「別れの言葉」

「生きているなんぞ、つまらぬものだな・・・」、無意識のうちに口をついて出た私の言葉に、スタッフの女性が「どうしたんですか・・・、何かあったんですか」と問いかけたが、はっと我に帰った私は「いや、何も・・・」と答えた。

1989年1月7日午前6時33分、89歳で昭和天皇が崩御された、64年に及ぶ激動の昭和はこの年で終りを告げ、同年から平成が始まったが、私の生まれた町では古くから天皇が崩御されると、その年のお盆に神輿を出して喪に服する、つまり崩御の祭礼が行われることになっていて、明治天皇、大正天皇の崩御の際も、同じ祭礼がおこなわれていたことが記録として残っていた為、地元宮司や有力者の意見もあり、この年盛大な祭礼が行われた。

この祭礼は注目を浴び、それまで近隣市町村では盆踊りぐらいしかイベントがなかったため、その中で20近くもの神輿が出る祭礼の儀式・・・、と言っても見た目は祭りなのだが、これには多くの帰省客や観光客が訪れ賑わった。

だが問題はその翌年に起こった。
昨年あれほど活況を呈した祭礼の儀式を名前を変えて、祭りとして毎年行おうと言う話が地元有力者たちの間から起こってきて、あれよあれよと言う間にこの話は決まってしまったのである。
これに対してお盆の暑い日に神輿を担ぐ若者や、いたみ易い時期に弁当料理を用意しなければならない関係者たちは陰で不平を言ったものの、事を荒立てたくない、また取りあえずは地域活性化の名目もあり、表だって反対はできなかったが、当時まだ若かった私と一部の若者たちは、真っ向からこれに反対し、役場へ抗議に行き、地元有力者でこの話の提唱者でもあった、町の名家として権勢をふるう建設会社社長のところへも抗議に行った。

この時役場の職員は何と言ったかと言えば、「少し前の時代なら上で決まったことは、各地区に伝えるだけで誰も逆らわなかったのに、今はそれがこんなにやりにくくなるのか、難しい時代になったものだ」…と溜息をつかれ、有力者だった建設会社の社長に至っては、さらに話にならない言葉が返ってきた。
「お前らのようなゴミが、とやかく言うことではない、帰れ」と一喝されたのだが、これに対して、「貴様のような奴が町にはびこっている限り、この町は絶対良くはならない、貴様こそ黙れ」、私はそう言って玄関の戸を閉めたものだった。

おおよそこの崩御の祭礼は天皇の崩御に対する喪の意味があり、この祭礼を毎年行うことは、現天皇に早く崩御してくれ…と言っているようなものになりはしないか、またせっかく貰ったお盆休み、家族や親せき、帰省した懐かしい友と、ゆっくりしたいと言う若者達の気持ちも考えて欲しいと言うことがあって、私たちは 反対していたのだが、結局この祭りは決行されることになった。

そしてこうしたことがあってから暫くして、私は東京への出向が決まり、やがて会社も辞めて放浪生活になってしまうのだが、都会への憧れに一区切りついた私が故郷へ帰ってきてから数年後、ある地元施設の移転計画の企画メンバーを行政から頼まれていたので出席してみると、昔、「お前のようなゴミは・・」と言われた、くだんの建設会社社長がこの同じ会合に参加していたのである。

私はこの会合でも厳しい意見を述べ、特にこの建設会社社長のことは終始、睨みつけたままだったように記憶しているが、やがて会合が終わり、急いで帰ろうと役場の玄関に出た私を後ろで引き留める者がいた。
「相変わらずだな・・・」、そこには髪に少し白いものが増えた建設会社社長が立っていた・・・が、その顔は昔のような人を見下したような表情ではなく、ニコニコ笑っていた。

「どうだ、これからどこかで食事でも行かんか」社長はどうした風の吹きまわしか、こんなことを言ったのだが、当時、いや今でもそうだが了見の狭い私は「時間がないのでこれで・・・」 とそれを断った。
しかし、家へ帰ってラーメンをすすり、午後の仕事にかかろうか…と思っていたら、この汚い作業所の階段を上がって来るものがいて、それはやはりくだんの社長だったのである。

私はこのとき「あんたのことは大嫌いだが、本来なら上がることすらはばかられるような、汚い作業場へこうして足を運んでくれたことは、感謝する」と言って仕事場へ上がって貰った・・・、そして昔のことや、この町のこと、経済の話をしたが、それはお互い必ずしも一致しないながら、それでいて、この男、根っからの悪でもないんだな・・・と思わせるものだった。

そしてこのことがあってから以降、何かあるとお互い忙しいこともあってか、会うことはなくても電話で時々話をするようになり、やがて私が不完全でたった数回しかスポンサーが付かなかったローカル新聞を発行すると、これが当時社長が支持していた政治家を結果的に応援することになってしまった経緯から、さらに親密になっていくが、結局私も社長もこの政治家の寝返りにあって、ひどい目に遭うことになる。

そんな中、私を励まそうと社長は地元の有力者を集めて宴会を開き、その席で「この町でたった1人だけ、最後まで自分を曲げずに生きて来たのはこの男だけだ」…と私を持ち上げるのである。
たまたま偶然でそうなっただけで、大きな勘違いではあったが、私は社長のこうした気持が嬉しかった。
またある時、私はどうしてそこまで人に憎まれ、強引なことまでしてもいろんなことをやるのか…と尋ねたことがあったが、その時社長は嬉しそうな顔で「夢」だ、自分は夢がないと生きられない…と言っていた。

だが社長の評判はどんどん悪くなっていて、その背景には見た目の地元有力者の裏側に潜む、会社経営の不振があったからだろう・・・、豪邸に住みながら、高級国産車を乗り回しながらも、この会社から支払を受けられない業者が沢山いるとか、いつ倒産してもおかしくない、あれは詐欺師だ・・・と言う噂で一杯で、それはずっと昔から続いていたことだった。

そしてこの社長は行方不明になり、山の中で死んでいるのが発見された・・。
思えば生まれてから70年ほどの生涯のうち、調子が良くて幸せだったのは30年くらいだろうか、あとは死ぬ直前まで「金」との戦い、金に追われた人生だったに違いない、その中で必死になって負けずに戦って、最後に精根尽き果てたのだろう。
傲慢な人だったが、その傲慢さには心があった、思えば喧嘩ばかりしていたが、その実私と社長は同じ性質の人間だったようにも思う。

私の生きる動機は恨みだった・・・、いつかあいつだけは必ず見返してやる、あれを徹底的に潰すために力をつけてやる・・・、そうしたことが私の力だった、しかしどうだ、そうした相手が日々年老いて穏やかな老人になり、自分と会うと涙を流して喜ぶ姿を見て私はどうしたら良いのか、自分に力があってこうしているのではなく、唯周囲が衰えただけで残っている私はどうしたらいいのか・・・。

もう喧嘩もできなくなった、本当につまらない世の中よの・・・

今夜、仕事が終わったら、負けて自分で命を絶って行った「大バカ者」の為に大泣きしてやろうか・・・。

 

※本記事は2009年7月に他サイトで掲載したものを再掲載したものです。

「坂道を上って行く車」

ヨハネスブルグで溶接業を営むA・カリルは、ある日、ヨハネスブルグからベリーニングに続く主要道に沿って、約10kmばかり続いている1つの丘のふもとへ入る道に自動車を止めた。
客と約束した刻限までにはまだ時間がある、天気も良いことだし、道端に腰かけて外の空気を吸い、ついでに煙草も一服したかったので、ポケットから煙草を出して、火をつけたが、そのさい何気なくさっき止めた自分の車に目が行った・・・。

その瞬間、カリルの顔色はハッと変わり、持っていた煙草を放りだした。
何と自動車がジリジリとひとりでに動き出していたのだ・・・・、しかもその自動車は坂道を少しずつ登っていたのである。
誰か悪戯でもしているに違いないと思ったカリルは、慌てて自動車に戻り、ドアを開け周囲を見回した・・・、だが誰もいない。
そしてその間も車は少しずつ坂道を登って行く、驚いたカリルはそのまましばらく考えたが、今度は自動車をUターンさせ、もう1度ブレーキを外して見た。

すると自動車は後ろ向きのまま、またもや丘の頂上に向かって登り始めた・・・、この状況に、カリルはなんだか急におかしくなってしまい、1人でゲラゲラ笑い出してしまった。
後日この話を聞きつけた南アフリカ連邦の「ザ・フレンド」紙の記者がカリルを訪ね、もう1度一緒に試してみることになった。
その丘は見たところ普通の丘で、他の丘と何か変わったところもなければ、周囲の様子も変わったことはなかった・・・、あまり急な坂と言うわけではなかったが、坂の両側には丈の高い草と、ところどころにトゲのある木が生えているくらいのものである。

「どちらの道からテストしますか・・・」
「この辺からでいいでしょう」カリルの問いに記者が答え、カリルは自動車のエンジンを切って、ブレーキを外した。
自動車はまたもや、しずしずと丘を登って行く、そこで自動車を止め、降りて丘を調べた2人はやはり何も見つけられず、結局自動車の周りを何度ぐるぐる回ってみても、どうしても謎が解けず、顔を見合せて大笑いするしかなかった。

このニュースは当時世界的なニュースになったが、そうこうしているとフレンド紙へ、スコットランドから抗議の手紙が舞い込んできた。
スコットランドの西海岸カルジーカルスの近くに、全く同じ不思議な丘があり、そこの坂道も同じように自動車が坂を登って行くことから、こちらの方が世界最初の不思議な坂だ…と言うのである。

またその坂は付近の人たちから「電気坂」と呼ばれ親しまれてはいるが、何か不思議な力が働いているわけではなく、全くの錯覚に過ぎない・・・、つまり丘の周囲を取り巻く田園風景と見比べたとき、その位置の変化で登っているように思い違えるだけだ、だからそもそも不思議でもなんでもないのだ…と、ご丁寧な解説まで付いていた。

これに対して「ザ・フレンド」紙の記者は反対の意見をスコットランドに送り、くだんの坂道は凄いでこぼこ道で、普通の坂ならブレーキなしでも十分自動車を停止させておける状態であり、またバケツに水を張った実験でも、その坂道は間違いなく見た目の方向に登って行く坂道であり、断じて錯覚ではないと主張した・・・が、スコットランドからは特段確認にも来ない割には、やはり「錯覚だ」と言う主張が繰り返され、その後もこのヨハネスブルグの坂道の不思議は、決着がつかないままになっている。

「蛾が前を飛ぶ」

 

蝶(ちょう)と蛾(ガ)はほぼ同じものだが、日本に措ける一般的な見分け方として、蝶は草木に留まっている時は羽を閉じているが、蛾は羽を横に広げて留まっているとされるものがあり、また蛾は夜行性で蝶は昼に活動する事になっているが、これは必ずしも全てがそうだとは言い切れない。

蝶は「科目」の中でも最も深いところに在る区別なので、この特性は一部の蛾も共有し、また蛾の一部特性を蝶が共有する場合も有り、蛾の伝説に関しては欧米では概ね魔女、日本では妖怪の化身若しくはその手先となっている場合が有り、この点でも蝶には「魂」(たましい)に関わる伝説が多く残っている事に鑑みるなら、遠からずのものが有り、どちらかと言えば蛾は凶、蝶はそれより少しだけ温情が有る凶と言う程度の差かも知れない。

無論中国の伝説に出てくる「姫蛾」は半分の幸運と言う面も持っているが、本質は「吉凶相具」であり、蝶にしても欧米では「魂」や「復活」の象徴とされるも、その前提には「死」が横たわる。

ギリシャやイタリアに残る死者の上に蝶が舞い、体に止まると死者は蘇るとされる伝説、キリスト教では復活の前触れとして蝶が舞う姿が考えられているが、これらはどこかでタイミングに拠る次元重複のような感覚かも知れない。

日本に措ける蝶の伝承で最も多いのは「祖先の霊」であり、また仏の使いとされる場合もあるが、この概念は蛾が間違いの無い「凶」「不吉」に対し、一面の救いや情けが加えられている点に相違がある。

ポピュラーなものでは、何故か部屋から出て行かずはらはらと舞っている紋白蝶(もんしろちょう)は、亡き彼の母親が息子の凶事を知らせに来ていると言われるものであり、この反対に母親が夫や息子の凶事を知る事例で一番多いのが太平洋戦争時のものだった。

畑仕事が一区切り付いた母親、彼女の周りを何故か蝶がひらひらと舞っていて離れない。

この場合は揚羽蝶(あげはちょう)が多かったようだが、不思議に思いながらもその事を忘れかけていた頃、「戦死」の報が届くのであり、夫や息子が自分の死を知らせようとしていたのだろうと語る彼女達に、これを科学的に否定するなら容易い事だが、私はそれに意味を見出すことが出来ない。

また生後間もない赤子に対する蝶は間違いの無い「凶」であり、この場合は生まれた子供が死ぬ恐れが大きかったのだが、こちらは元々出生直後に死亡率の高い時代からの伝承で有り、こうした背景も加味される必要はあるだろう。

ちなみに蝶や蛾は漢語であり、日本では多くの呼び名が日本独自の発展を遂げたが、蝶に関しては「やまと言葉」は存在するものの、これが途中で駆逐された割には、例えば万葉集には蝶を歌ったものは皆無である。

この背景を考えるなら、その昔から蝶は縁起が悪いとされていたのかも知れない。

次の瞬間はどの方向を飛んでいるのか予想も付かない蝶は「女心」や「男心」を現すに良さそうな気もするが、やはり「死」に絡んだものは避けられたのだろうか・・・。

最後に蝶だけとは言えないものの、余り一般的ではない飛来物の伝説、たった3例しかないが、この3例目を自分が今朝体験したので本文を寄稿させて頂いた次第である。

私は毎朝父親に食事を食べさせた後、神棚の榊の水を交換するを日課としているが、神棚から左右の榊が入った白磁の神器を降ろし、両手に持って廊下を歩いていた時だった。

その2つの榊の真ん中下辺りから一匹の蛾、それも雀ほども大きさの有る蛾が羽を広げたまま、まるでツバメのように羽ばたきもせず、凄いスピードで飛び出したかと思うと、自分の腰くらいの高さをずっと飛んで行って廊下の突き当たりで消えてしまったのである。

大体朝の気温は室内でも4度くらい、こうした季節に件の大きさの蛾がいること自体おかしいが、飛んでいる間全く羽ばたきしない蛾など聞いたことが無い。

しかも何となく蛾は後ろからやってきて、私の体をすり抜けて来たか、或いは榊の少し後ろから継続性を持ちながら突然発生して来た感じで、最後は半透明になって跡形も残っていなかった。

一瞬ポカンとしたが、何せ忙しい早朝の事、「幻覚、幻覚」「忙しかったからだ」でその場は片付けてしまったが、後に気になって過去に集めたファイルの中から色々記録を引っ張り出して調べてみると、真贋は不明なのだが何と1799年、岡山県美作(みまさか)で当時32歳の男性が、もう一件は長野県松代町で1891年頃と思われる個人の家の記録に、そう言う話を聞いたと言う記録が残っているものの、その場は記されていないと言う記録が残っていて、状況は違うが後ろからそれが体をすり抜けて行ったらしい。

だが恐ろしいのは、1799年の時は鎌が回転しながら男性の体をすり抜けて消えたらしく、松代町では正体不明の鳥が人体をすり抜けたらしい事で有り、つくづく自分の場合は蛾で良かったと胸を撫でおろした。

そして残念な事だが、こうした過去の記録にはその後が記されていない事であり、一体彼らはその後好事に遭遇したのか、それとも凶事に遭遇したのかはとても気になるところだ。

私の場合は科学的に考えるなら、寒さで幻覚を見たのだろうと言うのが常識的な見解だろうが、もしこれで私が凶事に遭遇して死んだら、それはそれで「蛾が自分をすり抜けて追い越して飛んで行ったら命が危うい」と言う事例が確かめられる事になる。

これはこれで嬉しいような気もするが、死んでから嬉しいも何も無いか・・・(笑)

「天の怒り」・3

「それはどこか熟し切った杏(あんず)の匂いに近いものだった。彼は焼け跡を歩きながら、かすかにこの匂いを感じ、炎天に腐った死骸の匂いも存外悪くないと思ったりした。が、死骸の重なり重なった池の前に立ってみると、「酸鼻」と云う言葉も感覚的に決して誇張ではことを発見した。殊に彼の心を動かしたのは十二、三歳の子供の死骸だった。彼はこの死骸を眺め、何か羨ましさに近いものを感じた。「神々に愛せらるるものは夭折す」・・・・こう云う言葉なども思い出した」(芥川龍之介、或阿呆の一生より)

また「杉村楚人冠」(すぎむら・そじんかん)は「余震」の中でこんなことを書いている。
「地震で東京が焼けて一面の野原になってしまったのを見たとき、あわれなと言うよりも、そうれ見ろと言ってみたいような気が腹のどこやらでした。それが私ばかりかと思ったら、大分同じ思いをした人があるらしい。けしからぬことかも知れぬが、実際そんな気がしたのだから仕方がない」

「誰も彼も玄米を食い、誰も彼もてくてくと歩かなければならなかった当時は、苦しい中にも、自分の世界になったようで、うれしかった。誰彼の別がないというところに言うべからざる興味を覚えた。だんだん復興しかかってきた今日でも、なおいたるところにこの平等無差別の態が味わわれる。
(中略)わればかり人と違ったような顔をしなくてもよい世の中はまったく身も心ものびゆくを覚える」

そしてこれは「竹久夢二」だが・・・、
「私自身が命を助かっているのだから、そう言っては申し訳ない気がするが、しかしお気の毒とか、可哀そうだとか言っただけでは、どうにも心持に添わないものが残る。もっと何かしら心の踊上がるような、喜びでも、悲しみでもない、この大きな感動を、さて何と言ったらよかろう」
「それは近代の商業主義に対する、一ロマンチストの反感に過ぎないものだろうか。唯物的な文化に対する、唯心的な感覚の反発だろうか」

「何しろ、何の知らせもなしに、ひょいと自然が小指一本動かすと、轟然として、さしも殷賑を極めた彼らのいわゆる文化の都が一瞬にして、ただ一色の朱に、次に灰色になった。幾百万の人間が、たった一つの意識でつながったという事実は、挙国一致の戦争よりも、もっと気があっていたと思う、いや全く人間と、すべての社会生活を忘れて、個々別々にたった一人の人間になったと言った方が本当かも知れない・・・・」と「変災雑記」に記している。

同じことは「田山花袋」が婦人公論の大正12年10月号でも語っていて、こちらは「なんと言って好いか私にはわからない。好い見せしめだ!などと単純に言ってしまうことはできない」としながらも、物質上の平等や精神上の平等が震災によって考えられた、また人間の心の中に、微妙に自他の平等という種子が蒔かれて来はしないかと考える…としている。

これが「生田長江」になるとさらに過激なことになるが、震災のその瞬間「とうとう来やがったな」と思い、「神はついにその懲らしめの手を挙げたもうた・・・」と思ったと言う。
そしてこの大帝都を焦土に化し行く、もの凄い火焔を望見しながら、私自身をも込めた日本人及び日本の社会へ呼びかけた、「どうだ、少しは思い知ったか?これでもまだ目覚めないというのか」…と心の中で叫んだと言うのだ。

また渋沢子爵はこの大震災を一つの「天譴」(てんけん)であるとしたことを、生田氏は高く評価し、その論評もしているが、不思議なことにかなりの人間が、この大震災の襲来を自身も被災しながら「そうれ見たことか、ざまー見ろ」と思っていたことである。

生田氏は婦人公論の中でこうも語っている。
すなわち、明治維新以来、日本は順調続きで、いつも神風が吹くものと思っていて、「国民的成金」根性になりきっている・・・、日本人は個人的にも社会的にも全く救うべからざるデカダンだった。
言い訳とごまかしの妥協的改革論や、野次馬気分と売名行為のための革命主義などには全く絶望しか感じない。
日本人の間違った「自足」と「のほほん」加減、虫のよさと浅薄さ、不真面目さは何か大きな天変地異でもないと絶対一掃されないと思っていた。

そしてこうした思いつめた社会観が蔓延していて、今年あたりはそのピークだった、もうそろそろ何かが起こると思っていた…というのだが、この続きが冒頭の「とうとう来やがった」に繋がるのである。
だが、こうした気持は私にもどこかで分かる部分がある・・・、いやおそらく日本人のほとんどが、もしかしたらこうした気持の中にあるのかも知れない。

先が見えない、経済は混乱、政治は言わずもがの状態、世界的に見ても日本の地位や信頼は失われる一方、どこかで聞いたような安直な話がもてはやされ、行政は言い訳やごまかしで民衆を騙せると思っているし、貧富の差は拡大する一方・・・食料も不安なら油も不安、ついでに隣国は火車の状態だ、どうして未来に希望が持てようか・・・。
いっそ何かとんでもないことが起こってリセットになってくれた方が、どれだけすっきりすることか・・・などと思うことはないだろうか。

そしてこの大正12年の例を見ても分かるように、こんな社会はまっぴらだ、何か大きな天変地異でも起こってくれて、社会をリセットでもしてくれないだろうか・・・と言うようなことを心の片隅にでも思う人間が多くなってくると、そこへ誘われるようにして、大きな天変地異がやってきていることを、我々は忘れてはならないだろう・・・・。

「天の怒り」・2

「ジリジリと顔は焼ける、髪の毛は焦げる・・・、たまらなくなったか1人2人と意を決したのか、ザンブとばかり身を躍らせて弁天池に飛び込めば、今はこれまでなりと、周囲にあった男女約1000名、我も我もと池中に飛び込んだ。しかし記憶せよ!この弁天池は実に猫の額大の池に過ぎぬのでる!・・・・その間における救いを求める最後の声のいたましさ、一歩踏み込み、指1本滑らせば泥中に足を踏み入れなければならないのであるから、岸辺にある者は骨も砕けよとばかりに岸辺の何かを握りしめ、その後ろにいる者はその人の肩に手をかけ、そのまた後ろは岸辺に近づき人の胴を力の限り抱きかかえ、中央部に浮きつ沈みつつある者は前の人の髪を掴んで離さない・・・」

「南無妙法蓮華経、南無阿弥陀仏・・・・、ありとあらゆる神仏を声高く念ずる叫び、実にその惨状はこの世のあらゆる形容詞1万語を連ねるとも、なお良くこの凄絶惨絶を描破し得ることはできまい」(吉原弁天池の惨・大正大震大火災より)
資料を読んでいるだけで涙が流れてくる情景だが、これは火に囲まれた吉原の惨状であり、吉原の遊女たち630人はこの池へ飛び込んで死んでいった。

9月1日の夜、麹町、神田、下谷、浅草方面は朱色の炎で真っ赤に染まり、自分の姿にその炎の光が影につくっていた・・・、余震はまだ続いている、あちこちから聞こえる絶叫の声が一つになって、天を破るのではないかと思えるほどだった。

こうした日本の地震を受けて、合衆国大統領クーリッジは「アメリカ政府は赤十字社を通じて震災救済、援助に最大の努力をする」と表明、またイギリス、ソビエト連邦、オーストラリア、インド、イギリス、フランス、中国などからも支援の手が差し伸べられたが、日本政府は横浜に入港したソビエトの救援船を、共産主義思想の啓蒙活動の恐れあり…として退去を命じた。

アメリカ政府は関東大震災救援のため、米百万ポンド、大豆百万ポンドに、大量の建築資材や洋服などを日本に向けて送ったが、このアメリカの対応は当時としてはかなり迅速なもので、その背景には1分早ければ1人多く人が助かる・・・、がニューヨーク市の日本震災寄付金募集の標語であったためで、映画館、劇場などあらゆるところでこうした寄付金の募集が行われ、少女たちが救済金を作るために花売りをし、それが1束5ドル、10ドルと言う法外な値段だったにもかかわらず、飛ぶように売れ、全米各地の新聞などで日本救済の記事を掲載するなどして、アメリカの救済活動が盛り上がったのである。

そして震災後、日本国内でも非常に現実的と言うか、「こんなものか」と思える動きが出てくるが、ひとつは死体運搬の人足が不足してきて、横浜では当初こうした人足の日給が5円と米一升だったが、当時の一般的日雇い人足の給金が1日1円未満だったことを考えると、これがいかに法外なものだったか分かるだろう・・・、だが、こうした人足もその後生き残った人たちが、生活の糧として人足稼業を始めるに至り、横浜でも日給4円と米一升となり、東京では日給4円だけだった。

東京が4円で米一升がつかなかった背景はつまり、横浜よりはこうした人足が多かったと言うことで、それだけ東京の方では死者が多かったにもかかわらず、仕事がなかったと言うことを指している。
ちなみにこの職業は関東大震災によって一時的に現れた職業だった。

また吉原の遊女たちが多く死んでしまったことがその背景にあるとも言われているが、この時代まだ公然と商売として成り立っていた「売春」が一躍脚光を浴びてくる。
それまでどちらかと言えばプロの仕事だった売春が、この震災を機に一般子女にまで波及していくのだが、売春宿が平然と新聞広告で売春婦を募集しているのである。
「芸妓、15より25歳位迄、芸なき素人の方歓迎、住替何れもにても、是非ご相談ください」と言った広告が震災後の「都新聞」に10、20と載せられていた。

そしてこうして買収された一般子女は芸を売るのではなく、体を売るのだが、盛り場では一夜に20人30人の客を取らせ、その料金は1円以上、3円や5円と言ったものまであり、こうした職業に身を転じた婦女子の収入は一夜で十円以上になったと、「宮武外骨」が記している。
ちなみに「宮武外骨」は、いずれのそうした場所も大繁盛で、大震災の騒動で荒んだ心を肉欲の満足で緩和させる者の多い、と記し、さらに現社会制度の根本を解せずして、単に公娼廃止の運動をする連中は、このように私娼の跋扈(ばっこ)するを何と視るのであろうか・・・、などとも記している。

また関東大震災を語る上で決して避けて通れぬところとして、こうした騒動に乗じて朝鮮人や中国人の大量虐殺事件が頻発したことを記しておかねばならないが、こうした虐殺行動は単に政府や軍部だけの行動でなく、9月2日の時点であらぬ噂が広まり、朝鮮人や中国人に対する暴力行為は、半ば民衆化したことも記録しておかねばならないだろう。

実に関東大震災の記録では地震の悲惨さを伝える証言が半分、そして残りの半分は朝鮮人や中国人に対するこうした虐殺に関する証言なのであり、この中には日本における社会主義者たちや、一般市民も含まれていて、なおかつ、この問題には現代社会の日本人を考える上で非常に貴重なものが潜んでいる。