躍っていたが、その記事の出所は不明のままだった。

現在でもホワイトハウスでは廊下を歩くリンカーンの姿を見る者がいると言うが、それはリンカーンが生きているときから、彼自身によっても目撃されていたようだ。
そしてこの暗殺事件ではまず、グラント将軍の行動、従者のフォーブスはなぜ犯人のブースを素通りさせたのか、またハンスコム氏のメモは結局大統領に渡っていないことをどう考えるか、スタントン司令官や、コンガー中佐、みなが怪しいことは事実だが、これらの調べれば分かりそうな部分がすべて曖昧なまま、この事件は解決がはかられている。

アメリカ合衆国大統領・・・、その地位で生きていること自体がすでに偉大な事なのかも知れない・・・。

「君は誰だ」・2

劇が第3幕終盤に差し掛かった頃だといわれているが・・・、ジョン・ウィルクス・ブースはまったく警戒されることなく、2階貴賓室までたどり着くと、いきなりドアを開け、リンカーンの後ろ2メートルぐらいまで迫り、何の気配も感じることなく観劇していたリンカーンの後頭部に向けて銃を発射した。
実際はブースの手の長さがあるから2メートルと言っても、発射された銃とリンカーンの距離は1メートル位しかなかったかも知れない、とにかく大きな銃の発射音とともに、リンカーンの右頬の辺りが小さく挫傷し、そのままリンカーンは座席に倒れこんだ。

銃声で後ろを振り返ったラズボーン少佐が見たものは、紫と白の硝煙の中に立つ1人の男だった・・・、が、そこはやはり軍人である、少佐は振り向きざまに犯人と思しき男めがけて殴りかかるが、その男は今度はナイフを取り出すと、それで少佐を切りつけ、少佐の腕からは血が滴り落ちる・・・、しかしそれでも犯人にしがみつく少佐を、犯人のブースは蹴飛ばすと「南部の・・・・」と言って、2階の貴賓室から1階の舞台へと飛び降りた。
このときブースが叫んだ言葉には諸説あるが、実際間違いなく聞こえたのはこの「南部が・・・」と言う言葉だけである。

これを見ていた観客は初めこの場面も劇かと思っていたが、2階からラズボーン少佐の「その男を捕まえろ!」の叫びが聞こえると騒然となった。
ブースは飛び降りたときに足を怪我したのだろうか、左足を引きずるようにして舞台を横切り、追いかける観客を振り切って舞台横のドアから外へ出て行ったが、そこには馬が用意してあったようで、ブースはその馬に乗ると逃走してしまった。

リンカーンはすぐにも寝かされ、そこへ医師も駆けつけたが、すでに虫の息で、呼吸こそは続いていたが、医師も何の手だても講じることはできなかった・・・、やがて皆が見守る中、1865年4月15日午前7時20分・・・、この稀代の政治家はその生涯を終えた。享年56歳である。

そしてここでまたおかしな話なのだが、リンカーンが実際に撃たれた時間が、こんなにも目撃者がいながら、4月14日の午後10時10分とも、11時17分とも言われていて、その実はっきりしていない。
また逃走したブースだが、この当時はまだ戦争が終わって間もない頃だったことから、不足の事態に備えて、南部と北部の境界は夜9時以降は閉鎖されていたのだが、ブースはネィビーヤードの境界で言葉巧みに言い逃れ、北部地域から南部地域へとすでに逃走していたのである。

ブースについては熱狂的な南部支持者で、当時26歳、職業は今ひとつはっきりしていないが、父親が有名な俳優だったことから、「売れない俳優」と言うのが表向きの職業だったとされているが、この後リンカーン暗殺事件を捜査指揮するスタントン陸軍司令官のミス・・・、と言えるのかあるいは共謀だったのかもしれないが、いずれにせよ彼のおかげで、12日間も逃走することができたうえ、もしかしたらその後も生存していたかも知れない・・・と言う謎の運命を辿っていく。

この暗殺事件を捜査指揮したスタントン陸軍司令官には、限りなく深い疑惑をアメリカ国民が持つことになるが、ブースが逃走した直後、彼は捜査隊を北部地域に重点的配備したが、少なくともリンカーンを殺し「南部の・・・」と言っている犯人の捜索で、北部地域の捜索は意味があったのだろうか、また実際にすでにこの頃にはブースはもう南部に逃げ込んでいた。

観劇に来ていて多数の証言があるにもかかわらず、スタントンがブースを犯人と特定したのは4月15日未明のことであり、それから犯人ブースの写真を手配するが、これも実際はブース本人の写真ではなく、別の男性の写真だったことから、結局ブースを捕まえるのに、なんと12日間もかかってしまう。

そしてこの事件はさらにおかしな方向へと向かっていくが、この頃戦争で敗れた南部住民の中では、「南部同盟」と言う北部に激しく敵対する組織が暗躍していたが、1866年に結成されたKKK(クー、クラックス・クラン)と言う白人至上主義者のテロ組織は、この南部同盟の一部過激分子を前身にしているのではないか・・・と言う疑いがあり、KKKのメンバーが南部中心に広がっていったことを考えると、リンカーン暗殺が一つの契機になっていったかも知れないと言う背景を持っている。

いずれにせよリンカーン暗殺の背後には、間違いなく組織があることが捜査の結果分かってきたが、その中でこの「南部同盟」の関与は間違いないこともわかってきた。
暗殺事件を捜査する部隊は、やがてこうした南部同盟のジェットと言う男に辿り着き、これを追い詰め、ジェットからついにブースの隠れ家となっている、ギャレッツ牧場の場所を聞き出すことに成功した。

コンガー中佐とベイカー中尉以下30名の捜査部隊はギャレッツ牧場の納屋を包囲し、中から2人の犯人に出てくるよう勧告するとともに、出てこない場合には建物に火を付けることを告げたが、これに観念したのか、犯人をかくまっていたギャレッツ牧場の息子が中の犯人を説得に行くと言い出し、中からハロルドと言う男を連れてきたが、もう1人は依然出てこない・・・、そして納屋の後ろに回っていたコンガー中佐は、建物の後ろに積まれていた干草に火を付けた。

あたりは炎で明るく照らされ、当然納屋の中にいるブースと見られる男も照らし出された・・・が、そのとき一発の銃声が聞こえたかと思うと、中にいたブースらしき男が倒れ、これに慌てたのはベイカー中尉である、なぜなら彼は捜査本部から「必ず生かして捕らえる」ように言われていたからで、急いで納屋へ入ってみると、その男は至近距離から首を撃たれ、すでに死亡していた。
そこへコンガー中佐も入ってきたが、彼が真っ先に口にしたのは「自殺か?」であった。

おかしなことを言うものだ、自分が一番近くにいて一部始終を見ていたはずなのに、また当然射殺したのはコンガー中佐だとばかり思っていたベイカー中尉は、思わず「あなたが撃ったのではないですか」と尋ねたが、「いや、私は撃っていないぞ」と答え、「それじゃ自殺だな」・・・、このコンガー少佐の軽い言葉でこんなにも異様な事態が片付けられてしまったのである。

「君は誰だ」・3に続く

「君は誰だ」・1

その男は初めうつむくように下を向いて、何か考えるような素振りをしていた・・・が、なぜかこのように沢山人がいる場所でそこだけ微妙にスポットが当たっているように見え、エイブラハム・リンカーン第16代アメリカ合衆国大統領は歩みを止め、その男の様子を伺った。
おかしい・・・、着ているものから背格好・・・何から何まで自分そっくりだ・・・、しかし顔が見えない・・・、1865年4月10日のことだったが、警護のその後ろに方に立つ見慣れない・・・、いやある意味一番見慣れているのかもしれないその男は、しばらくすると廊下を左に曲がり、消えていった。

それから4日後の朝、仮眠を取っていた部屋から外に出たリンカーンは、ふといつも自分が執務に使っている部屋に目をやると、誰かが中から出てくるのが見えた。
変だな、自分はここにいるのに、自分の部屋から出てくるとは一体誰だ・・・、と思ってそのまま静観していると、中から出てきたのは何と、紛れも無い自分自身だったのである。

そしてその自分自身は一瞬こちらを見ると無表情なまま、さして慌てた様子もなく踵を返すと、落ち着いた感じで廊下を歩いていく・・・、「おい、君は誰だ・・・」リンカーンは右手を差し出してその自分自身を制止させようとした・・・が、その自分はそこからやはり慌てることもなく歩き続け、やがて壁のところまで辿り着くと、壁の中へ吸い込まれるように消えていったのだった。

「誰か私を暗殺しようとしている者はいないか・・・」リンカーンはいつも周囲の者にこう尋ねていたが、南北戦争が終わる頃から、彼の周囲には連日脅迫の手紙が届き、暗殺予告の噂などは日常茶飯事となっていた。

1865年4月14日、その日は北部軍を勝利に導いたグラント将軍が帰還した日だったが、奴隷解放や経済的仕組みの違いから戦争にまで及んでしまったアメリカ南部と北部は、リンカーンたちが率いる北部軍が勝利を収め、1865年4月3日に南部が首都としたリッチモンドが陥落、同年4月12日には降伏の調印が取り交わされた・・・・、これでアメリカはまた1つの国として再スタートを始めた直後のことだった。

この日はリンカーンにとって不思議な日だったに違いない、この数日間ずっと気になっていた男の姿が、なんと「自分自身」だったことが分かったうえに、帰還してきたグラント将軍とは久しぶりに夫婦同伴での観劇の予定だったが、当初グローバー劇場で上演される劇が、その日の昼過ぎ、突然フォード劇場へと変更された連絡が入り、ついでに夕方グラント将軍と話をしていると、今度はグラント将軍にメモが届く。

「何か重大なことでも起こりましたか・・」、と尋ねるリンカーン・・・、しかしメモをポケットにしまった将軍は「いや、何も・・・、ただ先に子どもに会いに行かねばならなくなりました」と答え、汽車は6時に出発するので、今夜の観劇は難しくなりました・・・と慌てて帰り仕度を始めたのだった。
「それは翌日と言うわけには行かないのですか」、リンカーンは将軍の慰労と言う意味もあって考えた観劇の予定だったことから、グラントを引き止めたが、これに対してグラントは、「大統領、申し訳ありません」とだけ答えて部屋を出て行った。

だがここでリンカーンがグラントを引きとめたのはもう1つ訳があって、それは夕方6時の汽車だが、この汽車は各駅停車で夜の間に2回も乗りかえがあり、結局のところ4月15日朝の急行に乗っても、到着時間が変わらない・・・か、僅かに急行の方が早く着くのだ。

リンカーンはグラント将軍が帰ってしまったので、仕方なく今度はヘンリー・ラズボーン少佐と彼の婚約者クララを護衛変わりに、夫婦で観劇に出かけることにしたが、この時期になるとリンカーンと彼の妻との関係は最悪のものだったことから、たまには妻へのサービス・・・と言うことも考えたかも知れず、そしてこの4人に、劇場へ入る少し前に顔を出した従者のチャールズ・フォーブスを加えた、5人がフォード劇場へと到着した。

フォード劇場のオーナーは合衆国大統領のお越しとあって、たいそう喜んだのだろう、自らが入り口に立ってドアを開け、みなをホストしていったが、この日リンカーン一行は2階のバルコニー貴賓室の7号と8号へ案内され、そこで観劇を始めていた。
だが、やはりここでもなぜかおかしなことが起こっている・・・、日頃から暗殺の脅迫が絶えない大統領の警護についていたのはジョン・パーカーと言う35歳の警備員1人だけで、しかも彼はアルコール依存症でもあり、これまでも職場放棄は日常茶飯事の男で、この日も劇場の警備をしていたのは観劇が始まる2、3分前までで、劇が始まる頃にはもう近くのバーへ行って酒を飲んでいたのである。

そしてここにもう1人、この劇場を訪れる男がいるのだが、彼は仕事で出かけていたホワイトハウスの関係者から、1枚のメモを大統領に渡して欲しいと頼まれる。
「ナショナル・リバブリカン」編集長、ハンスコム氏・・・、彼は急いで欲しいと言うホワイトハウス関係者の言葉に従い大急ぎでフォード劇場に向かったが、2階まで上がったときに大統領はどの席かを、やはり観劇に来ていたクロフォード中尉と、マクゴワン大尉に尋ね、貴賓室7号室の前までたどり着いた。

しかしそこには警護をしていなければならないはずのジョン・パーカーの姿はすでになく、なぜか7号室の前には従者のチャールズ・フォーブスが立っていたのだが、ハンスコム氏はチャールズにこのメモを渡し、そのまま帰宅した。

そしてこの直後、アメリカ合衆国最大の悲劇、リンカーン大統領の暗殺事件が起こるのである。

「君は誰だ」・2に続く

「状況の尊重」

書は體を現し、體は心を映す。
現在ではパソコンのワードが主流になってしまったが、文字と言うのは文字そのものが最も大きな意味を持つ一方、それが書かれた状況と言うものも書体の端々に現れ、それは心情のみならず書いている人間の環境をも現し、この事からも心と体は一つのものと観ることが出来る。

 

巻紙で書をしたためる時、最後の方に行くに従って巻きが細くなり、この事を「紙が痩せる」と言うが、使って行って減らずに逆に太ったりするのは人間とゴミだけで、大概のものは時間経過と共に少なくなるか、摩滅していく事から、巻紙も痩せてくると文字が書き辛くなってくる。

 

筆で書をしたためる時、机の上で書かれた文字と、机を使わずに書いた文字は同じ人でも違いが有り、これはその机の高さによっても違いが生じる。

 

だから書かれた文字によってその人が家で自分の机で書いているのか、或いはどこか旅に出ていて、普段使っている机では無いところで書いているのかが見えてくるのであり、これが机を使わず片膝を立て、そこに左手を固定し、巻き紙を少しづつ回しながら文字を書いている場合は、明確に違いが出てくる。

 

また電気の無い時代、文字は蝋燭との位置関係からも違いが生じ、蝋燭を左にかざすと文字は少し荒れ、右にかざした文字は狂いが少ない。
これは文字の書き始め、筆を入れる時の誤りの方が、筆を離す時の誤りよりも大きく影響するからである。

 

一本の蝋燭をかざし、片膝を立て、そこに文字を書く状況と言うものが、如何なる状況かを思えば、その書を受け取った者が感じる危機感、或いは書いた人の状況というものが、時に文字の内容以上に物事を伝える事になる。

 

だが一方、何時も机を使わずに片膝を使って文字を書いている人は、それが常となっている為、相手に自分の状況が覚られ難く、これをして言うなら、何時も机で書いている人の文字は緊急時には荒れる事になり、机が使えない状況の文字は緊急時も平常時も同じ文字になる。

 

つまり何時も自分の体以外の道具を多用してる人の文字は美しいが弱く、何時も自分の体だけに近い状況の人の文字は強い。

 

また一般的に片膝を立て、左手で巻紙を送りながら、書をしたためるのは大変難しいように思うかも知れないが、実はこれが巻紙の中心が常に見えていて文字が傾斜していく事が無く、目に対して平行な位置で文字が書ける為、意外に書き易い。

 

ただ立てている膝が安定していないと文字は簡単に乱れ、膝が綺麗に固定されると言う事は、体に不調が少なく、精神が乱れていない状況をして初めて成立する話でも有る。

 

これと同じ状況はみかん箱でも出てきて、昭和40年代くらいまで、通常袋売りの「みかん」が少なく、大概は箱売りされていたものだったが、この箱が木の箱だった。

 

まだまだ貧しい暮らしだった地方の田舎では子供に机を与えられる親は少なく、兄弟姉妹が師走に買ったみかん箱を机代わりに勉強している状況が有ったが、みかん箱をひっくり返した裏は平面ではなく凹凸だらけで、ここで鉛筆に力を入れて文字を書こうものなら容易にノートに穴が開く事になる。

 

みかん箱を机代わりにしていた子供達は、ノートの紙の反発力を利用しながら文字を書くことを体で憶えて行ったのであり、まさに道具の無い状況が人を、その強さを育てていたと言える。

 

そしてこうして文字を書く事でも「状況の尊重」と言う事が出てくる。
家が豊かで文机で書をしたためることが出来る人は、その状況を使わないと「他」に対して傲慢な事になり、ましてや相手が机が使えない事に配慮し自分も机を使わないなどは、相手の状況を哀れんでいる事になり、この哀れみの情が一番人を傷つける。

 

だから何時も片膝で文字を書くことが習慣ならば良いが、文机が有り高価な筆が使える者は、その机で高価な筆を使って美しい文字を書かねばならず、これは富める者の使命でもある。
机を使わず、わざと先の乱れた筆を使うことは虚飾となるのであり、これを恐れるなら普段から在野に有って自身を鍛える事が必要になる。

 

ちなみに巻紙が痩せて筆の幅に足りなくなってきた時は、膝先と手の平に乗った紙の反発力をして筆を使うのであり、最後尾は文字が書けない。
この事から昔の書簡は最後の余白が出るのであり、この余白が少ない者は文章、文字は上手いが優雅さに欠け、余白の大きな書簡は時間や暮らしに余裕が有る事になる。

 

差し迫って左にしか蝋燭がかざせなかった文字、余白が全く無い書はその人の状況が困窮しているか、或いは緊急時を現していて、これを読む者はその書の内容を読まずして相手の状況を知る事になる。

 

「状況の尊重」とは無駄な事をしない、自分の状況を偽らない事を言い、この事をして天意を乱さない事になるのかも知れないと私は思っている。
また、緊急時にこそ何事も無かったかのように普通である事が、最も大きな力で有るとも信じているかも知れない。

 

文字は誤ったら線を引き、そして正しい文字を加えれば良い。
紙を棄てなかった事、そして自らの誤りを自らの手によって正した事は褒められるべきことで、私はこうした書簡にこそ、その人の「状況に対する尊重」、誠実を感じる・・・・。