「コンビニ袋と男」

夕方・・・、と言っても既に日はとっぷり暮れて、商店街の灯りも少しずつまばらになっていく頃、人通りもすっかり少なくなった道路をコンビニ袋を提げて歩く男の姿は、老いも若きも皆、少し肩をすぼめて歩いているようで、これで小雨でも降っていれば、その哀愁は見ている者にもそこはかとない切なさとなって伝わってくる。

ところが最近、男に深い哀愁を加えるこのコンビニ袋を出してくれないスーパーが増えてきたので、仕方なく私も「風呂敷」を購入したが、少し前まではエコバッグなる厚手の布製のバッグを使っていたものの、どうもかさばって仕方ない、ここは伝統的な「風呂敷」で・・・と思ったのがきっかけだったが、ちょうどあの泥棒が背中に担いでいるような「唐草模様」の、しかもやはりオーソドックスに緑色で、と言うことにしたおかげで、スーパーへ行く度に少しだけ人気者になってしまった。

大体が品物を包んでいると、子どもが珍しそうに寄ってきて、ついでに母親や父親らしき人たちが隣でどことなくニヤニヤした感じになるし、この間は一見ヤンママ風の女性から「それはどこで売っているのか・・・」と聞かれたことまであって、こんな時代だからおそらく通販でも売っているはずだ・・・と答えておいたが、あの勢いだと、もしかしたらピンクの唐草模様を買っているかもしれない。

しかし不思議な話だ・・・。
コンビニ袋を使わないとCO2が削減されると言うが、ではエコバッグや風呂敷を作るときにはCO2は出ないのだろうか・・・、そんなことはあるまい。
またエコバッグや風呂敷は洗濯すれば何回でも使えると言うが、ではそれを洗濯するときに使っている洗濯機の動力である「電気」は、CO2を出さずに作られているのだろうか。

この頃たまに電話を取ると、「エコキュート」はどうですか・・・と言うセールスがあり、私は風呂は薪で、暖房は囲炉裏、エアコンは無い・・・と答えることにしているのだが、エコキュートにしても確かにCO2を出さずに風呂を沸かすことができるのかも知れないが、その機械を製造するときにCO2は出ないのだろうか・・・、そして80万ほどの機材だろうが、この機材の耐用年数が10年とした場合、1年間に風呂を沸かすだけで8万円の灯油を使うだろうか。

こうしたことを考えると私たちの周りにあるエコブームと言うものも、結局自分の周囲からCO2を見えないように、いや見ないようにしただけのことのように思えてしまう。

またそもそも「これをしたらCO2が○○グラム削減」と言う話を聞くが、これはどこの誰が、どう言う計算式で求めたものなのだろうか、そしてその根拠はどこにあるのだろう・・・、などと考えてしまうが、そうした説明が一切なく、こうしたCO2削減商品やエコ商品が減税の対象になっていたり、補助金支給が行われている事実には大きな疑問を抱かざるを得ない。

そしてさらに極めつけは、このCO2の排出量に枠を設けて、その枠以上にCO2を出す国は他のCO2を余り出さない、つまり経済的後進国からその残った枠を金で買ってください・・・と言うありようで、こうした枠を国家が国内の企業に割り振って、その結果各企業は国家間と同じようなCO2取引に追い込まれていく現実には、さすがに開いた口が塞がらない。

いったい誰がこんなこんなことを言い出したのか、出てきて説明して欲しいし、「貴様は神か・・・」と聞いてみたいものだ。
そもそも地球温暖化の原因がCO2であるとする説そのものが、いまだに仮説の領域を出ていない・・・、最近の研究では温暖化の原因がCO2以外の物質であるとする説も出てきていて、それによれば凡そ燃焼と言うエネルギー変換があれば、全ての物質から地球温暖化の原因となる物質が放出される・・・と言う見解もある。

地球の表面積は計算式で求めることができる、また成層圏も観測ができているので、地表の空気量も厳密ではないが計算できるだろう。
しかし地上の空気成分の中でCO2の濃度を調べるためには、膨大な観測地点が必要であり、しかもこれは平面的な観測では求められない、また地球温暖化の原因には地球そのものが持つ太陽光の反射率のほうが影響は大きく、この反射率がどうして現在の反射率なのかは、その理由さえ分かっていない。

こうした段階でまるで天地創造の神のようにCO2の枠を○○トンと決める権利があるものは誰だ・・・、しかもそれに対して金銭を換算する計算式など誰が理解できているのだろう。
結果としてこうした神のような振る舞いをしている、またさせようとしているものの本質は資本主義なのではないか・・・。

昨年のリーマンブラザースの破綻から始まった、サブプライムローンなる詐欺商法の破綻により行き先を失った資本、資本主義は新たなるターゲットとして、今度は「空気」に対して侵略を始めようとしてるのではないか・・・。

初期の頃は土地取引によるバブルだった、つまり1つしかない土地に複数の利権をつけて、結局その土地が1つしかないことが分かった瞬間から破綻した。
そしてこの破綻により行き場を失った資本は石油へと移行し、湾岸戦争が勃発、それが終わると今度はローンや金融商品の保証と言う、さらに形の見えないサブプライムローンへと資本は動いて行き、このシステムが破綻するとまた石油や食料へと流れ、今度は「空気」にまで債権を発行し、金に換えようと言う訳である。

資本主義の本質は「拡大」にあり、利益を求めて外へ、新しい大地を求めて行こうとする力であり、こうした資本主義の行き着く先が帝国主義と言うものであるとするなら、自身を神とまで信じ込んだ帝国主義が、およそ地球がすべての生物に分け隔てなく永遠に近い概念で与えている「空気」すらも自身のものと考え、それをして金に換えようと言う新たな侵略を始めているとしか見えない。

人類がその種族維持のために、自分たちの環境を良くしようと考えること、これは生物の一種としては正しい考え方だろう。
だがそれに型や枠を作って、これを金に換えようなどと考えていると、地球やその地球の気候などによって、アッと言う間にそれは水泡に帰することになるだろう。

気がつけば「こんな当たり前のことで・・・」と思う理由で何度も破綻しながら、どうして本来人類よりも比較にならない程圧倒的な力を持つ地球が無償で与えている恩恵に対して、誰も権利など持っていないことが理解できないのか、私は人類のそうした部分が理解できない。

そしてコンビニ袋を提げて、どこか侘しい日本の男が私は好きだったし、何となく共感できるものもあった・・・、哀愁に満ちた日本の男の文化がこれから見れなくなるかと思うと、これはこれで少し淋しい気がするのである・・・。

この記事に

「重複集合社会・オランダ」

2の倍数が集まった集合A群と、3の倍数が集まったB群、そして5の倍数が集まったC群はまったく接点が無いかと言うと、2と3を掛け算すると求められる6から、その6の倍数12、18、24と言う具合にA群、B群は次々と同じ接点を持ち始める。
またこれと同じようにA,B群共通の最も小さい単位6と、C群の5を掛け算して求められた30は、A,B,C群共通の接点であり、この倍数からA,B,C群共通の接点が60、90と言う具合に始まっていく。

2と3、5はそれが個体だとまったく接点がなくなるが、これが倍数で複数の場合は数が多くなるに従って接点は増えていき、大きな数ほど接点、つまり交わる部分が多くなっていくのである。
これは小学校で習う「集合」と言う数学上のものの考え方だが、そもそも数学とは自然の中の関係や、その因果関係を誰でも分かりやすい形にしようとしたものであり、自然や言葉にならないものを、人にもっとも身近な立場から示そうとしたものである。
従って数学の理論は人間の社会を現すものとして、また人間の思想を表す記号としての意味も持っている。

Pillarization:Verzuiling・・・、日本語に訳すと「柱状化社会」とでも呼んだら良いだろうか、オランダの社会は少し前までは、この冒頭に出てきた「集合」の理論そのものの社会形態を持っていた。
多文化社会形成モデルとして知られるこのオランダの社会システムは、宗教と政治的信条によって形成される「集団」(柱)が、それぞれに自由を認められ、平和的な共存を可能にする仕組みのことだが、分かりやすく言うとアメリカ社会にある例えば外国人街・・・、これに自由と自治権利を認める代わりに、アメリカ国民として果たさなければならない責務もまた課していく・・・と言う仕組みだ。

オランダは19世紀にカトリック教徒、プロテスタント各派などにその自由を認め、国民国家の統合を確保してきたが、各集団ごとに政党、労働組合、新聞、学校、病院などが設立され、各集団所属の住民はその集団の中で生きて行くと言う形態があった。
しかし1970年代、オランダは労働力不足に陥り、そこで移民労働者が大量に流入し始めた結果、やがてイスラム教徒が外国人労働者の主流となってしまった。

またこうした19世紀に始まった、言わば狭い社会の重複形式を古典的と考える社会思想から、1960年代を契機にこのオランダの集団(柱状)社会も次第に溶解し始め、現代ではすでに解体してしまったとも言われているが、これはそう日本における古い文化や慣習、しきたりが次第に消滅しつつあるのと原理は同じことである。

しかしオランダでは信教、教育の自由と言った基本原則や仕組みは今も残っていて、そうしたシステムに支えられて、大量に流入してきたイスラム教徒も、独自の集団(柱)を形成するようになっていったものと思われているが、1990年代から移民2世、3世の失業率が増加していった背景から、この弱くなっても残っていた集団(柱状)社会が、イスラム系移民の集団(柱)を宗教上、慣習文化上受け入れられないケースが続出し、こうした移民2世、3世が社会的不適応とされる問題が起こってきた。

これに対してオランダ政府は労働、教育政策などを統合する政策、つまり集団(柱状)社会に逆行する形・・・、の政策を進めていったが、イスラム社会を糾弾していた映画監督テオ・ファン・ゴッホが2004年、移民2世の青年に暗殺される事件などがあってから、現在多文化主義モデルの見直しも進められている。

この柱状社会の考え方は、古代ギリシャのポリスの構想とも似ていないことは無いが、古代ギリシャのポリスはそれぞれの独立性が極めて高いことであり、柱状社会は同じ国土内での重複がある点で、決定的な差があり、またそれぞれの集団と言っても、カトリックとプロテスタントと言った具合に、対立しながらも、共有できる文化同士なら、つまり数の集合でも2の倍数と3の倍数の接点なら最初は6だが、これにイスラム教が入ってくると・・・、つまり5の倍数が加わると、いきなりその最初の接点が30にまで跳ね上がってくると言う問題点がある。

だがこれからの国際社会は情報、経済の観点から他民族、多文化国家の形態にならざるを得ないことから、問題点は多いとしても、このオランダの集団(柱状)社会のモデルは1つの指標となるのではないだろうか。

10年近く前、多分まだ15歳の少女だったと思うが、日系ブラジル人だった彼女は付き合っていた男子大学生の子どもを妊娠していたが、保険もなく、結局自分1人で出産しようとして失敗し、死亡しているのが後で発見された・・・と言う事件があったが、こうしたことは制度上有り得ないことだから・・・と皆が無視し、また付き合っていた大学生もその責任を放棄したことから起こった悲劇だった。

しかし幸せになろうとして日本へ渡ってきて、一見優しそうな大学生の子どもを身ごもり、そしてそのことから棄てられ、たった1人で子どもを出産しようとした15歳の少女は、どんなに不安な思いのまま死んでいったことだろう。
そしてこうしたことは「間違い」「手違い」のようにしか考えない日本社会の形式主義は、同じ悲劇を繰り返すに違いない。

オランダの社会はこうした点から見ると非常に現実に即した社会システムを持っている。
すなわちそこには、有り得ないことは誤差としか考えない社会と、有り得ないことでも実際に起これば、これに対処する社会の違いがあり、こうした考え方の差は、早くから多文化国家としての歴史を持っていたオランダだからこそと言えるだろう。

日本もこれから少子高齢化社会を迎えるに当たり、また活発な経済活動を望むなら、どこかでは異民族多文化国家とならざるを得ないのではないか・・・、そしてこうしたことに対処できる心の準備が必要になってきているに違いない。
まずは緊急に医療保険制度から考える必要があろうか・・・。

「誰と闘っているのか」

2001年5月、平成13年大相撲夏場所のことだが、怪我で不調だった横綱貴乃花の復活が確定的かと思われたこの場所、貴乃花はこの日まで13連勝の快進撃、そして迎えた14日目、対戦は無双山だったが、何と横綱はこの一番で土俵際、無双山から突き落としを食らい転落してしまう。
貴乃花は土俵下で手を突いて立ち上がったが、土俵へ戻るその足取りは明確に片足を引きずる様子で、これを見た観衆たちは誰もが「もしかしたら怪我がまた悪くなったのでは・・・」と沈黙するに足る姿であった。

だが貴乃花の怪我は観衆が考える以上に軽い話ではなかった・・・、右膝半月板の損傷・・・、この膝では動くことすら痛みを伴い、ましてや相撲など取れる状態ではなかったのである。
親方はじめ、周囲は皆「休場」を勧告する、しかし貴乃花はその勧告に首をふることはなく千秋楽に出場、このときの対戦相手は武蔵丸であったが、この一番は話にならない取り組みとなり、怪我をした貴乃花は一方的に土俵の外に押しやられてしまう、貴乃花は13勝2敗で武蔵丸と並んだ。

千秋楽同日、優勝決定戦にまでもつれ込んだこの場所、少し前の取り組みを見ていた観衆、テレビでの視聴者は誰もがこう思ったことだろう。
「貴乃花、もうよせ、その怪我ではだめだ」
だが貴乃花はここで横綱の意地を見せる、おそらくこの一番で死んでも構わん・・・と思っていたのだろう、そう言う覚悟で武蔵丸に投げを打つ・・・、結果、貴乃花は豪快な上手投げで武蔵丸を土俵に沈め、見事に優勝を果たした。

そして狂喜乱舞する観衆のどよめきの中、あの名場面が現れるのである。
土俵に振り返った貴乃花の顔はまるで仁王像のように眼前を睨みつけ、両の手は硬く握られ、満身から「力」そのものが周囲を制するほどになって感じられ、微動だにしない姿がそこにあった。
観衆は見たことだろう、それを意識しようと意識せずとも、そこに日本人と言うもの、いや日本と言うものを・・・。

貴乃花は闘っていた、それも武蔵丸との対戦に勝利した直後から・・・、自分自身と自分の体と闘っていたに違いない。
「やった」と言ってガッツポーズをしようする、いやそこまで行かなくても、何らかの形で喜びを外に出そうとする自分の体と闘っていた。
だからその驕った精神を律するために口をきつく結び、眼前を睨みつけた、満身に力を込めて自身の体を律しようとしたのだが、おそらくこの自分との闘いの方が、武蔵丸との対戦よりも遥かに多くの「力」を要したに違いない。

「怪我をおして、良く闘った、感動した」、当時の小泉純一郎首相自らが表彰状を渡したこの優勝授与式でも、貴乃花は首相をしっかり見据え一礼し、その姿勢からは一点の驕りも高ぶりも感じられなかった、完璧だった。
私は相撲ファンでもなく貴乃花のことは何も知らないが、こうした貴乃花の横綱としてありように、ひたすら肉体を鍛え勝負に生き、その中で精神までも鍛え上げられた男としての姿、いや人間としての姿に「究極」を見させてもらったと思っている。

そしてこの貴乃花が自身と闘った様の中には遠く孔子が示し、道元が「古徳」と読んだ一つの人として有り様が潜んでいる。
すなわちそれは「驕り」であったり「高ぶり」に対する有り様だ。
この世には多くの人が存在し、多くの考え方があり、多くの状況がある。
今この瞬間をとっても幸せな者もいれば、不幸な者もいる、例えば恋人と上手く行っている人は普段男女のことなど、難しいことは考えもしないが、今恋人とうまく行っていない人はどうだろう、ましてや恋人ができずに困っている人は尚のことだ。

今この瞬間恋人と上手く行っている人は、2人きりのときなら何をしても許されるだろう、しかしひとたび他人が存在する社会に出るときは、そうした今幸せではない者のことも考えるのが大切ではないだろうか。

またこれは自分の身内の話でも同じことであり、私の知人に医師をしている者がいて、彼は子どもをやはり医師にしようと思っていたが、この子がどうしても学業が嫌いで高校を中退し、新聞配達の仕事で暮らし始めたことを知ってから、私は自分の子供がどこの高校へ入ったとか、どこの大学へ行くとか言う話をしなくなった・・・、と言うより一般論として自分の子どもの、少なくとも自慢話になるような話は誰に対しても避けるようになった。

自分が評価されることは嬉しいことだ、また自分の子どもや孫も、やはり人から評価されることは嬉しい。
しかしそれはあくまでも自分のことであり、他人から見ればそれはどうしても自慢話にしか見えないだろう・・・、そう言うことを考えて、子どもにも何かで勝ったとしても、いかに学業で優秀な成績を修めようとも、決して人前では喜ぶな・・・と言い続けてきた。

また知識もしかり、何かを知っていると言うことは、それだけだと唯道具を持っているだけで、しかもその道具は先人たちから自分が受け継いだものに過ぎない。
これをして人前で披露し、自身が賞賛され悦にいるなどは愚かさの極みであり、道具は自身が使い切ることができなければ、責任を持って後世の者に伝え、いつかそれを役立てて貰えるように努力するのが正しい道だろうと思う。

親切の奥には憐れみがあり、その憐れみのさらに奥には自己と他の比較がある。
その比較の中で自身が少しでも優位にあれば、人は他に施しをしようと思うが、その根底には自分がある。
すなわち電車内でお年寄りに席を譲るとき、これを「無心」で行える者はいない、しかしこれが例え憐れみであれ、自己満足でもそれを施された者にとっては同じことであり、そこにあるのは現実のみである。
そしてその施しを肯定できるか否定しなければならないかは自身の内にあり、それが憐れみや自己満足であるかは自身が決めることであり、この意味においては自身の有り様を、例えそれが好ましからぬものであったとしても、知っていることはまた尊い。
さらに周囲の賞賛を得ようがために行う善行であっても、それが為されないよりは為される方が良い。

今この瞬間にも病と闘っている者もいれば、悲嘆に暮れている者もいる。
悲しみの中で苦しみもがく者もいる、思った通りにならず焦る者もいよう・・・。
人を助けようと思う、人のためになろうと思う・・・、こうした心があるなら、それは何も金や物を恵むことだけがそうであるのではない、むしろ人を思いやり、人のことを思って自身の行動を見つめることもまた、もっとも尊い人に対する施しなのであり、これをして「徳」と言うのである。

「鵺(ぬえ)の鳴く夜」

キャップの下から髪を伝って信じられないほどの汗が滴り落ち、それが目に入って痛い・・・、すでにTシャツは突然のスコールにでも出合ったように、絞ればこれも汗が滴ることだろう。
暑い、いや正確には蒸し暑い、それも地面から立ち上がる水蒸気と、山の緑が出す独特の熱気、夏の夜の、空気が止まったような暑さで、まるで蒸し鍋で蒸されているような暑さだ。

草薮を歩いていると懐中電灯が時々光を失い始めて、不安定になってきた。
月はなく完全な闇夜、「おい、懐中電灯の電池は持っているか」
「おお、有るが、俺のポケットだ」
「もうこの電池は限界だ、交換しないとだめだ」
私はもう一人の相棒から電池を受け取ろうとしたが、せっかく握ったのに電池は汗で滑り、ストンと下に落ちた。

「馬鹿野郎、何やってんだ、こんなところで落としたら見つからんぞ」
「ちょっと待ってくれ、今ライターに火をつけるからそれで探す」
カチカチ音を立ててやっと炎を上げた100円ライターは、あたりをこれまた異様なまでに不安定に照らし始める。
そしてこのライターの光に反射して、草むらの中で落とした電池がキラッと輝き、私はそれを拾った。
懐中電灯の後ろのキャップを緩め、使い古した電池を抜き、それをポケットにしまうと新しい電池を2本入れ、またキャップを閉めスイッチを押す・・・、「おお、やはり電池が新しいと明るいな・・・」

暗闇で光ほどありがたいものはない。
ほっとした私たちだったが、その時どこか遠いところからピーン、ピーン・・・と一定の間隔でだれかが杭を打っているような音が聞こえた。
「おいあれは・・・」「ああ、モヨウだ」
この地方ではモヨウと言うが、正式名称は「鵺」(ぬえ)、顔は猿、狸の胴体を持ち、虎の手足、尻尾は蛇とされる伝説の雷獣、その正体は「トラツグミ」と言う鳥らしいが、古来より限りなく不吉とされるこの鳥が鳴くには、その夜は余りにもお似合いの夜だった。

以前から精神的に不安定で家族も注意していたのだが、近所の男性(71歳)が夕方になっても帰って来ない・・・とその男性の妻が家を訪れた頃には、すでに辺りは暗くなりかかっていて、時間にしたら8時ぐらいだっただろうか、それから村人すべてに連絡し、みんなでいろんな備品を揃え、捜索に向かった時は9時近くになってしまっていた。

こうした村では行方不明者の捜索はたまにあることで、この場合はある程度の手順が有り、まず警察に連絡し、それから一番最初にその人間が住んでいる最小単位の「区」、およそ15軒前後だが、それでまず捜索し、それでも見つからなければ村全体、凡そ80軒から1人ずつ出てもらって探し、さらに見つからないときは地元消防団や、自警団が動く仕組みになっていて、これはどちらかと言えば行方不明者を出した家にできるだけ負担がかからないように、初期は少人数で探し始める仕組みと言えるだろう。

この晩は一番最初の段階で、15軒ほどの近所の家から足の達者な者はすべて出てもらって、2人1組になり、鎌と2メートル前後の竹竿を持って、山の方へ歩いて行ったと言う目撃談から、皆で山へ捜索に出かけていたのであり、当然我が家からも私と私の父、それに母までがみんなで山に入っていたのである。

子供ころ庭のように熟知していた山だが、やはり夜ともなればその様子はまったく違ったものに見え、私と組んでいる近所の男性もまた、僅かな物音にもビクっとしながら歩いていたが、この場合何らかの理由で行方不明者が死んでいる場合もあり、草むらを竹竿でつつきながら、怪しい草むらは鎌で草を刈って探すのだが、何分暗闇を懐中電灯で探していると、怪しいといえばすべてが怪しく見え、鳥が飛び立つ音や狸や狐が逃げるときに出る「ガサッ」と言う音でも、絶叫してしまいそうになる。

7月終わりの頃だったと思うが、本当に蒸し暑い夜で、それだけでも不気味なのに、行方不明の人を探しているとなると、「頼む、自分たちが第一発見者にならないでくれ・・・」と祈りながら探しているのが実情だった。
そこへ「鵺」の鳴き声なのである。
鵺の鳴き声は本当に薄気味悪いもので、まるで遠くの山で誰かが一定間隔で杭を打ちつけている音のようでもあり、また蛇口に溜まった水滴が、洗面器に残ったに水の上に一滴一滴落ちているようにも聞こえるし、女が高い声で叫んでいるようにも聞こえる。

こんな蒸し暑い夜に鳴き、それは1番中続き、一度気になりだしたら絶対朝まで眠れなくなるが、私の住んでいるところでは「鵺」には雄と雌がいると言われていて、その鳴き声は微妙だが違っていて、雄の鳴き声はピーン・・・と言う具合に最後に僅かな止めが入るが、メスはどちらかと言うと、ピー・・・と言う具合で雄のような止めがなく、ひどい夜にはこの雄と雌がまるで鳴き声で互いを確かめるように、交互に朝まで鳴き続けることがある。

平安の時代から不吉とされるこの鳥の鳴き声は、私たちのところでもこれが鳴くと人が死ぬ・・・と言い伝えられていて、それでなくてもこれを聞くと、家に何か悪いことが起こると言われている忌み鳥である。

私と相棒の男性は、林道をたまに藪の中へ入りながら行方不明者を探していたが、さすがに夜の12時を過ぎる頃になると、山もそうだが、近くを流れる小さな川の水の音が変わってくる。
周囲は静かになるのだが、川の水の音は逆に少し大きくなってくるのであり、一瞬にして気配が変わったようになる。
そこへ鵺がピーン、ピーン・・・と計ったように規則的に鳴くのである。
「おい、今夜はもうこれくらいにして、明日、明るくなったらまた探さんか・・・」、相棒の男性が私に言う。

私は待っていたようにこれに賛成した。
そうして2人で林道を引き返そうとしたときだった・・・、「おーい、今夜はこれで終わりにするぞ・・・」と言う声が少し離れたところから聞こえてきた。
どうやら今夜は誰も行方不明の人を見つけられなかったらしく、これで解散と言うことになるが、こんな季節のこと、朝は5時前から明るくなってくる、しばらく仮眠を取って明日また探そうと言うことになった。

家へ帰ってシャワーを浴びた私は体が火照ってしまい、扇風機を当てながら布団の上に横になったが、そこへまたピーン、ピーン・・・と鵺が鳴く・・・、むかし幼い頃この鳴き声が聞こえると、私はなぜか青白い顔の坊主が、向かいの山で何か恐ろしい目的のために杭を打っている場面を想像し、なかなか眠れなかったものだが、この晩も同じように眠れなかった。
「早く来ないとこの男は連れて行くぞ・・・」と青白い顔の坊主が言っているようで、結局明るくなるまで鵺の鳴き声は続き、一睡もできなかった。

翌朝5時30分ごろ、昨夜に続いて捜索を始めてすぐのことだったが、行方不明の男性は、山の林道付近の水が通っていない古い水路でうずくまっているのが発見された。
どこも怪我はなく、夜になって動けなくなったので一晩中そこにいたと言うことだった・・・が、おかしなことにその場所は私と相棒の男性が少なくとも4回は探した場所で、昨夜はそこに人などはいなかったのだが・・・。

 

※ この記事は2009年に他サイトに掲載したものを再掲載しています。

「神風」

チンギス・ハーンの孫、フビライ・ハーンは大都(北京)に都を開き、ここに「元」が国家として成立したが、時に1271年のことだった。
そして「元」はその後日本に対して大軍を擁して攻め込むが、どういう訳かうまく行かない・・・、しかし日本では元寇(げんこう)、蒙古襲来(もうこしゅうらい)として恐れられた、こうした元の日本攻撃には2つの大きな理由があり、その1つは皇帝フビライの日本征服の野望だが、もう1つの理由は日本の海賊問題だった。

元の属国となっていた朝鮮半島の「高麗」には日本の海賊「倭寇」(わこう)が頻繁に出没し、人はさらう、食料は略奪する・・・、と言った具合でその被害は甚大なものだったが、元が名目上も成立する以前から、高麗は元に対してこの日本の海賊問題で救いを求めていた。
つまり、元の日本進出の背景には、海賊対策を申し込んでも一向に埒が明かない日本に対して、統一国家としての国威の発動に近い意識がフビライにはあったようで、1268年以降、高麗を通じて日本に対して3回に渡って使者を送り、服従を求めた。

最初から服従とは「我に逆らうものは、その命を絶対に落とす。これは今まで征服した者たちも、これから征服される者たちも同じである・・・」としたチンギス・ハーンの孫らしい言葉ではあるが、当時18歳の北条時宗とその有力御家人たちは、この要求を拒否するならまだしも、「無視」と言う手前勝手かつ、極めて日本的情緒が伺える方法で回答するが、これはポツダム宣言の受諾が遅れたのと非常に良く似ていて、「服従しろ」と言っている相手に、「日本の事情も分かってね・・・」と言っているようなもので、相手としては一番侮辱された印象を受ける回答形式でもある。

1274年10月、何度使者を送っても一向に返事の無い日本の態度に激怒したフビライは、元と高麗の連合軍3万を、900隻を越える数の船で編成し、博多湾沿岸に上陸させ、日本軍もこれに応戦するのだが、元軍の集団戦法と毒矢、火を使った攻撃にひとたまりも無く退散、大宰府の水城(みずき)まで撤退した・・・、が、なぜか元軍はここまで攻撃しながら、理由も無く船に引き上げてしまい、翌日10月20日の夜に発生した暴風雨で、その多くの兵が船とともに博多湾の底に沈んでしまったのである。これを文永の役と言う。

さらに1279年、ついに宋を倒し中国を統一したフビライは、再度日本遠征の準備を行い、1281年、元、高麗、漢人で編成された4万の軍が朝鮮半島から出兵、対馬、壱岐を制圧し、またしても博多湾に迫ったが、今度はあらかじめ攻撃に対する備えをしていた日本軍の前に苦戦する。
日本軍、主に九州、中国地方の御家人たちだったが、彼らは海岸に石の塁、つまり石の壁を築いてこれで防御し、この4万の蒙古軍を撃退していた。

またこれとは別にフビライは南宋人10万人で編成された江南軍も博多湾に派兵していたが、博多湾に到着直後、この江南軍もまた暴風雨にあって、多くの兵や船が海の藻屑となってしまうのである。
これが「弘安の役」だが、フビライはこの前後2回にわたって日本征服を試みている、この2回はどちらかと言えば圧力を加えるのが目的だったのか、その規模は文永や弘安の役の規模よりは、はるかに小規模なもので、弘安の役の後にも3度目の大遠征を企てていたフビライだが、元の国内で親族の内乱が勃発して以降内乱が相次ぎ、ついに日本征服の夢は潰えてしまうのである。

さてこうして考えてみると、フビライの日本に対する執着は、並の執着ではないような気がするが、ここで考えたいのは日本征服の野望がどこに端を発しているかである。
海賊問題は確かに国家権威を考えれば捨て置けない問題ではあるが、それにしてはこの執着は深すぎる。

実は面白い話がある。
ヴェネツィア生まれのイタリアの探検家マルコ・ポーロは1271年、アジア大陸を陸路から横断し、1275年には「元」の皇帝フビライと会見してる。
その後マルコ・ポーロとフビライは意気投合、マルコ・ポーロは以後17年間に渡って元に滞在し、元朝に仕えて政務に携わった。
そして1292年に元を出発し、海路でペルシャを経てヴェネツィアに帰ったが、その間の旅行談を筆記したのが「東方見聞録」であり、この中で日本は黄金、真珠、宝石の多い国で、無限の富を蓄えていると記されている。

フビライが当初日本征服目標としていたのは確かに国威の発動だろうし、周辺征服だったかも知れない、だがマルコ・ポーロの話を聞いてから、それには経済的欲求も加わったのではないか、そのため弘安以降も諦めきれずに日本征服をもくろんだのではないかとも考えられる

皇帝フビライはなかなかの男だった。
日本を揺さぶるために、使者や書簡を時の権力者北条家だけではなく、天皇周辺にも送っている。
これはどう言うことかと言うと、万一天皇がフビライを認めてしまうと、北条家が逆賊となり、それを名目に元が天皇との直接交渉で、日本を手中に収める方法もあった訳だ・・・、幸い武力侵攻が功を奏さなかったおかげで、こうしたことは実現しなかったが、一歩間違えれば日本の歴史は今とまったく違うものになっていた可能性がある。

また元の襲来を事実上阻止したのは「暴風雨」とされているが、時の亀山上皇を始めとする公家たちは、元の襲来に対しても、昔ながらの敵国降伏の祈願を諸方の大社、大寺に通達しただけだった、しかし現実に元軍が撃退されると、これらの何もしなかった者たちが、祈願の熱意が神冥を動かした結果であって、暴風雨は「神風」であったと考え、日本は神々が鎮座し守護してくれる神国であると言う、いわゆる神国思想を喧伝しだしたのである。

だが現実はどうであろうか、元軍は船でやってきている以上、その道の専門家、つまり船乗りたちや、気象を経験的に予測できる者をも乗船させていただろう。
そしてそうした者たちは、暴風雨が来ることをある程度予測できたはずであるが、こうした予測こそが敗因になったのではないか、つまり暴風雨が来ることが分かり撤退しようとして、その判断をフビライとまでは行かなくても、ある程度の責任者に確認している間に撤退も侵攻もできずに、海に沈んでいったのではないだろうか。

もちろんフビライは撤退を絶対認めないし、その中で万一船を降りて、日本の陸上で戦闘になっている間に嵐が来れば、船が沈んで帰れなくなり、日本で孤立する。
気象をある程度予測できたからこそ、どうにも判断できずに暴風雨に巻き込まれた・・・と言うのがことの真相ではないだろうか。

また幕府はそれなりの防御策を講じていたし、西国御家人たちはこの事態に一挙に注目を集め、こうした場面で軍功でもあれば褒賞が・・・と言うこともあって頑張っただろう、さらには元軍は異民族混成部隊であり、先の話ではないが、海戦に慣れてはいなくて、その連絡網も後になれば後になるほどずさんだったに違いない。
第一、 もともとフビライに征服されたか、服従させられた民族で編成された軍隊でもあり、こうしたことから戦いには消極的な者も、少なくなかったのではないかと考えられるのである。

最後に元寇(げんこう)と倭寇(わこう)だが、前者は元のどちらかと言うと軍を指し、後者は日本の海賊のことだ。