「そして誰もいなくなった」

アメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルス近郊の町アズサ・・・、この近くに総面積6万エーカーにも及ぶロサンゼルス国立公園があり、広大な原始林の公園にはウィルソン天文台、美しい人造湖、キャンプ場などがあり、人々のレクリェーションの場として親しまれていた。
緑の山々が連なり、とてもきれいなところだが、この公園には緑の海と呼ばれる原始林地帯があり、1956年8月、事件はここから始まった。

その日の朝、13歳の少年ドナルド・リーは隣の家の娘ブレンダ・ハウエル(当時11歳)を誘って、近くのガブリエル貯水池へと出かけたが、こんなことはしょっちゅうのことで、2人にとってはほんの朝の散歩がてら・・・と言う感じのことだったが・・・・
「8時までに戻ってくるのよ、今日は9時に教会へ行くことになっていますからね」
「オーケーママ、大丈夫自転車で行くからすぐ帰ってくるよ」母親の言葉に元気よく答えたドナルド・・・、そして2人は自転車に乗って山道を走って行った・・・が、これが2人をこの世で見ることができた最後の姿になってしまった。

2人はそれきり夜になっても帰って来なかったのである。
家族から知らせを受けたアズサ警察署の捜査隊は、急いで2人の捜索に向かったが、貯水池に近い森で2人の自転車とドナルドのジャケットを発見したものの、肝心の2人はどこにもいなかった。
「2人は貯水池に落ちて溺れたかも知れない・・・」
今度は警察の連絡でアメリカ海軍、フロッグマン部隊が駆け付け、貯水池の捜索にあたったが、貯水池は長さ2km、深さは20mもあり、捜索は困難を極めたが、フロッグマン部隊はその殆ど全域の水中をくまなく捜した。
しかし2人の遺体はおろか着衣の1部すらも発見できなかった。

また陸上ではアズサ警察署が総動員で、他にも森林保安員、山岳警備隊なども加わり、総勢数千人規模で、森の中をそれこそ隅々まで徹底的に捜索したが、結局何1つ発見することはできなかったのである。
この事件は当時ロサンゼルスの多くの人達の知るところだったことから、連日新聞が書き立てた為、かなり有名な事件となってしまい、ついには「人喰い森」のうわさまで出てきたが、この翌年さらに不可解な事件が起こってくるのである。

1957年4月25日。
「そんなに急ぐな、もっとゆっくり歩いたらどうだ」サン・ガブリエルに近い森を行くピクニックの二家族・・・、その先頭に立って走り回るトミーに父親が声をかけた。
「そうよ、お兄ちゃん、少し早すぎるわよ」妹もぶつぶつ言う、そしてその下の弟は既に疲れ切った様子だった。
総勢7名のこの一行はトミーの家族に、叔父のゴードン一家3人が加わっていたが、父親の声にも耳を貸さず、「おそいなー、もっと早く歩けないの」と、じれったそうに先頭のトミーは歩き始め、その先ほんの数メートルの小道を曲がり、生い茂る木の葉に隠れて一瞬姿が見えなくなった、そのときだった。

この距離ほんの数メートル、時間にして2秒ほどだが、トミー以外の家族も遅れてその道を曲がった・・・が、「あっ、お兄ちゃんがいない」弟のジョンが叫んだ。
その場所はさっきの緩い曲がり道を過ぎると、後はほぼ直線の道が続いていて見通しがきく場所だったが、トミーの姿はさっきまで彼がいた所に家族が追い付く、ほんの2秒ほどの間に忽然と消えてしまったのである。

家族はトミーの名前を呼んで、あたりを探しまわったが、トミーは煙のように消えてしまい、二度と再び戻って来なかった。
アズサ署はこの事件でまた大捜索活動を始め、400人の捜索隊、数百人の警官と森林保安員、ヘリコプターや犬まで動員して捜索するも、トミーの姿だけではなく、何の手がかりも得られず終ってしまうのである。

そして1960年7月13日、今度も「人喰い森」の名前に恥じない恐ろしい事件が発生する。
場所は初めの事件でドナルドとブレンダがいなくなったガブリエル貯水池の近く、YMCAキャンプ場だった。
「ブルース、気分でも悪いのか、顔色が良くないぞ」リーダーのマコーミックが心配そうに、その少年の顔を覗き込んだ。
ブルース・クレマン・・・、Tシャツにジーンズ姿、胸にはYMCA夏季クラブの花文字が付けられていたが、キャンプに参加したのは7歳になったこの年が初めてだった。

「僕、気持が悪い」
「ああ、そうだな、ここは海抜2000メートル地帯なんだ、そのせいで気持ちが悪いんだよ、戻って休みなさい」
リーダーのマコーミックはブルースをキャンプ場の入り口まで連れて行ったが、ブルースはどうも力ない足取りで、1歩、2歩・・・と歩いて行く・・・が、後ろから付き添っていたマコーミックは、このとき信じられない光景を見ることになる。

先を行くブルースの姿が少しづつ薄くなったかと思うと、やがて半透明になり、そしてマコーミックの眼前でスーッと消えてしまったのである。
マコーミックは夢かと思い、自分の目をこすったが、そこにブルースの姿はなく、この日を最後にブルースは忽然と消えてしまったのである。

後にアズサ署で事情を聞かれたマコーミックは、「まるでロウソクの炎が風で吹き消されるように、フッと消えて行ったんです」…と語っている。

これ以後ブルースの姿を見たものはいない。
また1963年にはこの上空で飛行機が事故を起こし、墜落したがこれも消失してしまっている。
何人も目撃者がいて、大体どの辺に墜落したかもわかっていたのだが、その墜落場所付近には、機体の破片1つ落ちてはいなかったのである。

ちなみにこのガブリエル貯水池付近の事件は、その後すべて迷宮入りになり、人々は「人喰い森」と呼んでこの付近には出入りしないようになったが、今でもガブリエル貯水池にはきれいな水がたたえられ、穏やかで美しい景色が広がっている。

「土下座」

 

「おい何だ、そのすだれみたいな頭は、そんなんで前が見えるのか、椿油でも塗って前髪は上げておけ」
「自眠党の幹事長が来るんだぞ、車はセドリックぐらいじゃだめだぞ、灰金建設からプレジデントを借りて来い、あー、話はつけてあるからな」
40代後半の地元市議は若い者を集めて、今日の指示を出していたが、国政選挙ともなれば地方も大変である。
なにせその地方だけでは既に経済的に破綻していて、どうしても中央から事業を引っ張ってこないと、みんな御飯が食べられなくなる。

そして地方の経済は何だかんだ言いながら、税金を使った公共工事が主体経済だから、土建関係の仕事がないと、どうにもならなくなってしまうのだ。
思わずテンションは上がり、中央の与党幹部が地元衆議院議員候補の応援に来るともなれば、将軍様のおこしか、天皇の勅使のご到来のようなことになってしまう。
そしてこうした中央の政府与党幹部のご到来に合わせて、地元代議士候補の「総決起大会」なるものが開催され、そこには系列県議は勿論、周辺の市町村議会議員までもが参列、地元住民を大量動員しての一種の「祭り」が繰り広げられるのである。

市町村議会議員などはそもそも大方が土建業者や地元の事業主であり、そこに勤務している従業員はすべてこうした総決起大会には、大会ボランティアがその業務になるのだが、男女問わず自眠党指定カラーのジャンパーを着て、有力者をお迎えに行く者、代議士、県議の接待をする者、会場整備や誘導と言った具合に若い者が振り分けられ、美形の女性受付嬢などは1日秘書のお役目を仰せつかり、代議士のカバン持ちをさせられることもある。

こうして開催される総決起大会であるから、中途半端なことでは許されない・・・、1000人入るホールは当然のごとく満員になって、しかも座れない人が大量に出るくらいの盛況ぶりでなければならない、いや絶対そうでなければ地元市町村議会議員や県議、代議士候補の与党幹部に対するメンツが立たなくなるのだ。

暑い夏、ナイロン製のジャンパーを着ていると、下に着ているTシャツなどは一瞬にして絞れば水が滴るように汗だくになり、わがままな議員たちに顎でこき使われ、それでも文句が言えない各事業所の若い者たちは、こうした機会を通じて政治家の馬鹿さ加減を勉強するのだが、ひどいものでは時間が押しているからと言って、20代男性に制限速度を50kmもオーバーさせて車の運転をさせていた県議がいたり、途中食事をすることになって洋食レストランに入ったが、ステーキを注文して箸がなかったため激怒し、しかもその店は本格的なステーキハウスだったらしく箸を置いていなかったことから、何度もそれを丁寧に説明する女性ウェイターをさらに怒鳴りつけ、ついにはそのウェイターが泣き出してしまって、それでも無理やり「箸を買って来い」と怒鳴って、結局箸を買って来させた市議などもいたようだ。

また人集めに駆り出された人は更に悲惨で、自分が住んでいる地域全部を回り、夕方から始まる決起大会に参加してくれるよう頼んで歩かねばならず、しかもこれには1人で何人集める・・・と言う割り当てがあり、大きな声では言えないが、寿司の折詰が出ることを餌に住民を集めるのだ。
そして夕方にはこうして誘った住民の送迎もしなければならないが、いざ総決起大会ともなれば玄関で整列し、「ご苦労様でした」とか「ありがとうございました」と、声を揃えて挨拶もしなければならないことになっている。

そして全員が必勝のハチマキをした会場は人々の熱狂で冷房が利かず、会場へ入れないほどの熱烈な支援者?で埋まり、いよいよ総決起大会が始まる。
地元有力者の挨拶に始まり、市町村議会議員や県議の挨拶・・・、どれも記述するには余りにも情けないものなので削除するが、そうした挨拶の後、いよいよ自眠党幹部の挨拶と代議士候補への激励があり、最後に代議士候補の謝辞と支援者に対する更なる支援のお願いがあって、候補者は来賓1人1人に握手を求め、そこでも激励されるが、この時感極まった候補者は、舞台で両手をついて支援者の皆様に土下座する。

これを見た会場の聴衆からは思わずどよめきが起こり、その後大きな拍手が起こってくる、会場は異様な熱気と感動の渦で満たされ、誰もがこの候補でなければこの地域は絶対繁栄しない、彼こそが我々の希望だ・・・と思えてしまう雰囲気で一杯になる瞬間だ。
だがこのとき裏では、昼間人集めをした若者たちが、どこの町の誰が来なかったかを一人一人チェックしていて、後日そうした家や事業所には再度、別の形での支援要請が行くのだが、そこでも協力的でない、または反抗的な家や事業所はしっかり記録され、後でいろいろ不利益を被らせる仕組みになっている。

ちなみに土下座については、私の知り合いの住職が面白いことを言っていた。
何でも日曜日の午前中、門の前をほうきで掃いていたら、見慣れない黒塗りのベンツが止まった・・・、しかしそのベンツは窓に黒いフィルムが貼ってあり、そこから降りてきた人物は葬式でもないのに黒のスーツ姿、恰幅は良いが目つきは冷たい、一見してヤクザだと分かる人物だった。

そしてこのヤクザは住職に一軒の家を尋ねたが、その家は寺の近所で勿論住職も知っている家だった・・・、だが相手はヤクザだ、借金取りか恐喝か、いずれにしてもその家に迷惑がかからないとも限らない、教えて良いものか悪いものか・・・、住職は返事に窮していた。
その様子を見ていたヤクザは住職の思いを察したのか、ハッとした表情になり、次の瞬間地面に両手をついて土下座した。
「自分がこうしたものだから、たった1人残った姉にもこれまで随分不義理をしてきました。しかしどうも姉が危篤と知って、一目会いたいと思ってきました。どうか家を教えてください」そのヤクザは頭を下げたまま、そう言うのだった。

住職はしばらく考えたが、確かにその家ではこのヤクザの姉くらいの女性が危篤状態だと言う話は聞いていた、またこうして地面に頭をすりつけるようにして顔を上げないこの男には何某かの「真実」が感じられた。
住職はその家をヤクザに教えた。
それから程無くこの女性は亡くなり、数日してくだんのヤクザが玄関に立っていた・・・、そして「おかげで、最後に姉に会うことができました。ありがとうございました」と住職に挨拶していったのである。

近頃土下座も随分軽くなって、議員などはしょっちゅう土下座しておるが、その実選挙で当選すればみんな偉そうなものだ、それに比べれはあのヤクザの土下座は本物だった・・・・とは住職の談である。

ちなみにこの話はフィクションと言う事にしておこうか・・・(笑)

「帝国主義の概念」

一般に帝国主義と言えば、強大な軍事力にものを言わせて他国を侵略、若しくは力を背景に言うことを聞かせて・・・と言う印象があるかもしれないが、これは結構広範囲な意味での帝国主義で、この観点からすれば帝国主義はすでに古代から存在していたが、より厳密な歴史的概念として帝国主義を考えるとき、それは別の様相を現わしてくる・・・、今夜は帝国主義の正体を少し見てみようか・・・。

帝国主義の理論的な解明を試みた著作としてはイギリス人、ホブソンの「帝国主義論」(1902年)、オーストリア生まれでドイツ社会民主党の理論的指導者となったヒルファーディングの「金融資本論」(1910年)、ポーランド生まれでドイツ社会民主党の左翼急進派の指導者となったローザ・ルクセンブルグの「資本蓄積論」(1913年)、それにレーニンの「資本主義の最高段階としての帝国主義」(1917年)があるが、これらの帝国主義論の中で最も有名なのはレーニンのそれであり、古典的ながらも現在もこの理論が一番分かりやすい。

レーニンの帝国主義の概念はこうだ・・・。
資本主義が発展してくるとともに、生産と資本がますます少数の大手企業に集中し、産業界ではこれら一握りの大企業の姿がそびえ立つようになる。
そしてこれらの大企業は利潤を吊り上げる為に、相互にカルテル、トラスト、コンツェルン、シンジケートなどの企業結合を結び、ここに自由競争に代わって独占組織が産業界を支配するようになる。
この独占の形成こそは、帝国主義のもっとも根本的な法則であり、帝国主義は独占資本主義とも言い換えることができるのである。

このような産業界における資本の集積や独占の形成には、その過程で産業資本と銀行資本との間に綿密な結合関係が発生し、こうした産業資本と銀行資本との癒着、結合したものが金融資本と呼ばれ、帝国主義段階では、一国の経済機構だけでなく政治機構までもが、この一握りの金融資本の支配を受ける。
そして金融資本は国内市場を支配するだけでは満足できず、より高い利潤を求めて国外、特に労働賃金が低く原材料価格の安い後進地域に活発な投資を行い、このように商品の輸出と並んで資本の輸出が大規模に行われることが、帝国主義段階の大きな特徴なのである。

国内でカルテル、トラストなどの独占を生み出した資本家たちは、更に国際的な規模でも、市場の分割のための協定を結ぶ。
そして後進地域を経済的に支配する為には、その地域を植民地化してしまうのが最も確実な方法であり、そこで帝国主義段階においては金融資本が国家権力をかり立てて植民地の獲得に乗り出す。
その結果、大国の間で植民地の獲得を巡って死闘が展開され、むろん、植民地獲得の政策そのものは、すでに古代から認められるが、それが金融資本の利益と結び付いている形態をして「帝国主義」と言うのである。

レーニンの帝国主義に関する概念が、最も良く該当していたのは19世紀末から第1次世界大戦にかけての時期であるが、この時期欧米、そしてそれに続いて日本もそうだが、これらの列強が、国内に成立した金融資本の利益を背景として、植民地獲得をはじめとする、帝国主義的な政策を繰り広げていった・・、その結果列強どうしの間で帝国主義的利害が衝突し、次第に国際的緊張が高まっていった。
第1次世界大戦は本質的には、こうした独占資本主義の対立、つまり帝国主義の対立の極みで生じたものと言えるだろう。

そして1929年10月24日に起こったアメリカ・ニューヨーク・ウォールストリート発の大恐慌は瞬く間に世界を襲い、見せかけの信用で膨張し続けていた金融資本は一挙に収縮、資源を持つ国や列強はこれに対して高い壁を作り、自国資本の流出を抑えたが、資源が少なく経済的な弱小国の金融資本は、それまでのような利潤と言う生易しいものではなく、生存、生き残りをかけた膨張を求めって行ったのであり、そこではもはや膨張などと言う中途半端なことでは納まらず、植民地奪取、侵略と言う手段に訴えるしか道を無くしていた。

つまりレーニンの独占資本は「牙」を持つに至り、その牙は結果として最後は、独占資本そのものにも向かっていったのが、第2次世界大戦の有り様ともいえるのであり、少なくともドイツ、日本、イタリアはこうした傾向が当てはまるのである。
そして現代を見てみればどうだろうか、何かレーニンの帝国主義とは違った要素はあるだろうか・・・。
カルテルと言うのは同一産業部門の独立企業どうしの協約であり、市場統制による超過利潤の獲得を目指すものだが、これが発展するとシンジケートになり、カルテル自身が共同販売機関を持ち、参加企業の商品の一括販売にあたるものだ。

そしてトラストは主にアメリカで起こったものだが、市場の超過利潤獲得はカルテルと変わらないが、企業の経済的独立性はほとんど失われる、いわば企業合同と言われるものであり、その本質は吸収合併に近いものだと理解した方が良いだろう。
またコンツェルンは、第2次世界大戦前の日本の三井や三菱などと言った財閥が行っていた仕組みで、市場支配よりも資本関係の支配を目的とした仕組みだったが、こうした形態やこれに近い仕組みは今でも残っているし、トヨタ、日産、ヤフー、楽天などを見ていると、これを独占資本と言わずして何と言うべきか・・・である。

またこうした独占資本主義はしっかり銀行資本と連動し、金融資本を形成し、そして国際市場へと向かっているのであり、現自民党安倍政権の「株価偏重経済政策こそが景気回復につながる」とした声高な発言は独占資本主義をして国家権力をかり立て・・・と言う言葉が実にリアルに具現化しているように見えるのである。

そして世界はアメリカ発の不安定景気の真っただ中にあり、日本はその中で持たざる国の悲哀を身にしみて感じている・・・、どうだろうか、この先に何かが見えそうな気がしないだろうか、またレーニンの論からすれば、日本は今も帝国主義の中にあることも、一面の真理と言えようか・・・。

 

西暦2019年、新年明けましておめでとうございます。

本日より2019年度の投稿を開始致します。

本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

文 責   浅 田   正

「童子」

 

元弘の変により、隠岐に流された後醍醐帝・・・、ある夜帝は不思議な夢を見る。
後ろから黒い影が追いかけてきて、それは今にも帝の肩を掴もうと言う勢いであった、必死でその影から逃げようとする帝、しかしついにそれは帝の装束に手をかける…がその時一瞬にして眼前に内裏から外の庭の景色が広がり、その先には2人の古装束姿の童子がかしずいていた。
2人の童子は帝の姿に気づくと立ち上がり、さらに奥の方を手で案内していたが、その先にあるものは雷に打たれたように輝く1本の大きな楠(くすのき)だった。

やがてこの楠から閃光が発せられ、帝の後ろに迫っていた黒い影はこの閃光によって瞬く間に消失していったのである。
大粒の汗をかき、この世の終わりかと思えるように唸っていた帝は、ハッと目を醒まし考えた・・・、これはいかがしたことか・・・、もしやこれは・・・。
やがて河内の悪党、楠木正成(くすのき・まさしげ)の所へ、帝から「味方するように」と言う使者が訪れるのである。

また時は939年、「新皇」つまり新しい天皇を名乗った平将門(たいらのまさかど)・・・、彼が叔父の平国香(たいらのくにか)を殺して関東を平定し始めていた935年、将門は一人の童子に出会い、それから連戦連勝の将門の前には、いつも古式ゆかしい童子が立っていたと言われている。

そしてこちらは戦国時代、甲斐の武田信玄。
深い霧に包まれた合戦場・・・、武田軍はまだ攻めて来ぬかと待ち構えていると、やおら遠くから諏訪太鼓の音が近づいてくる、「イャー」「ハァー」霧を裂くような子供のかけ声が、太鼓とともに魔を切りながら少しずつ近づいてくるのである。
そして太鼓の音が止まり、一瞬の静寂が訪れたと思った瞬間、怒涛のように武田軍が押し寄せて来るのだ。
初めて武田軍と対戦する武将は、この諏訪太鼓と先鞭の子供のかけ声に、言いようのない恐怖を感じたと言われている。

このように古来から子供、童子は何か吉兆があるときに現れたり、または魔を裂くものとして考えられてきた経緯があり、こうした考え方の背景には妙見菩薩に対する信仰が内に潜んでいるように思うが、妙見菩薩は同時にとても禍々しい存在でもある。
それは例えて言うなら、ガラスのような危うさとでも言おうか、一発逆転の際の力は絶大だが、そこに穏やかさがない。
陰陽道の「泰山府君」(たいざんふくん)に近いものがあり、この泰山府君は人の寿命に関わる神とされているのだ。

後醍醐帝のその後を考えれば分かるだろうが、一時は天皇中心の社会を築くが、瞬く間に足利尊氏によって攻められ、吉野へ追いやられ、そこで生涯を終えることになる。
また平将門にしてもそうだが、勢いに乗じて関東を平定するが、その先に人々の願いが生かされていなかった・・・、そのことが最後、わずか400人ばかりの手勢で敗走と言う結果に繋がった。
武田信玄もまた京へ上洛と言う絶頂時に、流れ弾に当たって最後を迎え、その後武田勝頼の代には織田、徳川軍によって滅ぼされてしまうのである。

そしてこれは一般の人の例だが、1972年、岡山県赤磐郡で酒屋を営んでいた男性(41歳)が、前夜お得意先の家で話が盛り上がり遅くなった。眠くて仕方ないので、ちょっと昼寝をしようと座布団を折って枕にし、うとうとしていた時のことだ・・・・。
何やら耳元が喧しいので目を醒まして、ごろんと後ろを振り返ったが、なんとそこには枕元に立ててあった屏風に描かれている唐子(からこ・中国の昔の格好をした子供)が、絵から抜け出してみんなで踊っていたのである。

男性は唐子たちに気づかれないように薄目を開けて見ていたのだが、その唐子たちは嬉しそうに手をつないで輪になって踊っていた。
はじめは夢かと思っていた男性だが、やがて自分の眼は確かに開いていることに気づいた・・・、そのとたん言いようのない恐怖が体を駆け回り、「わあー」と大きな声を上げてしまい、これにびっくりしたのは踊っていた唐子たちである、大慌てで或る者はつまずき、或る者は走って、それでもきちんと屏風の中の元の絵に戻っていったのである。

男性はこの経験の直後、経営していた酒屋のすぐ近くに大きな道路がつくことになり、それ以降毎日大変な売上になって行き、大きな資産を蓄えることになる…が、そうしたある日、暮らし向きも楽になって使用人も雇う立場になった男性とその家族は、皆で海水浴に出かけた。
それは久しぶりの家族団欒、楽しい日のはずであった・・・、が、何とこの海水浴場で2人の子供が溺れ、死んでしまうのである。

どうだろうか・・・、このように童子を見てから以降、大変な幸運に恵まれたと言う話はとても多いのだが、それが終わると何某かの不幸も訪れていることが多い。
そこには何か幸運の対価のようなものが潜んでいるように思えるのだ。
そしてこうした話の延長線上に「座敷わらし」があり、座敷わらしは東北にその話が多いとされていて、一説では古くから冷害の多かった東北では飢饉が多く、その度に貧しい農民たちは生まれた子供が養えず、「間引き」や「戻し」、つまり生まれた子供を殺してしまうことがあった。

それがこうした座敷わらしの話にくっついて行った・・・と言われているが、座敷わらしの話は北陸や山陰にもそれが残っている。
また「座敷わらし」はその家に住み着いている間は家に繁栄をもたらすが、それが去ってしまうと、その家は貧しくなるとされていて、どうもこれは幸運もつかさどるが、同時に不幸もつかさどる存在に思え、そうした点から童子に姿を変えた妙見菩薩とも通じているようにも思える。

貧乏神は自分が去ることでその家に繁栄が訪れる、つまり貧乏神はまた幸運にも関与しているのと同じようなニュアンスが感じられ、漠然とだが「庚申待ち」のような疫病や、寿命と言うものに対する恐れのようなものも感じてしまうのである。
すなわち、あまりにも強大な野望や情念はその思いの大きさゆえに禍々しく、しいてはそれが自身に跳ね返って来やすいものだと言うこと、また心穏やかに平凡に生きる、つまり、大きな野望によって寿命を失うよりは、命を長らえることをして幸福、勝利とせよ・・・と言うことを表しているように思う。

そしてこうした思いの遠い先に、いずれも古代神話の「破壊と創造」の概念が待っているような気がしてしまうが、どうだろうか・・・。

 

※ 本投稿を以って2018年度の投稿は終了致します。

次年度投稿は1月3日から開始予定です。

この1年間、記事を読んで頂き、有り難うございました。

良い年の瀬、良い新年をお迎えください。

文責 浅 田  正

「ベツレヘムの星」

クリスマスツリーの頂点に大きな星が飾られるが、この星は名前がある。
「ベツレヘムの星」といい、キリストが生まれることを知らされた学者達が集まった場所、まだキリストが生まれた場所である。
奇跡の星がキリストの生誕と共に現れ、ナザレから160キロもロバに揺られてベツレヘムに着いた聖母マリアは、たまたま泊まろうとした宿が満室、仕方なく馬小屋(正確には家畜小屋だが)に泊まっていたが、この星の出現と共にメシア(キリスト)を産むのである。
ツリーの頂点に飾られる星はこのベツレヘムの奇跡の星を意味している。

またクリスマスはキリストの生誕を祝う日だが、新旧どちらの聖書にも、その元になった死海写本にも、キリストの誕生日は具体的に記されていないが、4世紀に西方教会でキリストの誕生日は12月25日と初めて決められたようであり、東方では1月6日となっている。
さらに本来なら西暦はキリストの生まれた年を0年としていなければならないのだが、
キリストは紀元前4年に生まれたことになっている。
これに付いてはそれまでローマ帝国の暦がローマ市創建を起算日としていたものを、キリスト教をローマ帝国の世界宗教としたとき、皇帝の命によってローマ暦からキリスト暦に置き換えたのだが、そもそもローマ市創建日が間違っていたことから、キリストの生誕年が紀元前になってしまったのである。

イエスは幼年期、大変貧しい暮らしにあり、7人兄弟の長男として家族の生活を支えていたようであり、1部外典の福音書ではイエス幼年期の奇跡談が載せられているものもあるが、これらの信憑性は極めて低い。

イエス幼年期の記述は聖書では少なく、特に12歳から30歳までは空白になっているが、マリアはイエスに彼の父がヨセフである事は告げていたが、神の子とは告げていなかった。
マリアは受胎告知を受けていたから、本来イエスにこのことを話すべきだったが、これを幼年期のイエスが逆にマリアに指摘する場面がある。

イエスは「自分の父の仕事に携わる」とマリアに告げ、マリアはこれに動揺するのだが、この記述ではイエスはヨセフの仕事を継ぐのか、神の仕事を継ぐのかは分からないはずだが、これを記述したルカは後者であると判断して、マリアが動揺する場面を書いている。
しかし、マリアはどちらか分からなかったのではないだろうか、ただ未だに告げていない真実の、その影に動揺したと言うのが正しいように思う。

またイエスは聖母マリアに対しては極めて醒めたもの言いをしている。
即ち、母を器に過ぎないと言うようなことまで言っているのだが、片方で罪深い女、後にカタリ派がキリストとこの女の子どもがいるとした、マグダラのマリアには極めて寛容かつ、大きな役割を与えるのだ。
そして・・・・ああそうだった、クリスマス・イヴだった、今日はこの辺でやめておこう、そしてキリストの生誕を祝おう。

明日はクリスマス、この日ばかりは地上に争いがありませんように・・・

皆が幸せでありますように、そしてこの世が優しさで満ち溢れますように、

誰も人を憎まずにすみますように・・・・、Alleluia,Alleluja.