「生きているなんぞ、つまらぬものだな・・・」、無意識のうちに口をついて出た私の言葉に、スタッフの女性が「どうしたんですか・・・、何かあったんですか」と問いかけたが、はっと我に帰った私は「いや、何も・・・」と答えた。
1989年1月7日午前6時33分、89歳で昭和天皇が崩御された、64年に及ぶ激動の昭和はこの年で終りを告げ、同年から平成が始まったが、私の生まれた町では古くから天皇が崩御されると、その年のお盆に神輿を出して喪に服する、つまり崩御の祭礼が行われることになっていて、明治天皇、大正天皇の崩御の際も、同じ祭礼がおこなわれていたことが記録として残っていた為、地元宮司や有力者の意見もあり、この年盛大な祭礼が行われた。
この祭礼は注目を浴び、それまで近隣市町村では盆踊りぐらいしかイベントがなかったため、その中で20近くもの神輿が出る祭礼の儀式・・・、と言っても見た目は祭りなのだが、これには多くの帰省客や観光客が訪れ賑わった。
だが問題はその翌年に起こった。
昨年あれほど活況を呈した祭礼の儀式を名前を変えて、祭りとして毎年行おうと言う話が地元有力者たちの間から起こってきて、あれよあれよと言う間にこの話は決まってしまったのである。
これに対してお盆の暑い日に神輿を担ぐ若者や、いたみ易い時期に弁当料理を用意しなければならない関係者たちは陰で不平を言ったものの、事を荒立てたくない、また取りあえずは地域活性化の名目もあり、表だって反対はできなかったが、当時まだ若かった私と一部の若者たちは、真っ向からこれに反対し、役場へ抗議に行き、地元有力者でこの話の提唱者でもあった、町の名家として権勢をふるう建設会社社長のところへも抗議に行った。
この時役場の職員は何と言ったかと言えば、「少し前の時代なら上で決まったことは、各地区に伝えるだけで誰も逆らわなかったのに、今はそれがこんなにやりにくくなるのか、難しい時代になったものだ」…と溜息をつかれ、有力者だった建設会社の社長に至っては、さらに話にならない言葉が返ってきた。
「お前らのようなゴミが、とやかく言うことではない、帰れ」と一喝されたのだが、これに対して、「貴様のような奴が町にはびこっている限り、この町は絶対良くはならない、貴様こそ黙れ」、私はそう言って玄関の戸を閉めたものだった。
おおよそこの崩御の祭礼は天皇の崩御に対する喪の意味があり、この祭礼を毎年行うことは、現天皇に早く崩御してくれ…と言っているようなものになりはしないか、またせっかく貰ったお盆休み、家族や親せき、帰省した懐かしい友と、ゆっくりしたいと言う若者達の気持ちも考えて欲しいと言うことがあって、私たちは 反対していたのだが、結局この祭りは決行されることになった。
そしてこうしたことがあってから暫くして、私は東京への出向が決まり、やがて会社も辞めて放浪生活になってしまうのだが、都会への憧れに一区切りついた私が故郷へ帰ってきてから数年後、ある地元施設の移転計画の企画メンバーを行政から頼まれていたので出席してみると、昔、「お前のようなゴミは・・」と言われた、くだんの建設会社社長がこの同じ会合に参加していたのである。
私はこの会合でも厳しい意見を述べ、特にこの建設会社社長のことは終始、睨みつけたままだったように記憶しているが、やがて会合が終わり、急いで帰ろうと役場の玄関に出た私を後ろで引き留める者がいた。
「相変わらずだな・・・」、そこには髪に少し白いものが増えた建設会社社長が立っていた・・・が、その顔は昔のような人を見下したような表情ではなく、ニコニコ笑っていた。
「どうだ、これからどこかで食事でも行かんか」社長はどうした風の吹きまわしか、こんなことを言ったのだが、当時、いや今でもそうだが了見の狭い私は「時間がないのでこれで・・・」 とそれを断った。
しかし、家へ帰ってラーメンをすすり、午後の仕事にかかろうか…と思っていたら、この汚い作業所の階段を上がって来るものがいて、それはやはりくだんの社長だったのである。
私はこのとき「あんたのことは大嫌いだが、本来なら上がることすらはばかられるような、汚い作業場へこうして足を運んでくれたことは、感謝する」と言って仕事場へ上がって貰った・・・、そして昔のことや、この町のこと、経済の話をしたが、それはお互い必ずしも一致しないながら、それでいて、この男、根っからの悪でもないんだな・・・と思わせるものだった。
そしてこのことがあってから以降、何かあるとお互い忙しいこともあってか、会うことはなくても電話で時々話をするようになり、やがて私が不完全でたった数回しかスポンサーが付かなかったローカル新聞を発行すると、これが当時社長が支持していた政治家を結果的に応援することになってしまった経緯から、さらに親密になっていくが、結局私も社長もこの政治家の寝返りにあって、ひどい目に遭うことになる。
そんな中、私を励まそうと社長は地元の有力者を集めて宴会を開き、その席で「この町でたった1人だけ、最後まで自分を曲げずに生きて来たのはこの男だけだ」…と私を持ち上げるのである。
たまたま偶然でそうなっただけで、大きな勘違いではあったが、私は社長のこうした気持が嬉しかった。
またある時、私はどうしてそこまで人に憎まれ、強引なことまでしてもいろんなことをやるのか…と尋ねたことがあったが、その時社長は嬉しそうな顔で「夢」だ、自分は夢がないと生きられない…と言っていた。
だが社長の評判はどんどん悪くなっていて、その背景には見た目の地元有力者の裏側に潜む、会社経営の不振があったからだろう・・・、豪邸に住みながら、高級国産車を乗り回しながらも、この会社から支払を受けられない業者が沢山いるとか、いつ倒産してもおかしくない、あれは詐欺師だ・・・と言う噂で一杯で、それはずっと昔から続いていたことだった。
そしてこの社長は行方不明になり、山の中で死んでいるのが発見された・・。
思えば生まれてから70年ほどの生涯のうち、調子が良くて幸せだったのは30年くらいだろうか、あとは死ぬ直前まで「金」との戦い、金に追われた人生だったに違いない、その中で必死になって負けずに戦って、最後に精根尽き果てたのだろう。
傲慢な人だったが、その傲慢さには心があった、思えば喧嘩ばかりしていたが、その実私と社長は同じ性質の人間だったようにも思う。
私の生きる動機は恨みだった・・・、いつかあいつだけは必ず見返してやる、あれを徹底的に潰すために力をつけてやる・・・、そうしたことが私の力だった、しかしどうだ、そうした相手が日々年老いて穏やかな老人になり、自分と会うと涙を流して喜ぶ姿を見て私はどうしたら良いのか、自分に力があってこうしているのではなく、唯周囲が衰えただけで残っている私はどうしたらいいのか・・・。
もう喧嘩もできなくなった、本当につまらない世の中よの・・・
今夜、仕事が終わったら、負けて自分で命を絶って行った「大バカ者」の為に大泣きしてやろうか・・・。
※本記事は2009年7月に他サイトで掲載したものを再掲載したものです。